第9話 幸せになる権利

 春音は、神木と共に母を連れて佐野の元を訪れ、研修医として夏樹も同席させられていた。


 春音の母、宇佐見瑠衣うさみるいは、自身が住む大阪の病院で、胃ガンだと診断され、手術を勧められた。そのため、消化器外科である神木に手術を依頼して、加瀬総合病院に転院して来たのだ。

 内視鏡手術により、胃がんは取り除いたが、入院中に軽い心臓の発作を起こしたため、心臓の検査をした結果、不幸にも心臓に悪性腫瘍が見付かったのだった。

 

 春音は、夏樹の顔を見ると、先日の夜、彼に摑まれた腕の感触が蘇り、同じ個所を反対の手で押さえた。

 夏樹も、出来るだけ平静に装ったが、隣に立つ佐野には見透かされたのか、

『ゴホン』

 と咳払いをされ、気持ちを引き締めた。


「本日は、母のためにお時間を頂きまして、有難うございます」

 春音は、母の車椅子をテーブル近くまで押すと、前に立つ佐野と夏樹に頭を下げた。

「座ろう」

 神木は、テーブルから椅子を引くと、春音に声を掛けた。それは、とても美しく自然な配慮。

 夏樹は、何故か胸の辺りがモヤモヤとし、目線を春音達から一瞬反らす。


「宇佐見さん、心臓血管外科の佐野と申します。こちらは、研修医の加瀬です」

 佐野の声が、夏樹の外していた視線を、再び春音達に戻した。

「研修医の加瀬夏樹です。本日は同席をご了承頂きまして、有難うございます」

「宇佐見さん、今日の体調はどうですか?」

 夏樹の軽く下げた頭が上がると、佐野は医者らしく声を掛けた。


「はい、大丈夫です。お気遣い有難うございます。心臓のお医者様がいらっしゃるのは、私の心臓の検査結果が良くなかったのですね」

 春音の母は、冒頭から告知を求めるようだった。

「はい、御察しの通りです。誠に残念なのですが、心臓にも悪性の腫瘍が見つかりました」

 佐野は、端的に病状の告知をした。それを春音の母が希望していると、神木から聞かされていたからだ。

「そうですか」

「心臓のガンは、もう手術を施せる状態ではありません。わざわざ、当院に来て頂いたのに、お力になれなくて申し訳ありません」

 佐野と共に夏樹も頭を下げた。


「とんでもない、先生方のせいではありません。謝らないでください。私が、こうして母に付き添えるのも、全て先生方のお蔭です。胃の手術は無事に終わらせて頂けましたし、心臓の検査までしていただいて、本当に有難うございます」

「春音さんの言う通りです。お気遣い本当に有難うございます。お世話をお掛けしました」

 夏樹は、春音の母が、彼女の事を娘と呼ばないのに違和感を感じた。

 春音から彼女の父と再婚したと聞かされたが、既に名前を旧姓に戻したのか? 

 目の前に座る親子には血の繋がりが無いのだ。そして「さん」付けで呼ぶのは、彼女達は近い関係ではないのだろうか?

 そんな疑問が夏樹の頭に浮かんだ。


 事前に、神木から母の病状を聞かされていた春音だったが、母の気持ちを思うと動揺を隠せずに居た。

 しかし、そんな春音とは対照的に、告知された瑠衣は、佐野達の説明をしっかりとした面持で聞いていたのだ。


 エレベーターまで見送った夏樹は、春音の横に自然に並ぶ神木に対して、説明のつかない否定的な感情に苛まれた。


【何でこんなにモヤモヤするんだ】


 佐野にまた変な詮索をされないため、乱れた気を落ち着かせると持ち場に戻った。


 半年程前、突然、春音の義理の母で、冬也の実母、宇佐見瑠衣うさみるいから連絡が入った。

 春音が、中学三年の時に父、高城彰人たかしろあきとの祖母に引き取られて以来、音沙汰が無かったのだ。

 春音は義理の母に会うのも、地元に帰るのも拒んだが、神木が同行すると説得され、二人で久し振りに大阪に帰る事になった。

 二十年以上振りに見た瑠衣は痩せ細っており、以前とは違い優しい顔になっていた。

 長年住んで居た、春音の父、彰人あきとが残した家を、一人には大き過ぎて掃除が大変になったため、引っ越しをしたと聞かされた。

 そして、その際、彰人が残した手紙を見付けたらしい。

 冬也の死の事で春音を責めた事、春音の父が願っていた様に、春音に母親の愛情を与えられなかった事を、涙ながらに詫びられたのだ。

 春音は最初、動揺したものの、彼女の謝罪を受け入れた。

 春音は知っていたのだ。瑠衣が正しい事を。春音は責められて当然なのだと。そして、冬也と春音の間に芽生え始めていた、許されない感情を、瑠衣が危惧していた事を。


 中間テストの勉強をしていた冬也は、少し小腹が空いたため、部屋を出て階段を降りようとした。すると、まだ小学生の春音が、冬也の後ろを付いて来たのだ。

 二人はキッチンに向ったが、途中ダイニングルームから両親の話声が聞こえ、ドアの前で立ち止まったのだ。


「彰人さん、春音ちゃん最近急に大人びて来たね。綺麗になったわ」

「う? そうか? 来年から中学かぁ、早いもんだ」

「あのぉ、、、、」

「何や? どうした?」

「冬也と春音ちゃんの事が心配で」

「どうして?」

「私達の結婚で突然兄妹になったけど、直ぐに仲良くしてくれて、最初は安心したんよ」

「そうだな」

「でも、最近仲が良過ぎると思ってね。この間、冬也の友達のお母さんから聞いたけど、

 あの子達が、手を繋いで歩いているのを見たって。『仲が良い兄妹ですね~』 って言われたわ。冬也はもう中学二年生でしょう。家に居ても、どちらかの部屋に二人で籠ってるし。冬也が春音ちゃんの勉強を見てあげてるって言うけど、ちょっと心配で。それに、春音ちゃん、冬也の事をお兄ちゃんって呼ばないしね」

「何、お前は、男女の心配をしているのか?」

「ええ、、、、まぁ」

「僕には、そんな風には見えないけどな。それに、春音が今みたいに笑えるようになったのは、全て冬也のお蔭だ。僕は、あまり春音達を疑う事はしたくないし、彼等に任せたいと思うよ」

「そうやね。初めて会った時の春音ちゃんの事を忘れてたわ。心配だけど、暫く様子を見ましょうか」

 瑠衣は、不安を拭いきれずに返答していた。

 両親の会話を聞いた冬也と春音は、お互いの手を強く握ると、キッチンには行かずに、自室のある二階へ戻ったのだ。


 春音は、瑠衣の病室で花の水を入れ替えていた。

「春音さん、色々とお世話になりました。私、家に帰るね」

「え? お母さん。どうして」

「だって、手術も何も出来ないでしょ? ここに居ても春音さん達の厄介になるだけやから」

「私達の所で暮らして。そしたら、お医者さんが近くに居るし安心でしょ」

「愁さんにそこまで迷惑は掛けられへんわ。私やったら大丈夫。ほら、猫の事も心配やし」

「猫も連れて来たらいいよ」

「春音さん、有難う。私は、もう十分面倒看て貰ったから。こんな身勝手な人間を、お母さんって呼んでくれて、本当に有難う」

「全部、私が悪いから」

「それは違うよ。そして私も春音さんを責めるなんて間違ってた。運命よ。誰にも変えれないし、誰かが、そうなる様に仕向ける事も出来ない。春音さんは何も悪くない」

「でも、お母さんの病気だって、きっと私が呪われているから」

「まだ、そんな事を言ってるの。貴方は呪われてない。私の病気は、私の自己管理不足。自業自得。そんな事で、自分を責めん取って。私の方が辛くなる。もう良いんよ。もう春音さんは幸せになって良いんよ」

 春音は、瑠衣が横になるベッド脇に座り込むと、声を出して泣いた。


【私が幸せになる権利なんてない】


 心の中で何度も叫んだ。

 そんな春音の頭を瑠衣は優しく悟りながら撫でる。


「春音さん、そうそう、そこの棚にある紙袋持って帰ってね」

 目を腫らした春音は、瑠衣の顔見た後、立ち上がると棚へ手を伸ばした。

 紙袋の中には、プレゼント用に包装された物が入っていた。

「少し早いけど、お誕生日おめでとう」

「え?」

「お父さんが亡くなってから、一度も貴方に何のお祝いもしてあげていない。本当に最低な母親だったわね」

「お母さん!」

 プレゼントを抱きしめると、春音は再び瑠衣の傍に腰掛け、溢れ出す涙を止められずにいた。

「もうそろそろ、愁さんと一緒にお墓参りに来てね。お父さんも冬也も会いたいと思うよ」

 窓に吹き付ける雨を眺めながら、瑠衣が呟いた。


 瑠衣の病室の外では、ホッとした面持で二人の会話を聞く神木が居た。

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