第29話 突き付けられた真実
神木は、春音がキッチンに用意してくれた弁当を鞄に入れると玄関に向った。
「じゃあ、行ってきます」
春音は、部屋で身支度をしていたが、一旦手を止めて玄関で靴を履いている神木に追いつく。
「愁、今日は日勤だよね?」
「うん。春も?」
「そう。じゃあ今晩家で食べるね。待ってるから」
「うん、じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
エレベーターを待つ神木の心は不安に駆られた。朝の忙しい時に春音が玄関まで見送るのは珍しいからだ。
【話があるんだろうな】
大きく溜息を付くとやって来たエレベーターに乗り込んだ。
仕事を一通り終えた佐野は、涼香の入浴を済ませベッドの上で髪を乾かしていた。
「ほっそいな~ 早く起きて沢山食べないと。すずが好きなアンテールの期間限定、甘苺のショートケーキ、今年もまた逃したな」
佐野が、涼香に話掛けているとドアをノックする音と同時にドアが開いた。
中からの応答も待たずに入室してくるのは、姉の伏谷京香だけだ。亮一郎やすずの家族もお見舞いに訪れるが、着替え中の可能性もあるため、一応室内からの反応を暫く待つのだ。
「あ、壮太。お疲れ~ ごめん。急患が続いて入浴の手伝い出来なかった」
「いいよ。いいよ。俺とすずとのラブラブタイムだから」
「何それ。昏睡状態の妹に何してんの・・」
「ひゃ! ジュークジョーク。気を使った僕の言葉だよ」
「壮太が言うと冗談にならないから。紛らわしい」
「そうだな。ごめんごめん」
佐野は、上手にパジャマを着せたすずを自身にもたれさせると、髪をブラッシングした。
「髪伸びたな。また美容師に来て貰わないとね」
「本当だ」
「さっき、爪は切ったよ」
「何から何まで、有難うございます。副部長」
伏谷は、楽しそうに涼香の世話をする佐野と、目を閉じたままで、そんな彼に礼の一言も発せられない妹を交互に眺めた。
佐野は、涼香の意識が戻った時にみすぼらしい思いをせずに済むよう、こうして定期的に彼女の身嗜みを整えているのだ。
「さっき院長から、例のMS事件が解決したって聞いたわ。壮太のお手柄らしいじゃない」
「まぁ、ただの誤解だったから、お互いに理解し合えたみたいだし良かったよ」
「そっか。詳しくは聞いてないけど、大事にならなくて良かった。お疲れ様」
「そうだね」
伏谷は、涼香のベッド脇に備えられている椅子に腰を下ろす。
「壮太さぁ、すずが目覚めるまで待つの?」
突然の伏谷からの質問に、佐野は少し目を大きく開ける。
「何で、今更そんな事を聞くんだよ」
「昨日、久々に実家に行って来た。両親が心配していたから」
「まだ、三年だよ」
「でも、既に三年とも言える。すずが目覚める保証なんて何処にもないし」
「どうしたの? お母さん達から何か言われた?」
「私の婚期がとっくに過ぎてるって。壮太にその気がないなら見合いしろって」
佐野は、すずの世話をしていた手を止めると彼女をベッドに寝かせた。そして、自身はベッドから下ると、伏谷の隣の席に腰掛けた。
「そっかぁ。京香は結婚したいの?」
「そりゃあ、私だって女よ。当り前じゃない。仕事は楽しいし辞めたくないけど、誰かと家庭を築けたらって思う」
少し頬を膨らせながらも恥ずかし気に応える。
「私の気持ち知っているよね。私は壮太の事が好きなの。すずの世話をしている貴方を見てると、もっとその気持ちが大きくなった。でも分かってる、どれだけ貴方がすずを大切に思っている事を。それに、もし私と一緒になったとしても、すずが目覚めたら、また貴方を失う事になるしね」
「京香」
「壮太、お願い。少しでいいから考えて。もう答えが決まっていても、ほんのちょっとで良いから、貴方の脳裏に私を描いて」
壮太は、伏谷と向き合って話を聞いていた目線を落とすと二人を沈黙が包む。
それは、ほんの数秒だったが、伏谷にとっては耐え難く、とても長い時間に感じた。
「じゃあ、私戻るね。さっきの急患の様子を診に行かないと」
椅子から立ち上がり、佐野から離れていく伏谷の背中が痛々しく思えた。
「・・・・京香、僕、ちゃんと考えて答えを出すから」
「うん」
ドアノブに手を掛けた伏谷は、佐野に背を向けたままで首を一度上下に動かすと、病室を後にした。
涼香の病室のドアを後ろ手に閉め数歩も進まぬ内に、伏谷の平静を装っていた顔が崩れ始める。
壁に左肩を押し付けると項垂れ自己嫌悪に陥った。
【あんな事言うつもりじゃなかったのに。それも、すずの前で】
昨夜伏谷は、娘の今後を危惧する母親に、佐野の事を問われ見合いを勧められたのは事実だ。
その事が切っ掛けで自身の中にある「焦り」を強く意識した。だが、昏睡状態の妹を前に佐野に問い詰めた自分を悔やんだ。その反面、佐野の出す結論によって、伏谷が一歩前進出来るのではと淡い期待もあったのだ。
【壮太の事を諦められるのかな、私】
壁にもたれていた身体を廊下に戻すと患者の元へ足を進めた。
神木が、憂鬱な気分を抱えながら家路に着くと、既に春音の帰宅を知らせる彼女の靴が並んでいた。重い足を室内に進めると、夕食がテーブルの上に置かれ台所は綺麗に片付けられていた。春音の姿を探すと、リビングルームの掃き出し窓が少し開いており、時折カーテンが外から入り込む風に揺れている。
春音は、バルコニーのフェンスに上半身を預け、街の夜景をぼんやりと眺めていた。
【ドクン】
神木は、春音の寂し気な後ろ姿によって罪悪感に苛まれた。自分が彼女を幸せに出来ていない証拠を突き付けられたからだ。
一つ小さな深呼吸をすると掃き出し窓を開ける。
「春。遅くなってごめん。只今」
聞きなれた優しい声が何処か遠くに旅立っていた春音の意識を彼女の元へ返す。
「愁、お帰り」
春音は、風に揺れる髪を手で押さえながら後ろを振り返る。
神木は、バルコニーに置いてある自身のサンダルに足を通すと、春音の横に並び夜景を瞳に映した。
「外、気持ちいいな」
「うん。料理してたら暑くなっちゃって、外で涼んでたの」
「そっか。ここに引っ越して来た時、よくこうやって外を眺めたな。最近は時間が合わなくてごめんな」
「あれから、もう5年近くなるのかな? なんかそんな気がしない」
「そう・・やな」
春音は、最初の一言以外は愁から目を反らせ、外の景色だけがその瞳を照らしていた。だが、意を決すると身体ごと愁に向き合った。
「愁、あのね。加瀬夏樹君の心臓がね・・」
春音は、喉を詰まらせたように、次の言葉を吐く前にゴクリと唾を飲み込む。
「・・・・冬也の心臓なの」
愁の全身をハンマーで打ちのめされた様な衝撃が走ると、暗闇に包まれ何も見えなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます