第32話 早瀬の謀叛
数日後に早瀬は、御池通から小路を上がった所に在る、菅原の事務所を訪ねる。何の前触れも無い突然の来訪に、菅原はいささか面食らった。それでも深刻そうな顔に釣られて早瀬を招き入れた。
「久谷さんでなく早瀬さんとはこれは珍しい人が来られて確か社長のクリスマスパーティで会ったきりでんな」
と云いながらも、中央の応接セットのソファーに勧めて、事務机からそちらに移り対席した。あれから会社には何度か行くが、事務で無い早瀬には会っていないがそれでも、
「年度末の決算にはちょっと早いようやが何のようでっか」
と菅原は工場の早瀬には関係ないが、一応は経理関係から伺った。それでも早瀬は口ごもって中々切り出してこない。
「どないしたんでっか それでも関係があるさかいこっちへ来やったんでしゃろ」
「それなんですが……」
「ちょっと待て堅苦しい話か、そしたら下の喫茶から珈琲でも頼むさかい」
と菅原は電話でユウちゃんを呼び出して珈琲を届けさす。
「どうや渚さんと刈谷さんとはあのパーティの一気飲みから上手く行ってるらしいなあなんせ年始めには二人でここへ挨拶にやって来たけど社長の真辺さんの話をされたのには参った」
「掛川さんは刈谷さんとここへ社長の話でやって来たんですか」
「そうや、なんでもお父さんに頭越しに話しされて渚さんの経理を手伝って欲しいらしい。そんな話やったなあ」
「じゃあ掛川さんはそれで身構えてしまったんだ」
それはどう言うこっちゃと聞くタイミングで、ユウちゃんが来るなり、おまちどおさまです、と珈琲を二つ低い応接セットのテーブルに置いた。
「どやユウちゃんこの彼は男前やでぇ」
「もう菅原さん、迷惑そうな顔してはるのになんちゅうことゆうの」
「違うんや、この深刻な顔はユウちゃんとは違うんや、彼は今なんや解らんがなんか込み入った話を持って来たんやそやなあ早瀬さん」
「ハア」
「と云うこっちゃ」
「もうー、菅原さんええ加減なことばっかりゆうて早瀬さんって云う人困ってはるで」
とユウちゃんは珈琲を運んだお盆を抱えてサッサと出て行った。
「どやええ
そこでやっと早瀬が重い口を開け始める。
「社長に決算書の改ざんを出来る専門家を探せと言われました」
「理由はどうあれわしは無理やで」
「それは十分承知してます」
「片棒は担げんのに、ならどうせえちゅうのや」
「担ぐふりして貰いたいんです」
「社長を騙せッちゅうかそんなことしたらわしの仕事が減るがなあ」
「それは心配要りません菅原さんには今までどおりやって貰いますから」
「それはどう云うこっちゃ、ちゃんと説明してくれ」
何も聞かされてない菅原さんにしては、急にやって来た早瀬の真意を掴みかねた。それだけに焦らされると気を揉まされる。しかし早瀬にすれば話を始める前から、菅原以上に気を揉んだようだ。
「それで社長の意向は決算の改ざんによって掛川さんに圧力をかけて振り向かせるようなんです」
「なんやそれは彼女は刈谷さんと上手く行ってるのにそれに嫉妬して横槍を入れるって云うわけかそれはいただけんなあそれ以上に何でまた俺にその片棒を担がせようとするのや、まあ早瀬さんとは余り付き合いが無いかも知れんが俺はそんな男やないで」
「それは十分認識していますだから安心して頼めるんです」
「解らん事云う人やなあ、それはどう言う了見なんや」
そこでやっと早瀬は先日、社長から依頼された決算の改ざんを説明する。
「それをやってくれるもんを見つけて来いちゅうわけで何度も言うがなんで真っ先に否定されるわしのとこへ来たんや」
「そこです、別の税理士に頼んで作成してもらったと云って税務署の申告には正規の書類を出しますがもちろん社長には改ざんした別の書類を見せます。要は社長がその改ざんした書類で掛川さんに何を要求するかです」
「何でそんな面倒くさいことすんのや、それはハッキリその場で止めなはれって云うわけには行きそうもないさかいギリギリまで社長が一線を越えるまで様子を見たいちゅうことか」
「そうですそれに社長が最終的には掛川さんの意に従うっと云ってますけれど何処まで強引にやるか解らんからこんな手の込んだ事を菅原さんにお願いしてるんです」
「君がそこまでわしを信用して云うてることは解らんでも無いがわしのような税理士は世間にごまんとおるさかい紹介したるさかい他へ当たってくれんか」
「なんでですか」
「そんなもん解りきってる、これが成功しても失敗しても損するのはわしやないか仮に社長が矛を収めても後味が悪いこれを機に担当の税理士を変えるやろうそれが一番困る」
「だからあくまで匿名でしか引き受けてくれる人が見つからなんだと報告して二種類の書類を作成して貰えば後は私が責任を持って菅原さんには損害が及ばないように配慮します、で、どうでしょう」
「そこまで言われたら後には引けんけど何でまた渚さんと刈谷さんの二人にそこまで肩入れすんのやそれが知りたいし解ればこの件での熱の入れようも違って来るやろう」
スッカリ冷めた珈琲を早瀬は飲みながら菅原を覗った。
「わしはあの二人を真っ先に引き合わせた人間や」
早瀬の疑念に応えるように菅原は、去年の十二月の初めに敦賀から乗った列車で、あの二人とかち合った。正確には真辺さんを入れて三人やった。そのうちの一人は難しい顔して三人三様で一般客と思った。それで残りの歳の近い若い男女に話し掛けたら、気がおうてそれがわしもそうやが、あの二人も初めて出会ったんや。だからわしはそんなふたりの橋渡しをした以上は、君の真意も知りたいのは当然やろう。
そう言う巡り合わせかと早瀬も納得する。
「じつは響子さんに一人前の男として認めて貰いたいんです」
「刈谷真一さんの
早瀬は少し俯いて静かに頷いた。
「そうか、まあ、あとは大体解った。響子さんの気を惹きたくてこの問題にのめり込んでいるんか」
そこで菅原は、この改ざんのカラクリを知っているのは君以外では誰だと訊くと、今の処は響子さんだけらしい。
「じゃあ何か、君は真っ先に相談したのが響子さんか」
「そうですが後は社長の出方次第で手強そうなら久谷さんにも一枚加わって貰うつもりですがどうでしょうあの人は」
「ホウー、君も策略家やなあー、久谷さんは真面な営業をやって理に合わないことには乗ってこないからなあ」
「菅原さんも良くごぞんじですね」
「いやー、なあ、彼から若い頃の丹波での駆け落ち話を聞かされてなあ筋を通せば味方になってくれそうだが今はわしと響子さん以外は話すな。問題はいつあの二人の耳に入れるかやなあ早すぎても遅すぎてもアカンやろう」
「何でですか?」
「早瀬さん、君はまだ若すぎる。惚れ合ってる二人やでぇ、直ぐに社長に抗議するかそれに近いことをやる、すると社長は益々意固地になりかねんそうなると厄介やし君もあの会社には居づらいやろう」
どっちみち最後には発覚する。そのときはどうすると訊かれ、伸也君と独立して、それに久谷さんを引っ張るらしい。
「おいおい、そこまでしてあの二人に肩入れする必要も無いやろう」
う〜んと早瀬は返事を渋った。菅原は半ば呆れてしまった。
「オイ、オイ、響子さんにそこまで惚れてるんか、もうこうなったら響子さんに一蓮托生するつもりか、何となく久谷さんの若い頃と重なるみたいやなあそうなると久谷さんも動かはるか」
社長もそうだが無茶をする連中や、まさに恋は盲目か蜃気楼なのか、相手以外は何も見えないらしい。
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