Chapter 5. 彼女の涙と仲直りの焼き菓子(スコーン)

 石盤の上を石筆が走る、無機質な音が教室に響いている。

 八日ぶりに開かれたルークスの教室では、示された算術の問題に子供たちが一生懸命取り組んでいた。

 眉根を寄せながら問題に苦戦する妹を見かね、ロットが自分の石盤で数式を解きながら解説する。


「あのな、エルナ。そこは桁が繰り上がってるんだ。だから、実際にはこうなって……って、何だよリジー。オレの顔に何か付いてるか?」

「いや、何というか……お前、珍しいことしてんなって思ってさ」

「そっか?」


 それがさも当たり前というような態度で返すロットの顔を、リジーは戸惑った様子でまじまじと覗き込んだ。


「だってお前、そうやって誰かの勉強を見てやることなんてなかったじゃん。どういう風の吹き回しだよ?」

「……いや、別に。なんとなく気が向いただけだって」


 釈然としない面持ちのリジーをよそに、ロットは胸中で考えを巡らせていた。

 そう言われてみれば、これまで人に勉強を教えようなどと思ったことはなかったように思う。ここ最近はフィアと会うたび彼女の質問に答えていたので、無意識のうちにその時の癖が出てしまっただけなのだ。


「ま、いいや。そんなことよりお前、この後時間あるか?」


 気を取り直したリジーが持ちかけた誘いに、ロットはばつの悪そうな顔で言葉を濁す。


「あー……えっと、悪い。これが終わったら、ちょっと用事があってさ」

「ちぇっ、またなのかよ。お前さ、ここの所いつにも増して付き合い悪くなってないか?」

「べ、別にそんなことはないと思うけど」

「いーや、絶対にそうだ。というかお前、最近どうもこそこそと怪しいんだよな……」


 今までもルタの屋敷へ行く際に理由を付けて断ることはあったが、フィアと会うようになってからは毎日のようにそちらを優先していた。

 とはいえリジーたちに事情を説明しようとすれば、必然的にフィアとの約束を破ることになってしまう。双方の板挟みに頭を悩ませながら、ロットはどう言い訳をしたものかと思案を巡らせる。


「ふふん。ボクさ、知ってるんだよね。ロットがどこで、何をしてるのかってさ」

「なっ……!?」

「そうなのか、ハンス?」


 その時、得意げな表情でそう言ったのは、向かい側の席で頬杖をついてにやけ顔を浮かべるハンスだった。動揺を隠せないロットを尻目に、彼はしたり顔で話を続ける。


「いやー、見ちゃったんだよね。ロットが村はずれの森で、あの子と二人っきりで話をしてるのをさ」

「え、嘘っ!? あの子って、もしかして宿屋のフィアちゃん!?」

「へえ……ロット君、やるう」


 やり取りを聞きつけたペトラとフランカが会話に加わって、教室はたちまち蜂の巣をつついたかのような大騒ぎへと変わる。その場は何とかルークスが収拾を付けたものの、授業が終わるとロットは子供たちから一斉に質問攻めを受ける羽目になってしまった。


「――と、いう訳なんだ」


 とうとう観念したロットが説明するこれまでの経緯に、リジーたちはそれぞれが興味深げに耳を傾けていた。一通りの話が終わると、ハンスが含みのある笑みを浮かべながらしみじみと口を開く。


「なるほどー。それにしても、あのロットがね……」

「どういう意味だよ、ハンス」

「だってさー、いつの間にかボクらを差し置いて、ちゃっかりあの子とお近付きになってるんだもん。ロットもなかなか隅に置けないと思ってさ」

「はぁ!? ハンスお前、何を言って……」

「ああ、それにはオレも同感だ。お前もなんだかんだで、かわいい子には弱かったんだな」

「ま、待ってくれ二人とも!! オレは別に、そんなつもりじゃ……」

「えーっ、なになに!? ロット君って、やっぱりそういうことなの!?」

「……ふーん」


 リジーたちの会話に食いついたペトラが、目を爛々と輝かせながら身を乗り出す。隣で一見して無関心を装っているフランカも、話を聞き漏らすまいと聞き耳を立てて興味津々だ。

 顔を赤らめながら慌てふためくロットの背中を叩くと、強引に肩を組みつつリジーが満面の笑顔を浮かべた。


「だ、だから違うって……!」

「別に隠すことはねえだろ。それに、オレはお前のことをちょっと見直してんだぜ。お前もやる時には、ちゃんとやる男なんだってな」

「な、なな……な……っ」

「そうそう。それにロットってさ、こういう面倒ごとがあった時は絶対に首を突っ込みたがらないじゃん。そんなロットがここまでしてることが、何よりの証拠なんじゃない?」

「ねえねえ、おにいちゃん。いったいどうしたの?」

「あのね、エルナちゃん。お兄ちゃんはね……」

「フランカっ! 頼むから、妹にまで余計なことを吹き込まないでくれ!!」


 嬉々としながら耳打ちをするフランカに、たまらずロットは悲鳴じみた抗議の声をあげた。

 そうやってひとしきりの冷やかしを浴びせられた後、すっかり不貞腐れてしまったロットにリジーが改めて声をかける。


「でもま、そういうことなら話が早いな」

「何だよリジー……。まだ、何かあるのか?」

「悪かったよ、拗ねるなって。……お前さ、あの子をこの教室に連れて来られないか?」


 思いがけないリジーの提案に、ロットは目を丸くした。奇しくもそれは、彼自身が考えていたことでもあるからだ。


「オレたちもちょうど、あの子のことをどうしようか相談してた所なんだ。元を正せば、ロットに声かけたのもお前だったらいい考えがあるんじゃないかと思ったからだしな」

「リジー……」

「ね、お願いロット君! わたしたちも、フィアちゃんと仲良くしたいの!!」


 リジーの言葉を引き継ぐように、ペトラも切実な眼差しでロットに訴えかける。他の二人も思う所は同じようで、期待のこもった目でロットに注目する。

 皆の視線を一身に受けながらロットはしばし黙考していたが、やがてゆっくりと首を横に振る。


「……少し、考えさせてくれないか?」

「どうしてっ!?」

「あ、わかったぞ。ロットってば、やっぱりあの子のことを独り占めにしたいんだろ?」

「ハンスはちょっと黙ってなさい。……それってやっぱり、あの子のお母さんのこと?」


 ためらいがちなフランカの問いかけに、ロットは無言のままで小さく首肯する。

 リジーたちにフィアを迎え入れる心づもりがあるとわかったのは、ロットにとっても頼もしい限りだった。けれど、それでも彼女をリジーたちに引き合わせることについては、一抹の不安が残っていたのだ。


「……最初に会った時の、フィアの反応がどうしても気になるんだ。あそこまでみんなのことを恐れていたのは、きっと何か理由があるはずだ。だから、彼女が気持ちの整理を付けられるようになるまでは、もう少し様子が見たいと思ってる」

「そっか……それは、そうかも知れないね」

「いや、オレは違うと思うぜ」

「リジー……?」


 残念そうに顔を俯かせたペトラの傍らで、珍しく難しそうな顔をして沈黙を保っていたリジーが異議を唱えた。


「なあ、ロット。お前は本当にこのままでもいいと思ってんのか?」

「別に、ずっとって訳じゃない。ただ、引き合わせる前に……」

「お前があの子のことを、大切にしようとしてるのはわかる。だけどそれは、本当にあの子の為になることなのか?」

「どういうことだよ」

「いいか、ロット。お前がそうやってあの子を庇い続けている限り、この村でのあの子の味方はお前一人のままなんだ。それが彼女の為になるなんて、オレにはやっぱり思えねえよ」


 いつになく真剣な面持ちで語るリジーの反論に、ロットは返す言葉をなくしてしまう。リジーの言い分はもっともだった。確かにこのまま村の子供たちを避け続けていれば、フィアの孤立は深まる一方なのだ。


「……うん。こればっかりはリジーの言うことが正しいのかも。それに、わたしたちだってあの子の友達になれたら、力になってあげられることはあるかもしれない」

「そうだよ! あの子にわたしたちのことをいっぱい知ってもらって、いつか本当の笑顔になってもらうの。そしたらきっと、お母さんのことだって乗り越えられるはずだよ!!」


 フランカに続き、ペトラもリジーの意見に賛同する。傍観するハンスも相変わらずにやけた顔で、「いいんじゃない?」と気楽に相槌を打つ。

 ロットはいま一度友人たちの顔を見回すと、意を決したように力強く頷いてみせた。


「ああ、わかった。一度、フィアに話してみよう」

「やったあ! これでやっと、フィアちゃんと友達になれるんだね!!」

「もう、ペトラはせっかちなんだから」


 呆れ顔でペトラを諫めるフランカの表情も、どこか晴れやかそうに弛んでいる。

 リジーは一同を満足げに眺めると、大きく手を打ち鳴らして注目を集めた。


「よし、話は決まりだな。それじゃ、今からみんなで森に……」

「うーん、それはちょっとマズいんじゃない?」


 のんびりとしたハンスの声に遮られ、意気揚々と立ち上がったリジーが勢い余って躓きそうになる。


「何なんだよ。お前だって、さっき賛成してたじゃねえか」

「あのねえ、よく考えてみてよ。あの子はボクたちを避けてるんだよ? それなのにみんなで森にぞろぞろ押しかけたら、ますます警戒させちゃうんじゃない?」

「ぐっ……た、確かに……」

「だからさ、まずはロットに話を通してもらうんだよ。ロットの言うことだったら、彼女だってちゃんと聞いてくれるかもしれないだろ?」


 そう言うとハンスはロットに向き直り、「と、いう訳だから後はよろしくー」と軽い調子で肩を叩いた。


「……まあ、悪くない提案ね。最後においしい所だけ持っていかれたのがちょっとシャクだけど」

「やだなあ、フランカ。ボクはいつだって、みんなのことを思って行動してるんだよ?」

「まったく、言ってなさい」


 ため息をつくフランカを横目に見遣りつつ、ハンスはわざとらしく肩をすくめてみせた。

 リジーは彼らに苦笑を浮かべ、それからロットの方へと振り返る。


「それじゃ、ロット。後のことは任せてもいいか?」

「ああ、もちろんだ。……ありがとう、みんな。多分、オレ一人だったらこんな風には考えられなかったと思う」

「気にすんなよ、そんなこと」

「ふふん、もっとボクに感謝してくれてもいいんだよ?」

「ほんっと、あんたはその一言が余計なのよね……」

「お願いね、ロット君!」

「がんばって、おにいちゃん!!」


 口々に声援を送る友人たちに見送られながら、ロットはフィアの待つ村はずれの森へと向かうのだった。


  ◆


 木漏れ日の差す昼下がりの森に足を踏み入れると、ロットはフィアが待つ泉のほとりへと足早に急いだ。彼女は水辺にそびえ立つ大木に背中を預けながら、いつものようにぼんやりと泉の水面を見つめて佇んでいる。


「フィア」

「あっ、ロット君」


 呼びかける声に反応して、フィアはぱっと花が咲くような笑みを浮かべて振り返った。待ち遠しくて仕方がなかったと言わんばかりの様子で、彼女はロットに向けて小走りで駆け寄っていく。


「ロット君、遅かったね。今日はもう来ないんじゃないかって、心配しちゃった」

「ごめん。ちょっと教室で話し込んでてさ。……それでちょっと、フィアに話したいことがあるんだけど」

「話したい、こと?」


 きょとんとして小首を傾げるフィアに向き直ると、ロットはゆっくりと深呼吸をして話を切りだした。


「実はさ、その父さんの教室なんだけど……一度フィアにも、来てもらいたいと思って」

「えっ」


 その言葉を聞いた瞬間、それまで明るかったフィアの表情がみるみるうちに強張っていく。警戒をあらわにする彼女にさらなる不安を与えないよう、ロットは慎重に言葉を選びながら話を続けた。


「どうして……?」

「リジーたちがフィアに会いたがってるんだ。フィアと友達になりたいって、みんなそう言ってくれてる」

「…………」

「オレもフィアがみんなと上手くやっていけるなら、それを応援したいと思ってる。それに父さんなら、フィアが知りたい色んなことが教えられる。多分、オレが教えるよりもずっと」

「……わたしは、今までみたいにロット君が教えてくれればそれでいいよ」

「心配いらないって。フィアは不安なのかもしれないけど、みんないい奴ばかりなんだぜ。もちろんオレだって一緒に行くし、何かあればちゃんと……」

「いや」


 ロットの言葉を遮るように、小さくそれでいてぴしゃりとフィアは呟いた。俯いたままで首を横に振り、もう一度同じ言葉を繰り返す。


「……嫌なの。行きたく、ないの」

「ど、どうしてだよ? そんなにあいつらと顔を合わせるのが嫌なのか?」


 投げかけられた問いかけに、フィアは口をつぐんだまま答えようとはしない。思いの他はっきりと拒絶する態度に、ロットは思わず狼狽うろたえてしまった。

 しかし、ここで引き下がってしまえば状況が変わらないばかりか、リジーたちの気持ちまでをも無駄にしてしまう。彼女の頑なな態度に困惑しつつも、ロットは懸命に食い下がって説得を続けた。


「せめて、一度だけでも会ってみないか? 母親を亡くして、フィアが辛い思いをしていることはわかる。だけど、こうしてずっと一人で塞ぎ込んでたって、何も変わらないだろう?」

「…………」

「リジーたちは……いや、村の大人たちだって、これからこの村で一緒に暮らしていく間柄なんだ。少しでもお互いのことを知って、打ち解けていくことはきっと……」

「もう、やめてっ!!」


 これまでずっと押し黙っていたフィアの悲痛な叫びが、静寂に包まれた森の樹々に木霊した。泉の水面で揺らめいていた水鳥の群れが一斉に羽ばたき、二人の頭上を飛び去っていく。


「……どうして、わたしがここにいることを他の子に教えたの? ロット君、この場所のことは誰にも言わないって約束してくれたはずなのに」

「違うんだ、フィア。それは……」

「ロット君のこと、信じてたんだよ!? ロット君の、嘘つき!!」


 責め立てるようなフィアの言動に、ロットの胸がずきりと痛みを訴えた。話を聞いてもらえない焦りと苛立ちと悲しみが、冷静であろうとする少年の心を徐々に蝕み綻ばせていく。


「……けど、このままじゃいけないって、フィアにだってわかってるはずだろ!! これから先も、ずっとそうやってみんなを避けながら生きてくつもりなのか!?」


 溢れだした感情は、一度堰を切ってしまえば止めることが出来なかった。怯えたようにフィアが小さく身体を震わせても、言い過ぎていると心の片隅で警鐘が鳴り響いても、それでも歯止めがかけられない。


「オレはただ、早くフィアに元気になってもらいたいと思ってるだけなんだ! そうすればフィアだって、いつか母親のことを忘れられるって、そう思って……」

「――ッ!!」


 ぱんっ、と乾いた音が辺りに響き渡った。

 頬を押さえながら呆然と立ち尽くすロットのことを、フィアは頬を伝う雫を拭いもせずにきつく睨みつけた。

 初めて見る、少女の怒りに満ちた姿。一瞬にして血の気が引き、ロットは自分が言ってはいけないことを口にしてしまったのだとようやく気が付いた。


「ロット君の、馬鹿ぁ……っ」

「フィア、今のは」


 弁明の言葉をかき消すように、フィアは泣きじゃくりながら身を翻した。慌てて伸ばした手は虚しく空を切り、彼女はその場から走り去っていく。

 みるみるうちに遠ざかっていく彼女の背中を、取り残されたロットはただ黙って見送ることしか出来なかった。


  ◆


 ゆらゆらと揺れる角燈ランタンの灯りが、薄暗い書斎の壁に大きく影を落としていた。

 テーブルの上に置かれた香草茶ハーブティーのカップからは、いい匂いがする湯気が霞のようにたなびいている。それには一切手をつけることもなく、ロットは自分の手元を沈鬱な面持ちでじっと見つめていた。


「久しぶりに顔を見せたかと思えば、随分と浮かない顔をしておるのう」


 椅子に腰かけた禿頭の老人は、白く長い顎鬚を撫でさすりつつ苦笑を浮かべた。

 屋敷を訪れてから一言も発していなかった少年は、ようやっと顔を上げると今にも消え入りそうな声で目の前の人物に語りかけた。


「爺さんに、さ。相談したいことがあるんだ」

「ほう。話してみるがよい」


 フィアと喧嘩をしてしまった翌朝のこと。事の顛末をリジーたちへ正直に打ち明けることも出来ず、途方に暮れたロットが向かった先は深き森の奥にあるルタの屋敷だった。


 ある日村へとやって来た、異国の少女のこと。

 心を閉ざしたまま皆を遠ざける少女と偶然に森で知り合い、それから彼女と少しずつ親しくなっていったこと。

 そして、自分なりに彼女を助けようと手を尽くしたものの、結果として手酷く傷付けてしまったこと。


 ここしばらくの間に起きた出来事を告白する間、ルタは相槌を打つこともなく静かにロットの言葉に耳を傾けていた。

 そして全てを包み隠さず語り終えたロットに対し、老魔術師はおもむろに口を開く。


「きっとその娘は、心に深い傷を負うているのじゃろう。その傷は彼女自身が長い時間をかけながら、ゆっくりと癒していくより他にない。お主は結果を焦るあまり、彼女の傷を無理に暴こうとしてしまった。それは、わかっておるな?」

「……ああ」


 ルタの問いかけに唇を固く噛み締めながら、ロットは頷いた。


「……オレ、これからどうしたらいいのかな」

「ふむ……」


 激しい悔恨に苛まれたまま力なくうな垂れる少年を見返しながら、ルタはふっと目を細めた。


「のう、ロットよ。お主はその娘のことをどのように思っておる?」

「ッ、オレは、別に……!」


 少年は反射的に老人の顔をきっと睨み返す。しかし、ルタの表情に揶揄からかいの色はまったく浮かんでいない。

 ロットは大きく深呼吸をし、それから心の中にある葛藤をゆっくりと形に変えていく。


「……別に、あいつのことが好きだとか、そういうんじゃない。だけど、最初に見た時からずっと、あいつの悲しそうにしてる顔が頭から離れないんだ」


 固く握り締めた手をじっと見つめながら、少年は訥々とつとつと絞りだすように言葉を紡いでいく。


「今だって、あいつが悲しそうにしてると思うと胸が張り裂けそうになる。あいつに笑って欲しい。笑わせてやりたい。オレに出来ることがあるのなら、何だってしてやりたい。ただ、それだけなんだ」


 この感情をなんと呼ぶのかはわからない。それでもロットは、フィアという一人の少女の為に何かをしてあげたくてたまらなかった。

 真摯な眼差しで想いを口にしたロットの姿に、ルタは満足げに微笑みながら首肯した。眩しいものでも見るように目を細め、彼の山吹色の前髪をくしゃりと撫でる。


「しばらく会わぬうちに、いい顔をするようになったの。わしが見込んだ通りじゃわい」

「爺さん……」

「心配せずとも、お主の気持ちはきっとその娘にとって助けとなることじゃろう。今はまだ届かなくとも、辛抱強く働きかけておればいずれお主の望みは叶うはずじゃ」


 迷う所のない老魔術師の励ましに、ロットの表情が明るくなる。

 しかし、その意気込んだ気持ちはすぐにでも小さく萎んでしまった。


「けどさ……オレ、あいつにひどいことを沢山言って、いっぱい傷付けたんだ。なあ、爺さん。オレはどうやって、あいつに許してもらえばいいと思う?」


 しゅんとした様子のロットを前に、ルタは何ごとかを思案するように髭をさすった後で「よかろう」と呟いた。傍らでひっそり佇んでいた自動人形オートマータに目配せをすると、人形は速やかにあるじの意図を汲み取り、ひとつ優雅なお辞儀を残して退室していく。


「ではわしが、今からお主にとっておきの秘策を授けるとしようぞ」


 年老いた魔法使いはそう言うと、ロットに向けて悪戯っぽく片目を瞑ってみせるのだった。


  ◆


 ルタの屋敷を後にしたロットは、手土産に持たされた包みを懐に抱えながら薄暗い森の帰途を辿っていた。

 まだほんのりと温もりを伝えてくる包みの中身は、アウラが焼いてくれた特製の焼き菓子スコーンだ。


「……まさかとは思うけど、これが爺さんの言う秘策なのか?」

「うむ。その通りじゃよ」

「あのな、爺さん……真面目にやってくれよ。幾らなんでも、そんな物で釣るようなやり方で上手くいく訳なんてないだろ」

「ほほ、そう言うでない。なに、お主が誠心誠意をもって接すれば、その娘だって必ずや応えてくれるはずじゃ」


 半信半疑のロットがどれだけ問い質しても、ルタは冗談めかして答えをはぐらかすばかりだった。

 内心の不安を隠しきれないまま、ロットは森の出口へ向けて歩みを進めていく。やがて樹々が途切れ始め、背の低い灌木が並ぶ森の広場が視界に入る。


 フィアは一体、何処にいるのだろうか。“湖畔の水鳥亭”という可能性も考えられたが、やはり彼女がいる場所はあそこ以外に思い当たらない。

 半ば確信めいた予感を抱きながら足を運んだ泉のほとりには、抱えた膝に顔を埋めて座り込む少女の姿があった。


「フィア……」

「ロット君、なの?」


 投げかけられた声に肩を震わせると、フィアは伏せていた顔をゆっくりと上げた。

 目の端が充血して、うっすら赤く染まっているのが遠目に判る。

 彼女を悲しませ、泣かせてしまったのが他ならぬ自分なのだということを改めて思い知ると、少年の胸に後悔の念と疼くような痛みがはしる。


「ごめん、フィア!」

「ごめんね、ロット君!」


 限界まで張り詰めた緊張の糸を断ち切るかのように、意を決したの声がぴったりと唱和した。

 呆気に取られた顔で、二人はお互いの顔をじっと見つめ合った。ほんの少しだけ先に我を取り戻したロットは、彼女に向き直りながらおもむろに問いかける。


「どうして、そっちが謝るんだよ。悪いのはオレのほうで……」

「ううん。……わたしね、ここでずっと考えていたの。ロット君はわたしに色んな話をいっぱい聞かせてくれて、わたしのことを一生懸命に心配してくれて」

「フィア……」

「なのにわたし、ロット君にいっぱいひどいことを言って、叩いて。ロット君は何も知らないのは当たり前なのに、自分のことを、押しつけてばっかりで」

「それは違う! オレだって、フィアが苦しんでいるのはわかってたはずなのに、あんな風に無神経なことばかり言って……。だから、フィアは悪くない。謝る必要なんてないんだ」


 フィアがロットを庇うと、ロットも同じように相手を庇って謝罪した。

 そうやって、いつまで経っても平行線を辿る二人の会話に、終止符を打ったのはフィアのほうだった。


「ふふ……。それじゃあわたし達、おあいこってことにしよう?」


 無事仲直り出来たことに安堵してほっと胸をなで下ろしていると、どこからかくぅ、と間の抜けた音がした。

 赤面しながらお腹を押さえるフィアの様子に、ロットは思わず吹き出してしまう。


「どうせフィアのことだから、また何も食べてないんじゃないのか? ……そうだ、これ。よかったら食べるか?」


 アウラから手渡された手土産のことを思い出し、ロットは抱えていた包みの封をほどいた。少し冷めてしまったけれど、美味しそうに割れ口の出来た焼き菓子スコーンが顔を覗かせる。


「どうしたの、これ?」

「さっき、知り合いからもらって来たんだ。ほら、食べてみろよ」


 ロットから差し出された焼き菓子を受け取ると、フィアはおそるおそるといった様子で口へと運んだ。さくっと小気味よい食感の生地が口の中でほろりと崩れ、バターと蜂蜜の優しい甘みと香りが口の中いっぱいに拡がっていく。


「おい、しい……」

「な、うまいだろ? オレもこの人が焼くお菓子は大の好物でさ……って、フィアっ!?」


 ぽろぽろ、ぽろぽろと。

 フィアの両目からは、大粒の涙がとめどなく溢れだしていた。


「っ、ううっ……ひっく、う、ううっ……」

「ど、どうしたんだ!? もしかしらオレ、またフィアに変なこと……」

「ちが……ひっく、違う、の……。おいしい、の……これ、甘くて、すごく、おいしくて……っ」


 泣いている理由を訊ねても、フィアは黙ってかぶりを振るばかりで答えようとしない。

 堰を切ったように泣き続ける少女を目の前にして、ロットはおろおろと慌てるばかりでどうすることも出来なかった。

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