第13話 傷の深さ
夏樹の家に向おうとした二人の間に、肌寒さがすっかり取り除かれた、生暖かい雨が落ちて来た。
「え? 今日って雨予報だったかしら?」
「高城さん、走りましょう」
「あ、うん」
夏樹は、自転車には跨がず押したままで、歩調を速める春音に並んだ。
夏樹が、自転車置き場に行っている間、春音はマンションのロビーで、肩に落ちた水滴を掃いながら外を眺めいた。
「通り雨かな?」
「お待たせしました。雨、結構降って来ましたね。直ぐに止むといいけど」
「ええ」
「俺の家に予備の傘が沢山ありますから。とりあえず行きましょう。髪乾かした方がいいですし」
「あ、はい。加瀬先生、有難う」
夏樹は、カードキーをかざし、エレベーターを操作すると、二人で乗り込んだ。
「夏樹でいいです。ほら、病院の名前と同じだから、神木先生にも下の名前で呼んで貰っています。色々と質問されるので」
「確か、お爺様の病院でしたよね? お父様が理事で、お兄様が院長」
「あ、はい」
「凄いわね」
「そうですか? 俺は、ずっと身体が悪かったから、家族が医者でラッキーってしか思った事ないな」
「心臓だったら、きっと発作とか多かったのよね。大変・・・・」
「家族には迷惑掛けっ放しでしたね」
夏樹は、自身の苦しい経験よりも、申し訳なさげに応えた。
二人は、エレベーターから夏樹の部屋がある階に降りると、右側の廊下に進む。夏樹の住まいは、エレベーターからは一番遠い角部屋なのだ。
夏樹がカードキーを通しドアを開け、春音に入るように促した。
この辺りのエスコート能力は、兄三人から伝授されている。
「どうぞ」
「お邪魔します」
「俺、荷物置いて、タオル取って来るので、リビングでゆっくりしてて。お茶でも入れます」
「お気遣いなく」
夏樹が、タオルを手にリビングに入ると、春音は掃き出し窓から外を眺めており、やはりその後ろ姿は寂しく見えた。
「はい、タオル」
「あ、有難う。素敵なマンションね。スッゴク広い! それにちゃんと掃除してある」
「病院が近いし、家族用マンションみたいな。ずっと俺が占拠してますけどね、ハハハ」
「流石、御曹司! フフフ。雨、止むかなぁ」
春音は、受け取ったタオルで髪を拭きながら応える。
「だね、通り雨だと良いけど・・・・そうだ、今日って神木先生もう帰っています?」
「確か夜勤だったと思う」
「だったら、俺と一緒に毛蟹食べてくれません? 一人で蟹って寂し過ぎるので」
春音は、先日夏樹の胸に抱き寄せられたのを思い出し、応えるのを躊躇した。
「実家から盗んで来た白ワインも冷やしていて、一緒に食べて貰えると嬉しい。その間に雨が上がるかもしれないし」
夏樹の真っ直ぐな申し出に、春音は頷くしかなかった。
夏樹は、帰宅後直ぐに食べられるように、サーモンやホタテなどを綺麗に皿に盛り着けた状態で、冷蔵庫に入れてあったため、春音から盛大なる褒めの言葉を受けた。
蟹は、夏樹の好物らしく、家にはちゃんと蟹専用バサミや蟹フォークも備えていた。
先ずは、冷やしてあった白ワインで、日本人らしく乾杯をすると、暫く蟹を食べるため無言になった。
「アッハハハハ。どうして、蟹食べる時って静かになるんでしょうね?」
「本当ね。意識が手元と蟹にしか集中しないからかな?」
「あ、春音さんも先ず身を取り出してから、後でゆっくり楽しむタイプですか?」
「そうそう。夏樹君も同じ? でも、時々盗人が現れるから用心しないとね」
そう言った春音の鼓膜に、冬也の笑い声が聞こえた。
『春、有難う。頂き!』
『あ、冬也。ずる―い。もう! 蟹の身返して!』
『アハハハ』
冬也と家族の笑い声がテーブルを囲んだ。
怒ったふりをする春音だが、いつも冬也の分も用意するのが好きだったのだ。
春音の口元が何かを思い出して、微笑んでいるのに夏樹は気付いたが、何故か見ない振りをする。そして、時々顔を出す春音の心に宿る冬也への想いが、とても深いのだと、こうやって彼女と言葉を交わす度に悟っていく。
冬也を失った痛みが、未だに全く癒えず、まるでケロイド状になって、春音の身体に染みついているのだ。
「夏樹君?」
「あ、ごめん。俺の犬の話だっけ?」
「そう、ハク君」
「うん。何度も俺の命を助けてくれたからね。トイレで倒れた時も、ドアの外で吠えてくれたらしい」
「本当にお利口な子だったのね。居なくなった時、寂しかったでしょ」
自信の想いと重なるように告げる。
「そうだね。凄く悲しかった。でも、ジュニアのアオもリョクも、傍に居てくれたから何とか立ち直れた」
「そっか」
その後、二人は、夏樹の父の誕生日会での話や、病院の話題などで会話が進み、和やかに食事を済ませた。
春音は、キッチンで皿洗いを手慣れた様子で行い、夏樹はダイニングテーブルを片付けていた。
「雨止まないな~」
テーブルを拭きながら夏樹が呟いた。
「傘を貸して貰えるなら大丈夫。ここから、私の家遠くないし」
「俺、車で送りますよ。冷蔵庫にある魚介類、思い切り持って帰って欲しいし」
「アハハハ、あれは確かに大漁ね」
「でしょ、俺の家族って大所帯だから、両親とも一人前とか知らないんで」
「夏樹君思いの素敵な家族じゃない」
夏樹は、春音に名前で呼ばれる度に、心臓の鼓動が高鳴っていた。
「この大皿何処になおしたらいい?」
「なおす?」
「ああ、どこに仕舞うかな? なおすって関西弁だわ」
「そっか、高城さんも関西出身でしたね」
夏樹の脳裏に心臓移植の書類が過ぎった。冬也の名と共に、所在地が載っていたのだ。
「ええ、まぁ。でも、私、中学からこっちだし、あまり使わないから、関西弁出て来なくなっちゃって」
「そんなもんなんだ。あ、その大皿は上の棚だから、俺が」
夏樹は、キッチンに入ると大皿を手にする春音の横に立ち、頭上の棚に手を伸ばした。
春音は、夏樹と同じ様に頭上を見上げた。すると、夏樹の心臓部分が自身の目の前にある事に気付き、手にしていた大皿をカウンターに置くと、無意識に夏樹の胸元に手を添えた。
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