Chapter 4. 川蝉舞う泉のほとりで

 村の新たな住人である二人の訪れから、早くも数日が過ぎようとしていた。

 プラートは年老いた“湖畔の水鳥亭”の主人に代わり、給仕見習いとして宿の雑務全般を一手に引き受けていた。実直で勤勉な働きぶりは村人たちからの覚えもよく、その風変わりな風貌にも拘わらず早くも村の一員として受け入れられつつあった。


 しかし、その一方で娘のフィアは未だ村に馴染むことが出来ずにいた。

 子供たちも彼女を遊びに誘おうと根気よく“湖畔の水鳥亭”を訪れたものの、どれだけ声をかけようとも部屋で塞ぎこんだまま出てこようとしなかったのだ。

 しまいには子供たちが日ごとやって来るのを見越してか、朝からどこかへと姿をくらましてしまう有り様だった。取り付く島もない頑なな態度にリジーたちも困り果て、最終的に放っておくしかないという結論に達した。


 村に変化をもたらすと期待されていた来訪者の存在は瞬く間に口端へのぼることがなくなり、村人たちはあっけなく元の日常へと戻っていった。


 そしてロットもまた普段通りにルタの屋敷へと向かう為、村はずれの森へと足を運んでいた。

 瑠璃色の羽に覆われた川蝉カワセミが、傍らに流れる小川の水面を滑るように飛んでいく。燦々と降り注ぐ初夏の陽射しは、森の木陰に遮られることで幾ばくか柔らかく感じられた。


「…………」


 小径を行く少年の脳裏をよぎるのは、虚ろに沈んだ少女の眼差しだった。

 あの時に見た物悲しく今にも壊れてしまいそうな表情を思い返すと、胸の奥底を素手で掴まれるような心持ちがした。


 ロットはまだ、肉親を失う悲しみというものをよく知らない。

 祖父母は既にこの世を去っているが、彼らが亡くなったのは物心が付くよりずっと前のことだ。

 自分の母親のことを考えてみる。心配性で几帳面で、事あるごとに口うるさく小言を並べてくる母親を疎ましく思うこともあるけれど、それでもある日死んでしまうなどとは想像も出来ない。


 ましてやフィアとその父親は、住み慣れた故郷を捨ててまでこの遠く離れた異国の地へとやって来たのだ。村を訪れた時に見せたあの尋常でない様子からも、住んでいた場所で何かがあったであろうことは子供心に察しがついた。

 そんな彼女に何か出来ることはあるだろうか。どんな言葉をかければ、彼女の苦しみを和らげることが出来るのだろうか。今のロットには皆目見当も付かなかった。


(爺さんならこんな時でも、きっと上手く答えが出せるんだろうな)


 そうして堂々巡りになってしまう思考の渦から抜けだそうと、深く息を吐いて顔を上げたロットの視線がある一点でぴたりと止まった。


 剣の広場と呼ばれる森の境界線――子供たちは、村の大人たちから石碑より奥には足を踏み入れないよう言いつけられている――へと続く道から少し外れた場所に湧く泉のほとりに、見慣れない人影がひとつ。

 周りを樹々に隠された小さな泉ので膝を抱えて座り込んでいるのは、先刻までロットが思い浮かべていた当の本人だった。


 どうしてこんな所に、という疑問はすぐに氷解する。この狭い村から出ることなく、人の目に留まらず一人になれるような場所は限られているからだ。


(……それで、なんだってオレは物陰にこそこそと隠れてるんだ)


 反射的に身を隠した古木の陰で、ロットは独りごちる。

 泉の水面をじっと見つめる少女の沈痛な面持ちを見過ごせないと思う気持ちはあるものの、いざ声をかけるとなるとどう接していいか分からずじまいだった。

 しかも一旦身を隠してしまったことによって、ロットは完全に話を切りだす機会を見失ってしまっていた。いつもなら子供たちの誰にも負けないと自負している頭脳も、今この時ばかりは動きを止めてしまっているようだ。


 そうやって手をこまねいている少年を嘲笑うかのように、木の実を抱えた一匹の栗鼠リスが足下を駆け抜けた。驚いて飛び退いた拍子に、下生えの茂みががさりと大きく音を立ててしまう。


「だ、誰っ!?」


 しまった、と自覚した時にはもう遅かった。

 弾かれたように立ち上がり、周りを見回す少女とばっちり目が合ってしまう。じりじりと後ずさり始めるフィアに向かって、ロットは慌てて声をあげた。


「ま、待ってくれ! オレは別に、お前がここにいることを誰かに言ったりするつもりはない!!」

「……本当に?」


 か細い声が、疑わしげにロットの真意を探っている。怯えた様子のフィアをなんとか安心させようと、ロットは両手を上げてゆっくりと歩み寄っていく。

 異国の少女はハシバミ色の瞳を不安げに揺らしながら、目の前にまでやってきたロットの顔をじっと窺い見ていた。長身の父親と一緒にいたせいでわからなかったが、彼女の上背はロットのそれを頭ひとつ分上回っている。

 高く鼻梁はなすじの通った顔立ちも相まってか、向かいあった少女の印象は少年の目にはやけに大人びて映った。


「わたしのことを、連れ戻しに来たんじゃないの?」

「別に、そんなことはしないって。それに、その……ここにはオレも、たまに遊びに来るからさ」

「そうなの? えっと……」

「ロットだ。そっちはフィア、でいいんだよな?」


 少女は問いかけにこくりと無言で頷き、それからはっとした顔をして首を横に振った。


「……ごめんなさい。ここがあなたの場所だっていうなら、もう来ない方がいいよね」

「別にここは誰かの場所なんかじゃない。好きに来ればいいさ」

「でも……」

「言ったろ。別に誰かに言ったりなんかしないって。そっちだって、これから別の隠れ場所を探すのは大変だろ?」

「……うん」


 彼女はしばらく考え込んでから、ロットの言葉に他意がないと悟って少し離れた場所におずおずと腰かけた。

 ひとまずは、警戒を解くことに成功したようだ。ロットは彼女を引き留められたことにほっと安堵し――それと同時に、どうしてここまで必死になっているのだろうと内心で首を傾げた。


 それからしばらく、無言のままの時間がただ静かに過ぎていった。

 相変わらず会話の糸口は見つからないままだったが、結局は彼女のやりたいようにさせるのが一番なのだろうとロットは判断した。小鳥たちのさえずる声が響く以外、さわさわと風に揺れる木々の葉擦れの音だけが二人の間に流れていく。


 そうしている内に、初めは気詰まりだと感じていた沈黙に次第と慣れていくような気がした。緩やかに流れる時間に身を任せ、二人でぼんやりと微睡むように泉の水面を眺め続ける。

 時おりロットは隣に座るフィアの横顔をちらりと観察していた。初めのうちは所在なく森の景色を眺めているだけのように思えていたが、よくよく見ればそうでないということに気が付く。


 いつしか少女の視線は、樹々の間を掠め飛ぶ小鳥たちの姿を物珍しそうに追いかけていた。その様子に好奇心を刺激されたロットは、ものは試しとばかりに声をかけてみる。


「なあ、そんなに野鳥が珍しいのか?」

「……うん。あんな鳥、今まで見たことなかったから」


 てっきり無視をされるとばかり思っていた質問は、意外なくらいにあっさりと返ってきた。聞けば彼女はサンクティア大陸の西方に拡がる砂漠地帯からやって来たらしく、これだけ広大な森を見たのは生まれて初めてなのだという。


「ねえ、あれは何ていう鳥なの?」

「あれは……川蝉だな。ああやって水面すれすれを飛びながら、水の中にいる魚や虫を捕ってるんだ」


 鳥の名前や生態について語って聞かせると、フィアはじっと黙ったままロットの話に耳を傾けた。

 ひと通りの説明を終えると、そこで途切れてしまうと思われた会話はさらに続いた。砂漠育ちのフィアにとっては目にするものすべてが珍しかったようで、質問は留まることを知らなかった。

 寡黙だった少女の口数が徐々に増えていき、気が付けば辺りはうっすらと暗くなり始めていた。


「もう、こんな時間か。そろそろ、村に戻らなきゃな」

「……そう、だね」


 どちらともなく立ち上がると、すっかり暮れなずんだ森を出口に向けて歩き始めた。やがて森が途切れて分かれ道に差しかかると、ロットとフィアはそれぞれの帰路へ向けて別れを告げる。


「じゃあ、ここで」

「うん……」


 踵を返して立ち去ろうとする少女の背中を、ロットは咄嵯に呼び止めた。


「あの、さ。フィアさえよかったら、またこうやって一緒に話したりしないか? 今日みたいに知りたいことがあれば、何だってオレが教えてやるよ」


 しばしの沈黙。立ち止まったままの彼女からの返事を待つロットの心臓が、早鐘を打つように高鳴っている。やがて彼女はゆっくり振り向くと、柔らかにはにかむような笑みを浮かべて頷いた。


「……うん、わかった。それじゃ、また明日ね。ロット君」


 それだけ言うと、少女はくるりと背を向けてその場を走り去っていった。

 家路につくフィアの後ろ姿をロットは惚けたように立ち尽くしたまま、彼女が見えなくなるまでずっと見送り続けていた。


  ◆


 このことがきっかけとなり、二人は泉のほとりで落ち合うようになった。

 何をするでなく取り留めのない会話を交わすだけの時間だったが、お互いの関係は少しずつ打ち解けたものへと変わっていく。


「ロット君は、何でも知ってるんだね」


 フィアから投げかけられる質問に対し、ロットは持ち前の知識――その大半は、ルタからの受け売りに過ぎなかったのだが――を総動員して答えてみせた。目を輝かせて感心する少女の視線に、ロットは思わず目を逸らして火照った頬をかく。


「こんなの、全然大したことないって」

「そんなことないよ。だって、わたしが聞きたいこと全部知ってるんだもん!」

「うちの父さんなんて、オレなんかよりずっと色んなことを知ってるよ。昔は学者を目指してたとかでさ。今だって暇を見つけては、家で先生みたいなことをしてるんだ」


 実際の所、ロットにそこまで余裕があるわけではなかった。

 彼女からの質問は日に日に難しくなっていく一方で、最近では事前に父親から教えを乞い、予習をしていくことも珍しくはなかった。


 ルタに比べればまだまだだと思っていた父親にすら、今の自分では遠く及ばないのだと痛感した。

 それでも彼女が頼ってくれることが嬉しくて、がっかりした顔が見たくなくて、半ば意地になって虚勢を張り通してはいるものの、このままでは質問に答えられなくなってしまう日が来るのも時間の問題だろう。


「ロット君も、お父さんみたいに学者を目指しているの?」

「……いや、オレが目指してるのは魔術師だよ」

「魔術師?」

「ああ。いずれは大陸に渡って、魔法王国と呼ばれているグランヒルトへ行くんだ。知ってるか? あそこには大陸でも選りすぐりの魔術師だけが集まるっていう魔術学院があるんだぜ。だから、その為にはもっともっと勉強して、色んな知識を身に着けなきゃいけないんだ」


 気が付けばロットは、友人どころか両親にすら打ち明けたことのない将来の夢をフィアに向けて語っていた。まくしたてるような勢いで目を丸くする少女に、ロットははっと我を取り戻す。


「……わ、悪い。こんな話、興味なかったよな」

「ううん。……すごいね、ロット君は。わたし今まで、そんな風に考えたこともなかったから」


 まるで眩しいものを見るかのように、フィアは榛色の瞳を細めて呟く。

 褒められ通しで気恥ずかしさを覚えながらも、ロットは彼女の表情に愁いの影が落ちていることに気が付いた。その顔はまるで自分には出来そうにないと言わんばかりで、彼女を少しでも元気付けようと明るく励ましの言葉をかける。


「フィアだってこれから先、やりたいことがきっと見つかるはずさ」

「……本当に、見つかるのかな?」

「ああ、絶対に大丈夫だ」


 目の前の少女をルークスの教室に誘ってみてはどうかと、ロットは胸の中で自問する。

 彼女は本人が思っている以上に好奇心旺盛で、様々なことに興味を示している。教室に通い始めさえすれば、きっといい生徒になるに違いない。そうして新しい世界に触れていけば、いずれはやりたいことだって見い出せることだろう。


 しかし同時に、今のフィアにその話を持ちかけることは躊躇われた。

 出会った時に比べれば笑顔を見せてくれるようになったとはいえ、他の子供たちのことは相変わらず避けて回っているようだ。仮に教室へ誘ったとしても、色よい返事がもらえるとは思えない。

 それにロット自身、こうして秘密を共有し合うような関係にある種の心地よさを感じてしまっているのだ。彼女に無理強いをして、せっかくできたこの関係を壊したくはなかった。


 やがて太陽が真上に昇り、時刻はお昼どきに差しかかった。ロットは傍らに置いていた布包みから、昼食代わりに家からくすねてきたパンを取りだす。


「なあ。フィアは今日も食べないつもりなのか?」

「……うん。わたし、食欲ないし」


 フィアから返ってきた答えは、いつもと同じものだった。

 半ば予想していた回答に、ロットは苦笑いを浮かべながら包みの中身を彼女の前に持っていく。


「どうせ、そう言うと思ってたよ。今日は少し多めに持ってきたから、フィアも一緒に食べないか?」

「いい。いらない」

「そう言うなって。ちょっとは食べないと身体がもたないぞ。ほら」


 なおも食い下がるロットに根負けして、フィアは差し出された丸パンを渋々といった感じで受け取った。ひと欠けだけちぎっと口に運ぶと、ゆっくりと噛みしめてからしゅんとした表情で力なく首を振る。


「……おいしく、ない」

「そっか?」

「うん。本当に、おいしくないの」


 そう言ってフィアは、申し訳なさそうに俯きながら手元のパンをじっと見つめる。

 ところが、ロットはそんな彼女の様子を見ると思い出したようにくすりと笑ってみせた。


「どうして、嬉しそうにしてるの?」

「ああ、ごめん。なんかフィアがさ、うちの妹みたいなこと言ってるなと思ってさ」

「ロット君、妹さんがいるの?」

「ああ。まだ小さくて、とびっきり甘えん坊の手がかかるヤツがな。今のフィアみたいに、シロップ付きじゃなきゃ嫌だ嫌だって、いつも我が侭ワガママばかり言ってるんだ」


 小さな子供と一緒にされてしまい、フィアはむすっとしてロットのことを横目に睨みつける。


「わたし、そんなこと言ってない」

「冗談だって。……なんだ、フィアだってちゃんとそういう顔が出来るんじゃないか」


 愉快そうに笑う少年の表情に、フィアはようやく自分がからかわれているのだと気が付いた。

 急に気恥ずかしくなってしまい、少女の頬にさっと赤みが差していく。


「今度持ってこようか? カエデのシロップ」

「いらない。ちゃんと食べられるもん。……ロット君の、いじわる」


 ぷいっとそっぽを向くと、フィアは目の前のパンを再び口元に運び始めた。

 彼女の様子を満足そうに眺めながら、ロットも自分の分を美味しそうに平らげていくのだった。

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