第8話 優しい子供
夏樹は、咄嗟に春音を自身に引き寄せてしまった。ここは、神木の通勤路でもある。
しかし、春音を引き止めたい今の夏樹には、正しい判断も羞恥心も無く、ただ本能のままに身体が反応したのだ。
死と隣合わせで生きて来た夏樹は、幼少期から物事に動じず、発作にさえ恐怖を感じず、ただそれを日常だと受け入れていた。
それは、悪く言えば既に死人状態だったのだ。
死人だから、「死」を恐れない。死人だから、他人からは見えない。
長い年月をそうして生きて来たためか、移植によって健全な身体を手に入れてからも、自身の奥深くに染みついた「死んだ自分」を変えられずにいたのだ。
夏樹には、自己探求心が身に付いておらず、自分の命を救ってくれた「家族」と「臓器移植」以外、頭に無かった。
だから、春音の腕を、また掴んでしまった自分に、夏樹自身が一番驚いていたのだ。
「ごめんなさい。俺、酔ってるのかも。多分、否、きっと冬也さんが、求めているからだと思います。だって俺こんな風に感じたり、行動した記憶が無いので、、、、済みません」
疲労がピークの身体ではあったが、ワイン一杯で酔うような夏樹では無い。ただ、このまま春音と離れるのが嫌だと感じたのだ。
まるで駄々っ子のようだ。
【ドクンドクン】
夏樹の胸元に抱き寄せられた春音の耳に、夏樹の心臓の音が届く。
それは、昔毎日のように沢山聞いていた愛おしい人の音。
すると、今まで閉じ込めていた哀愁が、春音の身体の奥深くから噴き出した。
【冬也! 冬也】
春音は、心の中で何度も冬也の名前を叫び、涙が溢れ出した。
泣きじゃくる春音の頭を、夏樹は更に強く抱き寄せた。手に春音の柔らかい髪の感触が伝わり、心が熱くなった。
しかし、それは長くは続かなった。瞬く間に自分を取り戻した春音は、夏樹の胸を自身から優しく引き離した。
「有難う。ごめんなさい。きっと私がそうさせてしまったのかも」
地面を見つめながら、春音が囁いた。
「加瀬先生は、優しいから。罪悪感とか持たないでください。私は、本当に冬也の命が、こんな素敵な方に、お役に立てて嬉しく思っています。そして、その心臓はもう貴方の一部です。それじゃあ、今日は有難う。さようなら」
春音は、そう告げると、夏樹の元から小走りで去って行った。
「何やってんだ、俺」
夏樹は、春音の頭に触れていた手を強く握ると、走り去る春音の後ろ姿を目で追った。
「俺の一部。俺の心臓」
そう呟いてみたが、異様に高まる鼓動を、自身が放っている気がしなかった。
「血の繋がっていない兄」
春音から感じた兄である冬也に対する気持ちは、兄妹愛ではない。
それは、まるで恋人を想うような強い感じがした。
午前中、仕事が休みの夏樹は、ここ数日感じた心臓の違和感に不安を覚え、予約していた主治医の居る、TK循環器研究センターを訪れていた。
「あれ? 今年の検査したんじゃなかったっけ?」
「阪元先生、何度もすみません。最近、動悸が酷くて」
TK循環器研究センターは、臓器移植手術に対応出来る、国内でも数少ない病院の一つで症例も多い。そして、夏樹もこの病院で手術を受け、
阪元とは、夏樹が幼い頃からの付合いで、もう一人の父親の様な存在だ。
移植手術後は、以前ほど頻繁に会う事はなくなったが、夏樹の心配性な家族が、年に一度の検査を要求するため毎年通っているのだ。
夏樹自身、心臓血管に所属しているため、加瀬病院で診て貰う事も可能だが、院長である亮一郎や、理事長の父親でさえ、阪元先生に診て貰えと求めてくるのだ。
「じゃあ、エコーで診てみるか」
「お願いします」
阪元は、探触子を通じて映し出される、夏樹の心臓を注意深く見ていた。
「仕事忙しいの? 無理し過ぎかな?」
「先生もご存知の通り、忙しいですけど、心臓に負担が掛かっているとは思いません」
「そうか。まぁ、ストレスとかね、色々と心臓に負担は掛かるけど、、、、やっぱり正常だな。前の検査の時と変わらない。ちゃんと夏樹君の心臓になってるよ」
【その心臓は、もう貴方の一部です】
春音の言葉が頭に浮かび、胸が苦しくなった。
しかし、この反応は、エコー検査を通して異常が見られないのか、画像を確認している阪元は何も言わなかった。
【なんなんだ、この痛みは】
「夏樹君、もういいよ。ついでに心電図も取っていく?」
夏樹は、自身で身体に塗られたジェルを拭きながら、上半身を起こした。
「いいえ、エコーで問題ないなら、大丈夫です。お手数をお掛けしてすみません」
「いやいや、これが僕の仕事だから、いつでも来てくれていいよ。動悸かぁ。頻繁に起こるの? どれくらい前から? 前の検査の時は言ってなかったな」
「ここ数カ月くらい、時々です。」
「どんな感じ?」
「こう、ギューっとするって言うか、痛いって言うか。突然鼓動が早くなるんです」
「原因があるんじゃない? 例えば最近仕事場で嫌な人が居るとか、ストレスを感じる様な、出来事があったとか?」
阪元に問われても身に覚えが無く曖昧に応えた。
「夏樹君ってあんまり動じないタイプだから、周囲から影響なんて受けないかぁ? でももしそうなら、人間ぽくて良い事だけどね」
阪元は、夏樹が入院していた時、他の子供達と遊ぼうともせず、ひたすら自身のベッドの上で一人本を読んでいる姿を見ていた。
ある日、不安に思った看護師が、阪元の気持ちを代弁するように夏樹に尋ねた。
「どうして、他の子と遊ばないの?」
それは、誰もが感じていた事で、人見知りなどの理由で助けが必要ならば、手を差し伸べたいと思ったからだ。
だが、小学校入学前の幼い夏樹は、こう応えたのだ。
「夏樹は、もう死んでるの」
周囲は驚愕したが、家族だけは理解していた。だから友達をつくらない夏樹に、心を痛めながらも、無理強いもしなかったのだ。
夏樹は、本当に心が優しい子供で、家族だけでなく周囲に気遣っているのだと、家族が説明したが、その当時はあまり理解されなかった。
そんな夏樹が10歳を過ぎた頃、根気強く夏樹に寄り添った阪元にだけは、自身の気持ちを説明した。
『僕と、遊んだりお話した子が、僕が死んで悲しむのが怖いんだ』
そう、こっそりと教えたのだ。
『夏樹は、もう死んだ』
と周りが思えば現実に起こっても、彼等の日常は何も変わらないと、考えていたからだ。
「人間ぽいって、、、、酷い」
「アハハハ。褒めてるんだよ。ストレスを感じるとかって、他人に干渉してるってことだろ。良い変化だよ」
夏樹は、目元を緩ませながら、微笑んでくれる阪元に心から感謝した。
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