Chapter 6. 不安の予兆と旅の剣士

 それからまた、幾日かの時が過ぎた。

 仲直りを果たした二人は以前にも増して親密な関係を築き、平穏に日々を過ごしていた。あの出来事を経てからというもの、翳りのあったフィアの表情にも日に日に笑顔が戻りつつある。


 フィアをリジーたちと引き合わせることについては、次に開かれるルークスの教室を待つことになった。

 ロットからの報告を聞いたペトラは「今すぐにでも会いたい!」と息巻いたものの、まずは心の準備がしたいというフィアからのたっての意思を尊重することにしたのだ。


 泉のほとりで過ごす二人だけの時間は、じきに終わりを告げる。これから先はリジーたちも一緒になって、賑やかな毎日を過ごしていくことになるだろう。

 ようやくフィアが村の一員として馴染んでいけるということに嬉しさを覚える反面、どこかで寂しいと感じる自分がいることをロットは自覚せざるを得なかった。


「ロット、ちょっといい?」


 いつものように森へと出かけようとしたロットを呼び止めたのは、母親のアニスの声だった。


「どうしたの、母さん?」

「市場で買い物をしてきて欲しいのよ。ちょうど今、手が離せなくて」

「……オレ、これから用事があるんだけど」

「用事っていっても、森へ遊びに行くだけじゃないの。どうせまた、フィアちゃんに会いに行くつもりなんでしょ?」


 図星を指されて気恥ずかしそうに顔を逸らすロットに、アニスはため息交じりの苦笑を浮かべながら手に持っていた藤のかごを手渡した。


「お使いを済ませたら、遊びに行ってきていいから。お願いできるわよね?」

「……わ、わかったよ」


 有無を言わさぬ母親の迫力に押されて玄関のドアをくぐると、清涼な朝の空気が胸いっぱいに満ちていく。見上げた空は雲ひとつなく晴れ渡り、吸い込まれてしまいそうな青一色だ。

 今日もいい天気になりそうだと思いつつ、ロットは村の目抜き通りへと足早に向かうことにした。


 雑貨屋や市場が立ち並ぶ村の広場は、同じように買い物にやって来た人たちで賑わっていた。

 人の往来自体は少ないものの、あちこちで呼び込みをする声や値切りの交渉に熱を入れる買い物客の活気に満ちた声がする。思えばこうして市場に顔を出すのも、随分と久しぶりのことだ。


 なじみの露店で言い付けられた買い出しを済ませたロットは、逸る気持ちを抑えながら市場を後にした。

 自宅へ続く緩やかな並木道をまっすぐ進んでいくと、やがて開けた分かれ道へと辿り着く。通い慣れた三叉路の中心には、見慣れない人影が腕組みをしながらじっと佇んでいた。


 腰まで届く黒髪が印象的な女性だった。歳は二十代半ばくらいだろうか。丈の長い革製の旅装束と効率的にまとめられた荷物が、彼女が旅慣れた人間であることを雄弁に物語っている。

 その装いの中でひと際異彩を放っていたのは、彼女が腰に佩いている長剣だった。緩やかに湾曲した刀身は、ロットが今まで見たことのない独特の形をしている。


 少年の姿を認めるなり、旅の女剣士は片手を挙げて彼に手招きをした。凛と澄んだよく通る声に呼び止められ、戸惑うロットに彼女はにっと快活な笑顔を向ける。


「ねえ。あなた、この村の子よね?」

「え、ええ。そうですけど」

「ちょっと道を聞きたいんだけど、いいかしら?」


 その笑顔から敵意や悪意のようなものは感じられない。むしろ、人好きのする朗らかな笑みには親しみすら覚えるほどだ。

 しかし、それと同時に相対する女性がまとっている気配には、どこか他人を圧倒する凄みのようなものが感じられた。


 ――例えるならそれは、森の奥に潜む巨大な魔獣と出くわしてしまったような感覚。

 身体を強張らせて警戒心を露わにするロットの様子に、女剣士は苦笑いをこぼしながら肩を竦めた。


「そんなに怖がらないでよ。別に取って食おうって訳じゃないんだから」

「……すみません」

「ん、よろしい」


 恐縮するロットの肩に、彼女は気さくに笑いながらぽんと手を置いた。それでも依然として、女性に対して感じる緊張感を完全に拭い去ることは出来なかった。ロット自身、何故これほどまでに警戒心を抱いているのかがわからない。

 そして次に女剣士が発した言葉は、ロットを更に驚愕させるものだった。


「ああ、そうそう。それで聞きたいことなんだけど。この村に、“湖畔の水鳥亭”って宿屋がないかしら?  あたし、そこに行きたいんだけど」


 どうして彼女は、フィアの住む宿屋を尋ねようとしているのだろうか。

 そんな風に考えた後、即座に思い直す。旅人であろう目の前の女性が、村に唯一ある宿屋を探しているというだけなのだ。当然といえば当然のことではないか。

 自分をそう無理矢理に納得させると、ロットは努めて平静を保ちながら“湖畔の水鳥亭”までの道順を女剣士に説明した。


「やー、助かったわ。泊まる場所がわからなくて困ってた所なのよ」

「宿屋までお送りしましょうか?」

「それには及ばないわ。そっちだって、お使いの途中なんでしょう?」


 ロットの申し出をやんわりと断ると、女剣士は手をひらひらと振りながら去っていった。

 彼女の後ろ姿を見送りながら、ロットは自分が大量の冷や汗をかいていることに気付く。その姿が完全に見えなくなった後も、彼の中から得体の知れない不安が消え去ることはなかった。


  ◆


 お使いを済ませたロットは森へと向かったが、いつもの泉のほとりにフィアの姿はなかった。しばらくその場で待ってみても、一向にやって来る気配がない。


 それならば直接フィアの家へ行けばいいはずなのだが、今日に限ってはそうすることがどうしても躊躇われた。

 もし“湖畔の水鳥亭”へ足を運べば、先ほどの女剣士と鉢合わせしてしまうかもしれない。そう思うとロットの足は竦んでしまい、一歩たりとも動けなくなってしまったのだ。

 久しぶりの宿泊客がやって来たことで、彼女自身も接客に駆り出されているに違いないと結論付けて、ロットは重い足取りで家路についた。


 その日の夜、ロットは高熱を出して寝込んでしまった。

 あの女剣士に対する不安は、夢の中でもなお少年の心を苛んだ。混濁する意識の中で、ぐるぐると答えの出ない思考が繰り返される。


 結局、あの女剣士は何者だったのか。

 何もないはずのこの村の、フィアが住んでいるあの宿屋に、どうしてわざわざ彼女が訪ねて来たのか。

 フィアとその父親。旅の女剣士。それぞれに関係などないはずなのに、何故かそれがただの偶然と片付けられない気がしてならない。

 どれだけ考えても答えは見つからず、ロットの胸中には言いようのない焦燥ばかりが澱のように募っていく。


 気付けばフィアが、少年の目の前に立っていた。

 彼女はロットに無言で背を向けると、そのまま振り返ることなく遠ざかっていく。


「待ってくれ、フィア!!」


 どれだけ必死に呼びかけたとしても、彼女は立ち止まろうとはしなかった。追いかけようとすればするほど、その差は縮まるどころかどんどんと広がっていくばかりだ。


「オレのことを、置いていかないでくれ! フィアっ! フィアぁっ!!」


 喉が張り裂けるほど叫んでも、その声はフィアの耳に決して届かない。

 ついに少女の姿は霧の中に紛れ、その輪郭までもがぼやけて見えなくなっていく。そして、フィアの傍らで手を引いているのは――長く黒い髪をなびかせた、あの見知らぬ女剣士だった。


  ◆


 それから数日もの間、熱にうなされた後にロットはようやく体調を取り戻すことが出来た。すっかり元気になった彼の様子に、看病をしていた両親もほっと胸をなで下ろす。


 しかし、回復した体調と裏腹にロットの心の中には夢の中で見た光景が焼きついて離れようとはしなかった。

 今は少しでも早く、一目だけでもフィアの無事な姿を見て安心したい。居ても立ってもいられなくなったロットは手早く支度を済ませると、心配する母親の制止を振り切って家を飛び出していった。


 村はずれの森へと続く田舎道を息を切らしながら駆けていくと、途中で道の先からこちらへ向かってやって来る人影と遭遇した。それはリジーたちと、彼らと一緒に歩くフィアの姿だった。


「よう、ロット。思ったより元気そうじゃないか」

「ロット君! もう大丈夫なの?」

「……大丈夫そう。心配して損しちゃった」

「急に熱を出して寝込んでるっていうから、みんなでお見舞いに来たんだぜ」


 駆け寄って口々に声をかけてくる友人たちに挨拶をしながら、ロットはフィアの方へと向き直る。


「おはよう、フィ……」

「おはよう、ロット君! 熱はもう下がったの? 具合悪くない?」

「あ、ああ。ごめんな、心配かけて」

「よかったぁ! それじゃ、今からみんなで一緒に遊びに行こうよ!!」


 戸惑うロットをよそに、フィアは屈託のない明るい声をあげながら広場の方へと駆けだしていく。

 状況を上手く呑み込むことが出来ないまま、ロットは隣にいたリジーに問いかける。


「……なあ。どういうことなんだよ、リジー」

「確か、一昨日くらいだったかな。広場で遊んでる時に声をかけられたんだよ。お前、あの子から聞いてないのか?」

「フィアちゃんって、思ってたよりずっと元気な子だったんだね。わたし、すぐに仲良くなれちゃったよ!!」


 興奮気味に語るペトラの言葉に、ロットは思わず絶句した。

 自分が知っているフィアはもっと大人しくて、あんな風に誰に対しても臆することなく話しかけられるような少女ではなかったはずだ。

 人見知りで引っ込み事案な彼女をどうやってリジーたちに引き合わせたものかと内心で頭を悩ませていたというのに、これではまるで取り越し苦労ではないか。


「ほらーっ! みんな、早く行こうよ!!」


 大きく手を振りながら呼びかけるフィアの姿は、まるで別人のようだと言っても過言ではない。たった数日間寝込んでいるうちに、彼女にどんな心境の変化があったというのだろうか。


「とりあえず、オレたちも行こうぜ?」

「あ、ああ……」


 ひょいと肩を竦めたリジーに促され、ロットは釈然としない気持ちを抱えたまま友人たちと広場に向かうのだった。


  ◆


 村の広場に着いてからも、フィアは皆の中心で終始楽しげに笑っていた。

 鬼ごっこや宝探しといった定番の遊びに夢中になって、広場の片隅に生えている白樫の木で木登りに挑戦したりもした。


 すっかりリジーたちの輪に溶け込んでいるその姿は、ロット自身が心の中で望んでいたはずのものだ。だというのに、ロットは目の前の光景に感じる違和感を拭い去ることが出来ずにいた。

 子供たちと一緒にはしゃぎ回っているあの少女は、本当に自分が知っているフィアなのだろうか。実はまだ自室で寝込んだままで、長い夢の続きを見ているだけなのではないだろうか。そんな突拍子のない考えさえも浮かんでくる。


「ロット君」


 不意に呼びかけられて顔を上げると、そこにはいつの間にかそばに来ていたらしいフィアが心配そうに顔を覗き込んでいた。


「フィア……」

「大丈夫? ……もしかして、まだ調子が悪いの?」


 気遣わしげに問いかける彼女の表情は、ロットが見知ったいつものフィアのものだった。その事実にほっと安堵を覚えつつ、ロットは抱えている疑念を正直に打ち明けることにした。


「大丈夫、ちょっと考え事をしてただけだ。……あのさ、フィア。妙なことを聞いてもいいか?」

「うん。なあに、ロット君?」

「フィアは……本当に、あのフィアなんだよな?」


 質問の意図がわからずに一瞬きょとんとするも、言わんとすることを察したのかフィアはにっこりと微笑みながらロットに頷いた。


「……うん。わたしはわたしだよ。ごめんね、ロット君。やっぱり、いきなりだとびっくりしちゃうよね。変……だったかな?」


 照れ臭そうに眉尻を下げながら、はにかむような笑みを浮かべる。

 その笑顔はやはりロットが知っているフィアのもので、ようやく彼が抱いていた不安がゆっくりと消え去っていく。しかし同時に、疑問と別の心配が首をもたげ始めた。


「いや、全然変じゃないさ。でも、フィアの方こそ本当に大丈夫なのか? 何か、無理とかしていないか?」

「あはは……。実はね、自分でもそうかもってちょっと思ってるんだ」


 悪戯を誤魔化すように、ぺろっと舌を出してみせる。


「あのな、フィア。そんな風に無理に明るく振る舞わなくても、リジーたちはちゃんと受け入れて……」

「……ううん。違うの、ロット君」


 ロットの言葉を遮るように静かにかぶりを振ると、フィアは花が咲くような満面の笑みを浮かべる。それは楚々として愁いを帯びた花でなく、陽を受けて咲き誇る向日葵ヒマワリのような笑顔だ。


「わたしね、変わることにしたんだ。今までみたいに俯いてるんじゃなくて、ちゃんと前を向いて生きていきたいって決めたの。だからね、これはその為の最初の一歩」

「フィア……」


 そう胸を張って言い切る少女の瞳には、確かな決意の色が宿っていた。

 フィアの下した決断は、彼女にとって望ましいものであることは疑いようがなかった。ロット自身も、彼女が立ち直ってくれたことが素直に嬉しいと思えるのは間違いない。

 しかし、それを差し置いたとしても彼女の変化はあまりにも急峻に過ぎた。自分の預かり知らない所で、彼女の身に一体何が起きたというのだろうか。


「あのね、ロット君」


 不安に戸惑うロットの瞳を、澄みきった榛色ヘーゼルの双眼がまっすぐに捉える。


「わたし、頑張るからね。泣き虫の子供のままじゃなくて、誰かを守れるような……そんな強い人になりたいの。でもね、本当にわたしを変えてくれたのは――」


 そう言いかけた少女の言葉を、一人の女性の声が遮った。


「フィア! 今日の稽古、そろそろ始めるわよ!!」

「……はい、師匠!!」


 フィアの視線の先にいる声の主を目の当たりにした瞬間――ロットは全身の血の気が引いていくのを感じた。そこに立っていたのは、紛れもなくあの時会った黒髪の女剣士だったのだから。


「わたし、もう行かなきゃ。ごめんね、みんな。また一緒に遊ぼうね!」

「おう、頑張れよフィア」

「頑張ってね、フィアちゃん!」


 子供たちの応援を背に受けながら、フィアは女剣士の下へと駆けていった。

 力なくその場にへたり込んだロットの身を案じ、リジーが慌てて駆け寄り声をかけてくる。


「なあ、どうしたんだよロット。やっぱり、病み上がりで調子悪いのか?」

「リジー……あれ、何だよ。なんでフィアが、あいつのこと、師匠だなんて……」

「ああ、そういや知らないのか。フィアのやつ、あのおばさ……じゃなかった。あの姉ちゃんの所に弟子入りしたらしいぞ」


 リジーが言うには村に突如訪れたあの女剣士に、フィアの方から師事を申し出たのだという。その申し出を女剣士は快く引き受け、それ以来フィアは毎日のように剣術の稽古に明け暮れているのだという。


「オレたちも、最初にそれを聞いた時は随分と驚いたけどな。でも、あの姉ちゃん、実はめちゃめちゃ強いんだぜ。オレたちが束になってかかっても、指一本触れられなかったくらいだからな」

「あんなすごい人に弟子入りしたんだもん。きっとフィアちゃんも、すぐに強くなっちゃうよね!!」

「だからあの子も、わたしたちと向き合うようになってくれたんじゃないかな」


 楽しそうに話す友人たちの会話を、ロットはどこか上の空のままで聞いていた。目の前で繰り広げられている出来事に、どうしても心が追いついていかないのだ。

 ロットはよろけながら立ち上がると、俯いたまま子供たちに別れを告げた。


「……悪い、リジー。オレ、やっぱり今日はもう帰るよ」

「なあお前、顔が真っ青だぞ。家まで送っていってやろうか?」

「いや、いい。一人で大丈夫だから」

「そうか……? じゃあ、気を付けて帰れよ」


 リジーたちの姿が見えなくなると、ロットの歩幅は次第に大きく、早くなっていった。歩みから駆け足に、そして全力疾走へと変わる。様々な感情が激しく渦を巻き、心の中が千々にかき乱されていく。


 どうして。どうして。どうして。その言葉だけが脳裏を駆け巡る。


 フィアは変わった。変わってしまった。自分が寝込んでしまっている間に何があったかわからないけれど、そのきっかけがあの女剣士との出会いであることだけは紛れもない事実だった。


 彼女が立ち直ってくれたことは、とても嬉しいことのはずなのに。喜ぶべきことであるはずなのに。なのにどうしてこんなにも、胸の奥底から湧いてくる気持ちは苦しいのだろう。


「くそっ! くそっ……畜生……っ!!」


 どこにも行き場のない悪罵が、口をついて溢れだす。

 あれだけ一生懸命悩んでも、結局は何も変えることが出来なかったというのに。彼女の心の傷も苦しみも、癒してあげることは出来なかったというのに。

 何の前触れもなくふらりと村にやって来たあの女剣士は、自分にどうしても出来なかったことをあっさりとやってのけてしまったのだ。


「何でだよ……何で、なんだよ……っ!!」


 自分の無力さに苛立ちを覚え、あの女剣士に嫉妬して、フィアが立ち直ってくれたことを祝福できない自分が惨めで情けなくて、悔しくて、どうしようもなく腹立たしくて。

 やりきれない気持ちをどうすることも出来ずに、ロットはただひたすら走り続けることしか出来なかった。


 気付けば自然と、ロットの足は森の奥の屋敷を目指していた。

 自分がいま抱えている葛藤のすべてを、ルタに打ち明けて聞いて欲しかった。


「はぁ……、はぁ…………」


 やがて体力が限界を迎え、喉元までせり上がった咳き込みを抑えようとロットは足を止めた。

 肩を大きく上下させながら、乱れていた呼吸を整える。周りの景色を見回して――そして、ようやく自分の身に起きた異変に気が付いた。


「どこなんだ、ここ……?」


 無我夢中で走るうちに、ロットは通い慣れた屋敷への道を大きく外れてしまっていた。

 辺りに漂う空気は冷たく湿り、黒々とした木々の枝葉で周囲の光は遮られている。陰惨な気配が一帯に立ちこめており、温かみのあった森の景観はもはや見る影もない。


 一刻も早く来た道を戻らないと。焦りに駆られて踵を返したその瞬間、ざり、という小さな足音がした。音がした方に目を向けたロットは、引きつるような悲鳴をあげて全身を硬直させた。

 そこにいたのは小鬼ゴブリンたちの群れだった。大人たちより小柄で、それでも自分よりは背の高い妖魔。醜悪に歪んだ顔に、頭から伸びる角。弓なりに曲がった矮躯に粗末な腰布を巻き付け、手には赤錆の浮き上がった小剣を握り締めている。


「う、うわぁあああああああああッ!?」


 恐怖の余り駆けだすと、妖魔たちは久しぶりの獲物を見つけた喜びに奇声をあげながら追いかけてきた。

 すばしっこい小鬼たちの追跡は、子供の脚では到底振り切ることなど出来ない。必死で逃げ惑う少年を嘲笑いながら、じりじりと焦らすように距離を詰めていく。


 なんて馬鹿で考えなしだったのだろう。どうして今まで平気だなどと勘違いをしていたのだろう。

 人の手が届かぬ森の奥が魔境であることなど、とうの昔に知っていたはずなのに。自分なんてただの非力な子供で、妖魔と遭遇すればひとたまりもないと考えればすぐわかるはずなのに。


「……ッ!!」


 足がつんのめる感覚と同時に、視界がぐるんと反転する。熱い痛みが足首を奔り抜け、木の根に足をかけて転んでしまったことに遅れて気付く。慌てて立ちあろうとした足は激痛で動かない。転んだ拍子に挫いてしまったのだ。


「あ……。あ……ああっ……!!」


 恐る恐る振り返れば、そこには追いついた妖魔どもが群れを成していた。ロットのあげた悲鳴が仲間を呼び寄せ、さらに数を増していたのだ。

 けたたましく下卑た笑い声をあげながら、小鬼どもが剣を片手にゆっくりと近付いてくる。自分自身の死が刻一刻と迫る様を、ロットは為す術もなく見つめていることしか出来なかった。


 とどめとばかりに一斉に飛びかかろうとした妖魔の群れを、どこからともなく飛翔した一筋の閃光が轟音と共に貫いた。金色こんじきに輝く光の軌跡を宙に描きながらロットの前に降り立ったのは、深紅のドレスに身を包んだ白磁の自動人形だった。


「ア、アウラ……」


 自動人形アウラは放心するロットを優しげに見遣ると、恐慌に陥った妖魔の群れめがけて信じられないような速度で疾駆した。鋭く研ぎ澄まされた手刀が振るわれるたび、妖魔の肉体が紙細工のように引き裂かれていく。

 瞬く間にすべての妖魔を屠ったアウラは、ロットの元に駆け寄るとそっと彼の身体を抱き起こした。


「アウラ……ひょっとして、今までもずっと、オレのことを守って、くれて……?」


 無貌の自動人形は問いかけに応える術を持たない。しかし、自分が気付いていなかっただけで、今までも彼女がロットを陰ながら見守っていたであろうことは、もはや明白だった。

 わかってしまえば単純なことだったのだ。自分が一度たりとも妖魔どもに襲われることなくルタの屋敷に辿り着くことが出来ていたのは、アウラの庇護下にあったという、ただそれだけの理由に過ぎなかった。


「っ……うぐっ……あ、うぁ、あ、ぁぁ……っ!」


 一命を救われたという安堵感と、それ以上に押し寄せてくる無力感に嗚咽を漏らす。

 しがみつく身体を気遣わしげに抱き寄せるアウラの胸の中で、ロットは自分がただ小賢しいだけの子供でしかないという現実をまざまざと思い知らされたのだった。

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