第30話 違う世界の二人


『夏樹君の心臓が、冬也の心臓なの』


 神木の耳に春音の言葉が何度も繰り返し木霊した。

 そして、足元がフワフワと宙に浮かぶ感覚に襲われたため、両手をバルコニーのフェンスにしがみ付かせた。

 春音は、神木にこれ以上言葉を掛ける事をせず、ただ彼からの一言を待とうと、身体を再び夜景へと向ける。

 眼下には電車が、ヘッドライトと車窓から光を放ち、単純な音を奏でながら走っている。

 春音は、何気なく目線を別に移すと、夏樹のマンションが見える事に気付いた。


【愁にちゃんと話したよ。次に貴方に会う時は、どんな言葉を掛ければいいのだろう】


 春音と神木を長い沈黙が包む。

 神木は完全に言葉を失っていたのだ。隣に立つ春音には聞こえる電車の音も街の騒音も神木には届かず、ただ全身が心臓に取り込まれたかの様に、鼓動だけが鳴り響いていた。


 神木は、ただショックだったのだ。こんなに近くに冬也が居た事。でもそれは、彼の身体の一部だけだと言う事実。このことは神木にとって、冬也が本当にこの世から去った証拠を突き付けられた気分だった。

 神木は、冬也の死を何処か遠くに置き忘れていた。何故なら、自分に冬也の代わりなど務まるはずがなく、春音の傍に居れるのは、冬也が戻ってくるまでの役目だと妄想していたからだ。

 そうする事で、大好きだった冬也の死を心の奥底では喜んでいる自分、そして彼から春音を奪い取った恐ろしい己を認めずに済んだ。


【こんなに近くに居たなんて・・・・冬也・・春を迎えに来たんだな】


 ふと、先日春音の命を吹き返した瞳が脳裏を過る。

【そっか、そう言うことか。やっぱり敵わないな】

 神木は、ふと口角を上げると暗い笑みを浮かべる。


「夏樹がか・・・・こんなに近くに冬也が居たなんてな・・俺達っていつまでも三人なんだな」

 神木の力無い言葉に春音は、彼にずっと黙っていた事、真実を教えた事、双方に罪の意識を感じた。

「いつから知ってたん?」

 春音の罪悪感に更なる痛みが走る。

「あのね・・・・実は、もうずっと前から。夏樹君の手術、阪元先生が執刀したの・・だから・・」

「そっか。そんなに前からか」

 神木は、春音の言葉が終わらぬ内に全てを察した。大学を卒業した彼女がTK循環器研究センターに勤め始めた頃だろうと。夏樹の執刀医なら通常であれば知り得ない、秘密の情報を得る事は可能だ。

「阪元先生・・だったんだ。世間て狭いな」

「でも、夏樹君と話をするようになったのは、お母さんが入院してからだから」

 それは事実だろうと信じた。春音に変化を感じるようになったのは、確かに瑠衣が入院した頃からだ。


【否、昔もこんな事があったな】

 神木は、思い出していた。


 神木が加瀬総合病院で研修を始めた頃、今住むマンションに引っ越ししたのだ。それから暫くして春音に異変を感じた事があった。


【あの時既に夏樹と会っていたのか?】


「夏樹には、その前に会いに行ったりしたん?」

「うん。心臓のレシピエントだけは近くだったから、居ても立っても居られなくなってしまって。夏樹君の大学まで行った」

「そっか。俺もきっと同じ事をするよ」

 神木は、鼻先に少し息を込めると苦笑いをつくる。


「愁、ごめんなさい。貴方に教えるのが、こんなにも時間が掛かってしまって」

「いいよ。春が、その方が良いと思ったんだろう?」

「分からない。ただ言い難かっただけかも」

「そっか。でも良かったな。冬也の死が無駄にならなくて。夏樹は本当に良い奴だよ」

 神木は夜空から輝く星達に話を聞かれている気がして上を見上げた。


「冬也、本当に死んじまったんだな」

 小さく呟いたが、一言一句春音の鼓膜に辿り着く。

 春音は、耐えられない気持ちになり、隣に立つ愁の腕にしがみ付いた。

「愁ごめんなさい。私のせいで・・・・冬也の死を悲しめていない。寂しい気持ちは愁も同じなのに、私が居るから我慢ばかりさせて」

 神木の腕に春音の指が食い込む。神木は、その指を自身の手で温かく包み込むと、優しい表情をした。

「共倒れっていうのもな・・冬也が心配で化けて出て来るよ」

 春音に向けていた視線を再び夜空に放つ。まるで冬也を探すように。

「ねぇ、愁・・キスして」


『キスして』

 神木は、同じセリフを何処か遠くで聞いた事があった。

【そうだ、あの時だ】


 高校に上がった愁は、学校で会えなかった冬也の家を訪れていた。いつも施錠されていない不用心な玄関のドアを開けると家へと上がる。

 リビングの方から冬也の笑い声が聞こえ、彼の部屋に行く足をそちらに向けた。

 中に入ると、冬也は春音と一緒に庭で満開の花を付けた桜を見ていた。二人に話掛けようとした愁の声を春音が打ち消す。

『ねぇ、冬也、キスして』

 春音は、冬也を見上げそう告げた。すると、桜に向けていた視線を春音に落とした冬也は、優しく春音の頬に手を添えるとキスをした。

 桜の花びらが舞い散る中に立つ二人は、まるで別世界に居る様に神木の目に映った。


「愁?」

「あ、ごめん。冬也が何だっけ?」

 春音の言葉が耳に届かなかったフリをした。


【あのキスに勝てるはずがない】


 惨めさで押しつぶされそうになり、春音に添えていた手を離すと爪を手の平に食込ませた。

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