第5話 春夏秋冬
夜勤の夏樹は、見回りのため、暗くなった病院の廊下を歩いていた。
「まだ慣れね~な、、夜の病院、、情けない。でもこえ~んだよな。忙しいと気にならないのに、今日はスローだから、暗いの意識しちゃうんですけど」
夏樹にとって、経験を積む事が出来る、夜勤や宿直のシフトは、全く苦痛では無かった。ただ一つだけ、夜の病院を一人で巡回するのは、未だ苦手だったのだ。
自動販売機の薄明かりが灯る、病棟の小さな休憩スペースが見えて来た。そこを超えれば、最初の見回りを終え、医局に戻れるのだ。目を通したいカルテもあるため、歩行を早めた時、不気味な音が鼓膜に響いた。
「ひぇ~ 何なに、、何だよ~」
耳を塞ぎ、さっさと医局に戻りたい気持ちとは裏腹に、不気味な音の正体も気になり、意識を耳に集中する。
『泣き声 女性の泣く声だ』
「ぎゃ~」
その声は、自動販売機のある休憩所から聞こえて来る。
そこを越えなければ、医局に戻るエレベーターに乗れない夏樹は、一瞬立ち止まり、来た道を振り返った。
そこには、真っ暗闇の中に病室の扉が並んでいる。
【今来た道を戻りたくない】
夏樹は勇気を出して、声のする方に行くしかないと決意し、駆け足で通り過ぎようとした。
だが、思わず目線を、休憩所に設置されている長椅子へと移した。すると、そこには、長髪の一人の影が見えた。
【うぎょ】
冷や汗が噴き出し、逃走しようとしたが、踏みとどまった。
冷静に考えると、それは幽霊なのでは無く、生きている人間だと分かったからだ。
【患者だったら、早く病室に戻って貰わないと】
「あの~ 大丈夫ですか?」
夏樹に背後から突然声を掛けられた影は、ハッとしたように背筋を伸ばし、目元をハンカチで拭う素振りを見せる。
そして、ゆっくりと夏樹の方に振り返った。
「あ、はい。大丈夫です。有難うございます。すみません、遅くまで残ってしまって。今帰ります」
その声は、女性であり、服装から察すると入院患者では無いようだ。
「お見舞いの時間は、もう随分前に終了しています。申し訳ありませんが、お帰り願いますか?」
「はい、すみません」
謝罪しながら立ち上がり、夏樹に方に歩み寄ると、その姿が自動販売機の灯りに照らされる。
その瞬間、夏樹は膝が床に着くほどの衝撃に襲われた。
泣いていた女性が、高城春音だったからだ。
身体へ衝撃を与えられたのは、夏樹だけでなく、春音も同じだった。
そのためか、夏樹の顔を間近で確認するように、彼の近くで立ち止まると、夏樹と目が合った。そして、頬を赤く染め俯く二人。
「失礼します」
小声で囁くと、その場を去ろうとした春音の腕を、無意識に夏樹が掴む。だが、我に返り直ぐに手を放した。
「済みません。俺、、加瀬夏樹と言います」
掴まれた腕が解放されると、夏樹の方に向き直った春音に、緊張した面持ちで夏樹が言葉を放った。
夏樹の一言を聞くや、春音の脳裏に幼かった頃、大好きだった人の声が届く。
「春音だろ。それと愁。で、俺が、冬也」
地面に木の枝で、三人の名前を書く男の子、春音の兄、
「俺達に夏が加わったら、春夏秋冬だな~」
そう言うと、満面の笑顔を、春音と愁に送る冬也。春音の愛おしい子供の頃の記憶。
「加瀬夏樹さん、、、、」
「はい、ここで外科医をしています。神木先生にはお世話になっております」
神木の名前を聞いて、意識が戻った春音は、もう一度夏樹と向き合った。
「そうなんですか。こちらこそ、神木がお世話になります。私は、高城春音と申します」
春音本人から出た彼女の名前に、夏樹は心臓の鼓動が一段と早くなるのを感じた。
「お母さん、大丈夫ですか?」
「え?」
「あ、済みません。先日、神木先生から聞いて」
「そうだったんですか。母は、、、、大丈夫で、、す」
母の容態を口にすると、暗い顔をした。
「すっすみません。俺、余計な事を」
夏樹は、先程まで暗がりで、春音が目元を拭う姿を思い出した。
【もしかすると、あの涙は、母親と関係しているのかもしれない】
「あ、いえ。母は、もう年ですから。では、お仕事頑張ってください。私はこれで」
「もう、夜間通用口しか開いてませんので、案内します」
「大丈夫です。神木から聞いていますから。また警備員さんに怒られちゃうかも」
春音は、肩を竦めながら、小さな笑顔を夏樹に送ると、エレベーターホールに向った。
夏樹は、その笑顔に釘付けなり、暫くその場から動けないでいた。そして、胸元を押さえ、心臓の鼓動が静まるのを待った。
「心臓」
そう呟いて、ハッとする。
【俺の心臓が、高城春音に反応しているのだ。彼女はもしかすると】
そう思うと胸元を押さえていた手を強く握った。
エレベーターに乗り込んだ春音は、
【加瀬夏樹】
と言う名を頭で繰り返していた。
そして、口を右手で覆うと、泣き出しそうになる自分と闘った。
戸惑った表情でエレベーターから降りた春音の耳に、携帯のメールを受信する通知音が届く。
「愁からだ」
≪今どこ? まだ病院なら一緒に帰ろう。俺も今仕事が終わったとこ≫
夜間通用口で待つと返信をする。
春音は、動揺している自分を愁に悟られないように、必死に心を静めた。
「春」
自分の名をいつもの様に、優しく呼ぶ愁が、通用口から出て来るのが見える。
「お待たせ」
当り前のように、春音の横に立つと、彼女の手を取る愁。だが、彼女の様子がおかしい事に瞬時に気付いていた。
「春、大丈夫? じゃないか、、、、ごめん。わざわざ大阪から来て貰ったのに、力になれなくて」
春音の脳裏に、愁が母の病状を告げた時の、悲し気な面持ちが浮かんだ。
「愁は、本当に良くしてくれたわ。お母さんも凄く喜んでた。それに私が、お母さんの看病が出来るなんて夢みたいだもん。ここに入院させて貰えて、本当に有難う」
春音は話終えると、隣に並ぶ背の高い愁を見上げた。彼は、握った春音の手を、自身の口元に近づけると、手の甲にキスをした。
「俺は、力になりたかった。それに奇跡を信じたかったから、こう言う結果は悲しい。医者の意見じゃないか、、」
神木は、前方にまるで何かが見える様に、眉をひそめると視点を集中させる。
「ねぇ、久々に外食しない?」
「そうやな。何処行こ?」
「小春!」
二人が住むマンションの一階にある、小料理屋の店名を同時に告げた。
「ハハハ」
「私達、他知らないもんね~」
「ほんまや。他行く気もないしな」
「そやね~」
「ハハハ」
少し笑顔を取り戻した春音を見つめ、神木は少し許された気がしたのだ。
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