限られた陽だまりの中③


 緋色に染まる空は夜の闇に飲まれつつあった。浮かぶ雲は空高く漂い、天に翼を広げる夜鳥は星空を背負って自由気ままに飛びまわる。


 それを羨んだことは数知れない。


 見上げた顔を水平に戻すと広がっているのは荒涼とした大地。廃墟と成り果てた建造物やその瓦礫からは、かつて栄えていたであろう過去の文明が感じられた。



「世界のどこに行っても『神滅大戦』ディオスマキナの爪痕が残っているのね」



 身の丈ほどある銀の長髪が風になびく。その髪を押さえながら背後にある都市を一瞥した。


 高さ三十メートルはあろうかという防壁。その向こう側に見えるのは天を衝くほど高い摩天楼の数々。栄華と文明の象徴。目の前に広がる大地と対称的な繁栄の世界。



「理想郷『アルカディア』。ここにいるって話だけど……さて」


(都市に入る方法は考えてあるの?)



 周囲に誰もいないにもかかわらず自分に話しかけてくる声があった。聴覚ではなく脳が直接捉えた声。



「検討中よ」



 響いてきた声に少女は苛立ったように答えた。都市を出入りするためのゲートをため息つきながら睨みつける。あれが堅牢であることは容易に想像がつく。


 都市に入るにはあのゲートの中で審査を受けなければならないらしい。


 審査。嫌な響きだ。


 少女の手が無意識に右脚へと伸びた。肌を隠すように広範囲に渡って包帯が巻かれた右脚。



(審査って何するんだろーね。手荷物検査とか身体検査かな。それだと転生体だってことがばれちゃうかも)


「門前払いならまだマシだけど、下手すれば拘束されるかもしれないわ」



 転生体とは魔獣と等しくこの世で忌み嫌われている存在。味方などなく誰にも信用されない人類のはぐれ者。周りは敵かいずれ敵になる者だけ。


 その中で絶対に裏切らないのは自分しかいない。



(じゃあどうするの? 私の力を使っちゃう? かなり高い外壁だけど頑張れば登れないこともないと思うよ)


「侵入対策してあるに決まってるでしょ。バレたら復讐どころじゃなくなるわ。目的が果たせなくなるわよ」


(それは困るなぁ。せっかく居場所を掴んだってゆーのに)


「そんなことで約束を反故にされたらあたしも困る」


(そんなことしないよー? ちゃんと全部が終わったら約束は絶対に守るから)



 どうだか。


 信用は出来ない。しかし信じるしかない。それが腹立たしい。



「なら無駄口叩いてないで中に入る方法を考えて」


(はーい)



 間延びした声にイライラしつつ、少女は遠目にゲートを眺めた。



「結局、理想郷も他と同じってことね」



 ほんの少し期待していたんだけどな、と少女は声にならない息を漏らした。


 理想郷とまで呼ばれる場所なら転生体の自分も受け入れてくれるのではないか。居場所を作ることができるのではないか。そんな淡い期待を抱いていた。


 しかし身体検査を行っているのなら転生体が都市に入らないかチェックしているということだ。転生体だと判明したら拒絶されるのだろう。


 小さく肩を落として諦観に浸っていると、視界の端で生き物が動いたのを捉えた。



「近くに魔獣がいる。ちょうどいいわ。路銀も尽きかけてるからここで狩っておきましょ」



 二百メートルほど離れたところに二体。黒い体毛に覆われた四足歩行の動物。魔獣として体格はそこまで大きくない。しかし大型犬ほどはある。


 頭を切り替えるにもちょうどいい。



『黒狼』フローズヴィトニルね。単体ならランクEだっけ」


(群れからはぐれたのかな。まだ近くにいるかもしれないから大きな音は立てないようにね)



 ランクはその魔獣の危険度を表す。ランクSからランクFまであり、ランクSに近いほど危険度は増す。ランクDまでが一人でも対処可能とされる目安だ。


 『黒狼』フローズヴィトニル単体のランクはEだが、群れられるとランクCに跳ね上がる。群れ相手となると一人では危険ということだ。


 手にしていた旅の荷物を足元に置き、深呼吸を一つ。それから息を止めて自身の中に意識を埋没させていく。


 深く、深く、ずっと深く。肉体という器の底。魂のさらに奥底へと手を伸ばすイメージ。


 自分ではないモノがそこに在る。神々しさを感じさせる力の塊。自分は望んでおらず、世界にとっても不要なモノ。しかし眼前にあれば誰もが手を伸ばしてしまう強大な力。


 神の力。


 右足に巻かれた包帯の下から青白い光が浮かび上がった。包帯から透けて見えるそれは幾何学的な形を成す神性の刻印。


 神名。転生体の身に刻まれた神の呪い。



「来なさい――【白銀の断罪弓刃】パルティラ



 虚空に左手を差し出すとそこから瑠璃色の輝きがほとばしった。光は瞬く間に収束し、何かを象ると共に質量を獲得する。


 顕現したのは白銀の弓。


 弓に本来あるべきしなやかさはなく、あるのは緩やかな曲線を描く曇りのない刃。鏡のような刀身が月光を浴びて煌めく。


 魔力で編まれた弦を引き絞る。その動きに合わせて矢が生成された。



(【造形】魔術だいぶ上手くなったね。次は連射できるようになるのを目指そっか)


「気が散るわ。黙ってて」



 このような力の使い方など上手くなりたいとは思わない。それでもこれに縋らなければ一人で生きていけない。そのジレンマが余計に自分を苛んだ。


 標的を見据える。狙いは胴体。深呼吸。息を細く吐き、肺を空にしてから呼吸を止める。


 射る。弓では有り得ない初速を以って矢が疾走する。二百メートルの大気を貫き、一直線に標的の頭を吹き飛ばした。



(すごいすごいっ。大して動かない標的ならこの距離でも当てられるようになったねっ)



 脳内の拍手喝采を無視して次弾を構える。


 もう一体の『黒狼』フローズヴィトニルがこちらに気づき、猛り狂って向かってくる。絶え間ない吠声は仲間をやられた怒りか、それとも別の何かか。


 知ったことではない。


 次弾を放つ。矢は『黒狼』フローズヴィトニルがすでに走り抜けた場所に突き刺さった。舌打ち。



(動いている的に当てるのはまだ難しいかぁ。もっと引きつけてから撃ったほうが良いよ)


「わかってる!」



 すぐさま三本目の矢を【造形】。距離は五十メートルを切っている。狙いもそこそこに放った矢は標的からわずかに逸れた。


 四本目の矢を【造形】しようとして――やめた。近すぎる。この間合いでは外したときに即応できない。


 弓を両手で持ち直して刃を寝かせる。目の前まで近づいてきた『黒狼』フローズヴィトニルがこちらの喉笛を食いちぎるためにあぎとを開いて飛びかかってきた。



「やああああっ!」



 それに臆することなく前方に跳躍。牙をかわしてすれ違い様に刃を振り抜いた。


 肉や骨を断ったとは思えないほど軽い手応え。しかし振り抜いた刃は確実に黒狼フローズヴィトニルの左前後の足を切り飛ばしていた。


 足半分を失った『黒狼』フローズヴィトニルは着地に失敗して地面に激突。それでも怯んだ様子はなく、足を失ってなお標的に襲い掛かるべく地面を這いずっていた。


 これこそが魔獣の凶暴性の証明だ。四肢を欠損しながら衰えない攻撃性。理性を宿さないこの目には敵しか映さない。


 足元に這ってきた『黒狼』フローズヴィトニルの首をねる。痛みもなかっただろう。魔獣は断末魔だんまつますら許されず息絶えた。


 絶命と同時、亡骸なきがらがボロボロと崩れていく。七色の粒子がふわふわと胞子ほうしのように漂い、風にさらわれて消えていく。その幻想的な光景はまるで魂が天に昇っていくかのよう。


 あとに残ったのは粒子と同じ輝きを放つ拳大の結晶が一つ。


 これが魔獣の末路。大量の魔力素マナを取り込み、突然変異を起こした生命は死を迎えたときに魔力素マナに還る。骸すら残らず塵となって世界に溶けて消えてしまう。残されるのは魔力素マナ結晶と呼ばれるたった一つの石ころだけ。


 とてつもなくおぞましい。


 覚えた寒気に身震いしながら足元に転がる魔力素マナ結晶を拾い上げた。



(小さいけどこれ一つで一日分の宿代くらいにはなりそうだね)



 先に矢で貫いた方の『黒狼』フローズヴィトニルもすでに霧散している。それを回収したところでせいぜいが二~三日分だろう。しかしないよりマシだ。



「換金するにはどっちにしろ都市に入らないといけな――――っ!?」



 閃光と轟音。呟いた声は突然の音に掻き消された。凄まじい衝撃が腹の底にまで響き、迸った閃光が視界を白く焼き尽くす。



「よもやこのような場所まで足を伸ばしているとはな。足跡を辿るのに苦労したぞ」



 白の世界で聞き慣れない男の声が聞こえた。


 ほどなく視力が回復したとき、立っていたのは金髪の男が一人。紫を基調とした和装に身を包み、猛禽を思わせる金色の瞳が少女を見据えている。



「アルフェリカ=オリュンシアと見受けるが如何いかに?」



 全身が粟立った。男から垂れ流されるおぞましい気配。どす黒く、醜く、汚い。べったりとこびりついて消すことのできない醜悪しゅうあくな香り。


 罪業の香り。


 震えるな。臆するな。感情を表に出すな。弱みを見せたら付け込まれる。



「……聞き慣れない名前ね。人違いじゃないかしら」


「ふむ、そうであったか。身の丈ほどもある美しい銀色の長髪で、夜明け前の空を思わせる瑠璃色の瞳を持ち、整った顔立ちはすべての男が振り返るほどの美女、と伺っていたのでな。汝の容姿は我が聞いていたそれにとても近いのだが……」



 加えて、と男は続ける。



「白銀の弓の『神装宝具』を持つ転生体だと聞く。汝の手にあるものはまさしくそれであろう?」



 見透かされている。誤魔化しても意味はない。この男は初めから自分のことを知っている。



「何者なの?」


「我の名はザルツィネル。天雷てんらいを司る神である。肉体は人間のものであるが故、この時代の者どもは我のことを覚醒体とも呼ぶようだ。我は気に留めん。好きに呼ぶと良い」



 頭の中で警鐘が鳴り響いた。ヤツに関わるなと本能が逃走を訴える。



「それで、あたしになんの用なの? まさか口説きに来たわけでもないでしょう」


「そのまさかだ。それほどの美しさ。傍に置いて愛でたいと思うのもおかしな話ではあるまい?」



 聞こえた声に黒いモノを感じた。



「見え透いたお世辞をどうも。で、嘘ついてまで隠したい目的を聞かせて欲しいんだけど?」



 そう、嘘だ。男の言葉には嘘がある。この男にはもっと別の目的がある。


 アルフェリカの言葉に和装の男――ザルツィネルは感心したように目を丸くした。



「ほう、言葉の真偽を量れるのか。なるほど。汝は審判者の転生体だったな。その力も当然というわけだ。ならば多くは語るまい。我と共に来てもらおうか」


「誘い文句としてはイマイチね」



 本能の警鐘を無視し、アルフェリカは【白銀の断罪弓刃】パルティラを構えた。いまこの場で逃げたとしても必ずこの男は追いかけてくる。覚醒体に追われたとあっては命がいくつあっても足りない。


 相手は覚醒体。人間の身体を持つ神。


 だがこちらは転生体。神の力を持つ人間。


 条件だけなら五分。



(余計な動作は要らない。無動作で最短距離で刃を心臓に突き立てて。外れても胴体のどこかに刺されば致命傷にできる)



 指示から行動は一瞬だった。最短距離でザルツィネルに肉薄。【白銀の断罪弓刃】パルティラを心臓めがけて突き出す。



「むっ?」



 不意を突いた。加減など一切しなかった。


 疾風にも勝る必殺の刺突。それをザルツィネルはわずかに身を逸らしただけで躱し、刃と共に突き出された右腕を掴み取った。



「これは驚いた。なかなかの思い切りの良さだ。泣き叫ぶばかりだったあの小娘が随分と変わったものだ」


「どういう意味?」


「そう怖い顔をするな。実験台の上で喚いていた頃に比べると強くなったと褒めておるのだ」


「……え?」



 過去が脳裏をかすめた。


 暗い部屋。冷たいベッド。得体の知れぬ薬品。器具が鳴らす電子音。天井から降り注ぐ白い光。自分を犯す無数の術式。向けられる冷たい視線。


 忘れ去りたいモノ。思い出したくないモノ。目を逸らしたいモノ。最も自分から遠ざけたい記憶が感情と共に押し寄せてきた。


 呼吸が乱れる。手足が震える。指先が冷たくなっていく。目の前が徐々に暗くなっていく。



(気をしっかり持って! あなたはもう自由を手に入れてる!)



 響く声には焦燥が滲んでいた。それに縋りつくことで何とか踏みとどまることができた。


 だがその努力を次の一言がいとも簡単に打ち砕く。



「そうだ。我は『魔導連合』からやってきた。逃げ出した実験体を捕えるためにな」


「……あ、あぁっ……」



 心身犯される凌辱の日常。幾度も蹂躙され続ける苦痛の日々。


 忘れたい。だけど忘れられない。心につけられた傷が切開されていく。


 震える指先から【白銀の断罪弓刃】パルティラ滑り落ちて音を響かせた。


 それは心が決壊した音でもあった。



(アルフェリカ! しっかりして! アルフェリカ!)



 必死の声はもう聞こえていない。カチカチと歯を鳴らしながらぺたりと尻もちをつき、金色の瞳に覗き込まれているだけで身体がすくみあがる。



「名を聞くだけで折れるか。とても『ソーサラーガーデン』で百を超える人間を斬って捨てた者と同じとは到底思えぬな。まあよい、せめてもの慈悲だ。怯えるくらいなら、しばし眠るとよい」



 口にした言葉とは裏腹にザルツィネルは嗜虐的に口角を吊り上げた。その魔手がアルフェリカへと伸びる。


 異変が起きたのはその時だった。


 アルフェリカの身体に幾何学的な文様が全身に浮かび上がり、青白い光が激しく明滅する。


 そして視認すらできるほど濃密な魔力が瑠璃色の風となって吹き荒んだ。


 アルフェリカの意識は沈み、代わりの意識が浮上する。



「じゃー、あなたもその一人に加わってみる?」

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