第31話 佐野の罪
後期研修を加瀬総合病院で始めていた佐野は、未だ実家から通っていた。
通勤には乗り換えが必要で不便ではあったが、母がアルコール依存症の治療中であり、尚且つ父が引き取った腹違いの高校生の弟を置いて、家を出るのが忍びなかったのだ。
「あれ? あんな所にカフェなんてあったっけ?」
佐野は、実家を出て駅へと向かう途中、真新しいカフェを見付けた。すると、開店間近なのだろう、中から店の看板を持って女性が出て来た。
【ドキン】
彼女の姿が佐野の鼓動を早める。
「綺麗な人だな」
ポツリと呟くと、退屈だった実家の近所に、恐らく通う事になるだろう店が出来たと、心が少しワクワクした。
そして、予想した通りに佐野はカフェに時々足を運ぶようになる。
カフェは若い夫婦が経営しており、佐野が少しだけ心を惹かれた女性は、残念ながら結婚していたのだ。
だが、佐野はサイフォン式で淹れるコ―ヒ―と特製ケーキが気に入り、また店内にはソファと多くの書籍が用意されていて、とても落ち着いた雰囲気だったため常連客となった。
時が過ぎ、佐野の弟が大学に入学し彼が一人暮らしを始めると、佐野も実家を出て正式に入職した加瀬総合病院に通勤し易い住まいに引っ越した。そのため、実家近くのカフェの存在も過去の物となっていく。
佐野は、大学で知り合った伏谷京香と加瀬総合病院で再会した事が切っ掛けで、彼女から誘われるまま、特に深く考えず彼女と付き合うようになる。
ある日、伏谷が佐野をあるカフェに連れて行ったのだ。それは、昔佐野が通っていたコーヒーとケーキが美味で居心地の良い懐かしい場所だった。
佐野は、店主の妻が伏谷京香の妹、
佐野がこのカフェに頻繁に訪れていたのは約三年程前だ。出逢った頃の涼香は小春日の様な陽気でフンワリとした空気の女性だった。だが今、佐野の目の前に立つ人は、その時とは真逆で冷え切っておりギスギス感が否めなかった。
【病気でもしたのか?】
心配になった佐野は、時折また涼香のカフェを訪れるようになる。
涼香の夫である、
ある朝、夜勤明けに訪れた佐野の目前で涼香が倒れ、職業柄、放っておけない佐野は、夫の反対を押し切って無理やり加瀬病院へと運んだ。
涼香の身体には暴力を受けた跡が無数にあり、倒れた原因は疲労骨折により肋骨にヒビが入っていたからだ。
「警察には言わないでください。それから夫にも知らなかった事にしてください」
佐野は、涼香の口から飛び出す言葉に、これほどまでに夫を愛しているのかと思うと絶句した。
「どうして? こんなになるまで暴力を受けているんだよ。こんなことが続いたら取り返しのつかない事になってしまう」
佐野は、涼香を救いたかった。以前の明るい彼女にまた会いたかった。
「夫は、私に暴力を振るっている事を覚えていないのです」
「そんな馬鹿な。ここまでしておいて」
「お酒を飲むと別人になるのだけど、普段はとても優しい人だから」
ベッドの上で横になったままの涼香は、そう告げると目を閉じた。
「そんな事は言い訳にならない。これは犯罪だよ」
「分かっています。でもやっとお店も軌道に乗って来たし・・・・それに証拠集めとか裁判とか・・怖いんです」
「僕が診断書を書くよ。このままではいけない。彼を更生させてあげたくないの?」
「でも・・・・」
愛情を知らない佐野には涼香が全く理解出来なかった。そして、彼女を繋ぎ止めているのは、愛なのでは無く逆に恐怖心なのではと疑う。
人は足元に谷底があると信じ込むと、摑まっている何かを手放す勇気などない。例え地面が真下にあるとしても、恐怖によって真実が見えなくなってしまうのだ。こうなってしまうと他人が何を言っても無駄である。少しずつ恐怖に縛られている心を説きほぐしていくしかない。
また、第三者である佐野が通報する事によって事態が悪化する可能性もある。
佐野は、専門外であるが時々涼香にカウンセリングを施す事にした。
しかし、この事が佐野の人生を大きく変えてしまう。
時々見せる涼香の素顔に惹かれてしまったからだ。姉の伏谷京香に正直に話すと、彼女との関係も解消する。
佐野の助言通り酒類を家から除去し、夫の昇にも自重してくれるよう涼香から上手に懇願した結果、昇の暴力は若干減りつつあった。
佐野は、二人の関係が改善方向に進む事を口先では喜んだ振りをしたが、心は穏やかでは無かった。しかし、涼香が幸せであれば良いのだと自身に言い聞かせていた。
そんな折、涼香から佐野に対する想いを告白される。
夫の昇が、新しく雇ったアルバイトと不倫をしているのを知ったが、涼香は動揺も嫉妬もしなかったのだ。そして、自分の昇に対する気持ちが、随分前から覚めている事に気付いたと告げた。
佐野と涼香の関係は急速に発展しなかったが、徐々に関係を深めていき、佐野が医長に昇格した頃には心身共に強く結ばれていた。
ある夜、「W不倫」と言う不貞な関係に耐えられなくなった涼香は、佐野に相談をせずに昇との別れを決意し離婚届を彼に差し出した。
夜勤だった佐野のもとに急患の知らせが届き、佐野は搬入口に向って足を急がせていた。
「30代前後の女性で、暴行による意識障害です。顔腫れ。恐らく顔面骨折・・・・」
看護師から急患の状態を耳にした佐野は白衣の胸ポケットから携帯を取り出した。
「あ、もしもし。佐野です。おっ鈴木君! 急患一人運ぶから、CTの準備しておいて」
佐野が搬入口に到着すると、兆度救急車が到着しサイレンが鳴りやんでいた。
早速ストレッチャーに移動し、患者の状態を救急隊員から説明して貰う。
暴行によって顔の原形が分からない程に腫れており、意識も朦朧としている女性を覗き込んだ佐野は、一瞬ハッとする。
【まさか】
次の瞬間、救急車から下車した男性を見て確信へと変わる。同乗していた人物が江藤昇だったのだ。そして、運び込まれた患者は妻の涼香だった。
放射線科に運ぶ途中、若干意識を取り戻した涼香が佐野の存在に気付くと虫の息で話掛ける。
「壮太・・私・・自由の身よ。有難う」
その言葉を最後に涼香は、深くて長い眠りについた。
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