第33話 辛い幼少時

 神木と夏樹の間を沈黙が走った。しかし、それは神木の穏やかな表情によって、決して重くて澱んだ雰囲気では無かった。


「あ、ごめんごめん。物思いに耽ってしまった」

 神木は、ハッとすると一つ小さな溜息を付いた。

「冬也さん、神木先生、春音さんって、太い絆で結ばれていたんですね」

「俺はどうだろ。いつもお邪魔虫だった気がするよ」

「そんな。冬也さんにとって、神木先生の存在はきっと彼の大きい部分を占めていたはずです。俺の兄貴達みたいに」

「兄弟・・・・」

「はい、絶対そうです」

「・・俺はずっと従弟だと思ってた。だから血の繋がりは半分だけって。でもそうだよな。俺達いつも一緒だった。それこそ、100パー血の繋がってる姉貴なんかよりもさ。夏樹、有難う」

 神木は、そう告げると何処か嬉しそうにキャビアを載せたクラッカーを口に放り込んだ。

「うわっ! 贅沢な味が口に広がるな。うめぇ~」

 冬也の心臓のレシピエントが夏樹だと知った後でも、いつもの通り無邪気な面を見せてくれる神木の魅力を再認識する。

「アハハハ」


 神木は、口の中に残るクラッカーの破片をビールで綺麗にすると、ビール缶を持つ手に視線を集中させる。

「春はさ、小さい頃、辛い思いをしたんだ。実の母親が、病院で働く若い医者と浮気してさ」

「あ」

 夏樹は、先日TK循環器研究センターに来ていた男の話だと理解する。

「何? 春からもう聞いた?」

「否、詳しい事は。不倫をしていた、とだけ」

「病院の横に住居があってさ。春、見ちゃったんだよね。その時、まだ春は5歳とかそんなだったから、何が起こっているのか分からなくて、父親を呼びに行った。ほら、母親の上に男が覆い被さっていて、変な声を出しちゃってる訳だろ」

 神木は、人差し指を上に向けると詳しく状況を説明する。

「・・神木先生、ア、ハハハ・・もうそれ以上はいいです」

「そっか? それで若い医者は辞めさせられたけど、春の両親は、世間体とかを気にして離婚しなかった」

「え?」

 夏樹は疑問に思った。何故なら瑠衣は春音の父親の再婚相手だ。ならば、春音の実母と父親は離婚したはずだと。


「でも、それが春を苦しめる結果になったんだ。実母が、若い医者と別れさせられたのは春のせいだって憎んでさ・・・・虐待し始めた。誰もずっと気付かなくて、ある日、春が幼稚園で倒れて病院に運ばれて発覚した。原因は栄養失調。ろくに食事を与えられて無かったようで、ほぼ幼稚園での給食だけで生きてた。足裏や見え難い所に煙草の焼跡もあって、肉体的にも虐待されていたようだが、精神的ダメージの方がもっと酷かった」

「そんな・・・・実の母親がそんな事出来るんですか? 男つくった方が悪いのに」

「常識ではそうだよな。でも、母親に『お前のせいだ』『悪い子だ』と、繰り返し詰られたせいか、逮捕された時、春が母親は悪くないって叫んだらしい。結局、両親は離婚して、母親は家を出て行った。春は、それを全て自分が『悪い子』だからと自身を責めた。だからだろうな、初めて春と会った時、アイツまるで幽霊みたいだったよ。覇気も魂も無く、ただ息をしているだけの女の子だった」

 その頃の春音が頭に浮かんだのか、神木は寂し気に目線を下に落とす。

「それを立ち直らせたのが、冬也さん、だったんですか?」

 神木は、ビール缶の下辺りに集中させていた視線を夏樹に向ける。

「ああ。冬也は、一年足らずで春を蘇らせた。見事にな」

 誰にも冬也には敵わないと思わせる神木の口振りに、夏樹はハッとする。


【神木先生・・・・そんな】


「あの夜、春は家に帰って来た冬也の遺体から離れなかった。翌日、納棺する時は、気が狂ったように取り乱して父親が鎮静剤を打ったほどだ。結局、春は通夜にも葬式にも出なかったんだ。葬式が終わって様子を見に行ったら、冬也の部屋のベッドで、向精神薬を大量に服用して自殺を図った」

「春音さんが・・」

「暫く入院させられて見舞に行った時、幼少時の春みたいに幽霊に戻ってしまってたよ。命は助かったけど、心が死んでしまった」

 恐らく神木にとって一番辛い時だろう。それを滲ませる如く神木の顔が、小刻みに揺れていた。


【俺の心臓】


「あ、ごめん。夏樹にこんな事を聞かせるつもりは無かったんだ。ただ、春には辛い過去があるって知って欲しかった。俺も春も冬也が、臓器提供を希望しているなんて知らなかった。アイツは、自分の命で誰かを救えた事を絶対に誇りに思っているはず。そう言う奴だったからな」

 神木は、目線を上にすると口角を上げ肩を竦めて微笑んだ。


「神木先生・・俺、暗い顔してました? 気を使わせて、スミマセン。俺は感謝の気持ちしかないですから・・」

 夏樹は、神木に元気な笑顔を向ける。

「春音さんに冬也さんの死以外で、そんなに辛い過去があったなんて。でも、今は神木先生のお蔭で立ち直れたんですね」


 夏樹はそれとなく気付いていた。神木が冬也には敵わないと自分自身に思わせている。

 そして以前春音が、神木は冬也の死を悲しめていないと告げていた意味も理解した。

 精神が壊れた春音を支え続けるために、神木に冬也の死を悲しむ時間を春音が与えなかったと、彼女は考えているのだ。


「俺じゃ役不足だよ」


 夏樹は、神木の今まで見せた事の無い重く沈んだ表情に悲しくなった。

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