プロローグ・Ⅲ
翌日の雲のない夜空に二つの月が重なり、弧の頂点に位置する頃。バレッドとその部下たちは魔方陣を取り囲むと淵に両手を置いて合図を待った。
「…始めるぞ」
バレッドは小さくつぶやいて、魔力を腕を通じて魔方陣に流し込んだ。部下たちも魔力の合図を感じ取って一斉に流し込んだ。
魔法陣もそれに呼応するかのように青白い光を放ち始める。最初は一番外周の円から、次に文字列、円、文字列と進んでいき、最後に中央に描かれた巨大な六芒星からも光が溢れだす。中心の玉はより一層輝きを増し、目も眩むほどの強い光を放っていた。
部下の中から感嘆の息が漏れる。おそらく、この儀式は――いや、この大儀式は歴史に名を刻むだろう、と。名前こそ残らないだろうがエルンにとって、世界にとって類を見ない偉業に参加したのだと、そんな気持ちが胸を満たしていく。
幾何の時が流れただろうか、許容量を超えた器から水が溢れるように――いや、水圧に負けたダムが決壊するが如く魔力が放出される。
「魔神よっ!!」
バレッドが叫ぶ。
「我らが呼び声に応え、その姿、現したまえ!!!」
白い光で世界が覆われ、流れをせき止めていたものが壊れたように魔力が一気に開放された。その衝撃は凄まじく、目も空けられないほどの暴風が吹き荒れた。
「むぅ……!」
ゆっくりと腕を下ろし、周囲を見渡すが一面が濃い霧で覆われていた。儀式の成否は謎のままだ。不安が頭を過ったが
「バカな……」
周囲に散らばる部下以外の生命反応をまるで感じられず、それが意味することは儀式の失敗だった。かつて無いほどの喪失感がバレッドを襲う。
「うぅ……」
呻き声が聞こえ、足元に目をやると紋章付きのローブを着た男が倒れていた。
「大丈夫か?」
彼を支えて傷の有無を確認をするが、出血は無い。どうやら極度の魔力切れと先ほどの衝撃により気を失っているだけのようだ。
バレッドの声に反応したのか近くにいた数人の部下たちが周りに集まりつつあった。不安から首を動かしてキョロキョロと様子をうかがっている。落ち着きのない小鳥のような動きにため息が出たが、仕方のないことにも思えた。
「クアイン様……」
部下の一人が口を開く。たしか、探知能力に優れている者だったはずだ。ここである考えが頭に浮かんだ。もしかすると、動揺していたためにバレッド本人も無意識で探知範囲を狭めていた可能性がある、と。
試してみる価値があると踏んだバレッドはその部下を指さして命令を下す。
「お前、この辺りを探れんか?」
「えっ? 対象はどうなさいますか」
「草や木も、生物すべてじゃ!」
「わっ、分かりました! やってみます!」
彼はたじろぎながらも正しい手順で詠唱を行い、魔法を編むようにして行使した。
「……どうだ?」
「全体は掴めませんが…これは、建物? ……む、村のようなものがあります」
バレッドは僅かに目を見開き、顎に手を置いた。魔神などの生命体などがいるかどうかを聞きたかったのだが、予想外の『村』という言葉に驚かされる。仮に儀式が失敗して村を呼び寄せたというのならそこの住人はどこへ行ったというのか。
目を細めて霧の中を睨む。微かに、霧の切れ間から巨大な影がチラリと見える。角張った特徴的な形から建造物であると推測できた。
あれは、門、か?
村の詳細を聞こうとした時、遠くの方から叫び声がした。周囲の温度がガクッと下がったような気がする。部下たちは冷や汗を流し、身震いする者さえいた。
ゆらり、と霧の中の影が動く。部下であれば真っ直ぐに近づいて来るはずだ。バレッドはすかさずサーチを無詠唱で発動させる。しかし影が見えた方角から反応は無い。
確実に自分たち以外の何者かがこの場に存在している。だがなぜ索敵に引っかからないのか。もしかすると儀式は成功し、呼び出せた魔神が遥か上位の存在であるため反応がないのではないか。
様々な憶測がバレッドの脳内を駆け回る。気がつけば自身の汗を吸い取ったローブが重みを増している。寒さではない身体の震えに否が応でも理解せざるを得なかった。
恐怖……か。このワシが。
静寂の数秒後、息を整えたバレッドが口を開く。
「そこに御座は魔神様でしょうか、我らは従順なるあなた様の下僕。どうか我らの願いを聞き届けて頂きたい!」
霧の中の存在に向かって大声で叫ぶ。賭けに出たのだ。まだ儀式は失敗に終わった確証はない。成功していたとするなら、上位の存在に対して不敬を働いていたことになる。村ごと召喚できたのなら驚きこそすれ、喜ばしいことではないか。
元々、失敗した時の策としてこのような敵地で儀式を行ったのだ。ここで命を落とすことになっても怒りの矛先が
「ぎゃぁああああああ!」
今度はかなり近い場所で叫び声が聞こえた。これは悲鳴だ。断末魔が響き渡った。魔神を呼び出したのだ、多少の犠牲は仕方ないだろう。
断末魔は霧に吸い込まれ、今聞こえた悲鳴が幻聴かと疑ってしまうほどの静寂が訪れた。部下たちは頬を引きつらせ、半歩
バレッドが再び口を開こうとした瞬間、『村』の中心と思われる方角から重く響く音色が聞こえてきた。かつて戦場で耳にした開戦の合図のようにも思える。同時に霧に潜んでいた影が一斉に動き出した。
バレッドは跪く。もしかしたら召喚したタイミングが悪かったために彼らの逆鱗に触れてしまったのではないかと考えながら必死に謝罪の言葉を述べる。
「っ勝手にお呼びしたにもかかわらず申し訳ございません、皆様方のお怒りはもっともでございます! しかし、どうかお怒りを鎮めていただきたく――」
「クアイン様! っ……」
部下の一人がバレッドの前に出て、全身が硬直した後、力なくダラリと腕を下げた。血飛沫を上げながら倒れていった死体を尻目に何が起こったか察したが謝罪を止めることはなかった。
バレッドの声は決して小さいものではなかったが、その喧騒の中においてはただの一部にしかならなかった。
部下の中には魔法で抵抗しようとした者もいたが、術が発動する前に絶命している。
やがてバレッドの目の前で一つの足音が止まった。足音が止まったと理解できる程の静寂に戻っており、後ろで
バレッドは脂汗まみれの顔をゆっくりと上げた。数人の部下の死体と、その横に立つ者の足が目に入り生唾を呑み込む。
ゆっくりと視線が上がっていくにつれ、相手の容姿がはっきりとしていく。足先、膝、腰、腹、胸、角が二本の頭、どれもバレッドが一度も目にしたことのない朱を基調とした外皮で覆われていた。手には片刃の剣を握っており、滴る赤い液体が部下の命を奪った武器であることを証明している。
相手を正面から見据え、目が合う。朱に染まった顔は固められた表情とでもいうのか、まるで人工的に作られた被り物のように思えた。その刹那、瞳の奥にバレッドたちと同じ畏怖のような感情の揺らぎを見た。
バレッドは少し眺めてからやがて一つの結論にたどり着く。
「まさか、にん、げん………?」
激しい衝撃に襲われた。外皮だと思い込んでいたものは今までに見たこともない鎧であり、悪魔を連想させた二本の角も防具の一部に過ぎなかったのだ。魔法による探知ができなかったのはこの鎧の特殊効果なのかもしれない。
後悔とも屈辱ともとれる感情が混ざり合い、やがてバレッドの中で明確な殺意が湧きあがった。
自分の五年間はいったいなんだったのか、こんな者たちを呼ぶために費やしたのではないと、怒りとともにバレッドの顔が歪む。魔力を集め、座標を目の前の相手に固定する。
「死ねぃ!
バレッドが得意な火属性を有し、相手の体内を焼き尽くす実体を持つ生物ならほぼ即死の攻撃魔法である。
万が一、鎧に
しかし発動後も鎧の者が苦しむ素振りはなかった。それどころかバレッドの殺意を感じ取り、剣を構えながら向かって来ている。
何故、と考える間もなく眼前に迫った鎧の者の剣がバレッドの心臓を貫いた。
「バカな!? ま、魔法が………………と……」
バレッドが全て言い終わる前に剣が引き抜かれ、鈍い銀光が首元を一閃する。視界の端に映るのは自分の身体。
首を失った胴体は力なく倒れ、鎧の者は次の獲物を探すために再び足を動かし始めていた。
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