第3話 巡り合わせ
夏樹が、休日を週末に取れるのは、久方振りであった。
「今日は良い天気だな」
こうして日の光に浴びるのも、電車に揺られるのも随分と前の気がした。
講演会が行われる会場に到着すると、それなりの人だかりが見えた。
臓器移植の講演会には、何度も足を運んだが、日本が臓器移植の後進国と呼ばれるほど実績も少なく、それを反映してか、一般的な関心も少ないのだ。
「もしよろしければ、こちらにお名前を、ご記入頂けますでしょうか」
「はい」
夏樹は、受付で所定の用紙に、形式的に名前と勤め先を記入した。
「あ、やっぱり、外科の加瀬先生ですよね? 私、消化器外科の看護師です。
「そうなんだ」
仕事以外で他人と会話するのが、あまり得意ではない夏樹は、見知らぬ女性に会場の受付で話掛けられ、若干戸惑った。
「実は、私の知人が、今日の講演会のゲストスピーカーなんです」
「そうなんだ」
「大学からの友人なんです」
「へぇ、そうなんだ」
言葉を交わす気の無い夏樹の態度を察知した上原は、数枚の資料を差し出した。
「これ、今日のプログラムです。足をお止めしてすみません。加瀬先生また病院で」
「あ、うん。じゃあ」
消化器外科なら時折、連携して仕事をするが、看護師までは把握していないのだ。
夏樹は、トイレを済ませてから会場に入ると、既に開演の10分前だからだろう、座席はわりと埋まっていた。
夏樹は、話さえ聞こえれば良かったのだが、前方しか隣との間隔を空けて座れる席がなく、前に歩を進めると通路側に腰を下ろした。
コンサート等なら人は前方へ座りたがるが、セミナーや講演会だと、後ろを選ぶのだなと、入口で受け取ったプログラムを眺めながら考えていると、講演会の進行者が登場し、マイク前に立った。
講演を始めるにあたっての、注意事項などの説明を始めると、ゲストスピーカーの二人が、ステージに並べられた椅子に着席した。
夏樹は、ハッとすると息を飲んだ。
ゲストスピーカーの一人に見覚えがあったからだ。
そう、先日、病院のバルコニーで見掛けた、あの女性だったのだ。
「では、お時間になりましたので、講演会を始めさせて頂きます。最初にお話をして頂くのは、臓器移植レシピエントコーディネーター
【高城春音】
初めて彼女を見た時と同じ様に、夏樹の胸の鼓動が高鳴り、頭の中で彼女の名前が木霊する。
彼女のスピーチに集中したいはずだが、耳から零れ落ち、声だけが鼓膜に響いた。
【俺、どうしちまったんだ】
こんな風に原因無く動揺したのは始めてだ。理解不能の感情に戸惑った。
だが、何故かそれは負の感覚ではなく、心が暖かくなり、また懐かしさを感じた。
夏樹は通常、冷静に判断をして行動する性格で、『恋に落ちる』などとは、縁遠い人間だ。
高城春音は、確かに美人の部類に入るが、夏樹をこれほどまでに、困惑させる魅力の持ち主だろうか。
春音は、講演を済ませると、聴衆に深々と一礼をした。そして、自身の控え席に戻ろうとした時、足元にあった彼女の目線が会場へと向けられた。
そして、『はっ』とした表情を見せた。その視線の先には夏樹の姿があり、ほんの一瞬であるが、目と目が合ったのだ。
夏樹は、居ても立っても居られなくなり、慌てて立ち上がると、会場を後にした。
集中力のある夏樹にとって、講演の内容が、頭に残らなかったのは、初めての経験だった。
決して、高城春音と名乗る人物の話す内容が、退屈だったからでは無い。
夏樹自身の意識がそこに在らず、とても不思議な感覚に陥っていたからだ。
そして、彼女と目が合った瞬間、心臓が飛び出るような衝撃に襲われ、恥ずかしさから、その場を逃げ出したい気持ちに駆られたのだ。
「は―は―は―」
【こんなに走ったの初めてだ。俺、絶対に変だ。この間心臓の検査をしたが、再検診しようかな】
【高城】
夏樹はこの名前を知っている気がしたが、思い出せなかった。
そして、額に滲み出る汗を手で拭いながら、真っ青の空を見上げた。
神木は、ある女性のカルテと検査結果を、苦い顔で見ていた。
「こんな所に、、、、転移じゃない、、、、手術は無理かぁ、、、、心臓外科に要相談やな」
少し大きめの黒いコーヒーカップを持ち上げると、一口含んだ。そして、コーヒーが喉を過ぎると、大きな溜息が漏れた。
「春にも言わないと、、、、」
もう一つ溜息を付いた。
朝の回診で騒がしい病院の廊下を、夏樹はカルテを脇に挟みながら歩いていた。
「おはようございます。加瀬先生。先日はお疲れ様でした。講演どうでしたか?」
夏樹が医局へ戻る途中、女性に声を掛けられた。
「あ、君は確か、、、、先日の講演会で」
「あ、はい。上原です。私には講演の内容が、難しくて良く分からなかったです」
そう告げると、上原はぶりっ子の様に肩をすくめた。
「ああそうなんだ。じゃ、俺急ぐんで、また」
「す、済みません。お忙しい時に、お喋りしてしまって。お疲れ様です」
夏樹は、出来るだけ不機嫌な顔が、表に出ないよう振舞いながら、足早に上原から離れた。
「え? 上原さん、加瀬先生と仲良いの?」
「ちょっと、聞いてないよ。いつから?」
「違う、違うって。そんなんじゃないから」
「休憩時間に白状して貰うからね!」
立ち去った夏樹の背後では、他の看護師たちが、上原と夏樹との関係を、羨ましそうに尋ねていた。
看護師達のくだらない話声が、嫌でも夏樹の耳に届き、彼の口から大きな溜息が漏れた。
そして夏樹が、ゆっくりとエレベーターに乗り込むと、男が一人滑り込んで来たのだ。
「あらま、朝から他の科の看護師と立ち話とは、珍しい事もあるんだね。あの子の目ハートだったぞ」
悪巧み一杯の笑みで佐野に話掛けられた。
「一番嫌な人にパパラッチされました、最悪ぅ」
「まぁまぁ、僕は、夏樹の成長が見れて嬉しいけどな。昔は、声を掛けられても、ガン無視だっただろ。立ち止まるだけ進歩だわ。何々、あの子って特別なわけ?」
「特別って何ですか? 俺に恋愛とかそんな暇あると思います?」
そう応えた夏樹の脳裏に、講演会での高城春音の姿が蘇り、顔が赤くなった。
「うわ! 夏樹、顔赤いぞ~ 怪しいな~」
「誰がですか! 今日は暑いですね~ ハハハ」
「暑いかぁ? そんなにムキになってぇ。人間に興味のない夏樹の頬を、赤く染める人物って、益々興味があるなぁ」
「人を冷血動物みたいに言わないでください。佐野先輩、そればっか」
機嫌が更に悪化した夏樹の後に、奇妙な笑顔の佐野がエレベーターから降りると、男性が声を掛けてきた。
「佐野先生、良かった、会えて」
「神木、何か用?」
「ちょっと、患者さんの事で、相談したいのですが、時間ありますか?」
「今だったら、良いよ。美味しいコーヒー淹れてあげる」
「有難うございます」
「じゃ、夏樹また後でな」
佐野は指をヒラヒラとさせながら、夏樹に別れを告げた。
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