第30話 寂光院2
本堂は古く、聖徳太子が父の
「この本堂まえの池は、平家物語にもあるとおり、後白河法皇が御幸されたときに詠まれた池と聞いています」
と木下は振り返り説明する。
「なにしにそんな尊い人がこんな山里へ来るんですか」
「建礼門院徳子さんに遭うためですよ」
「法皇は、長かった諸行無常の鐘の響きを収めるためにやって来たんでしょう」
それまで沈黙を守っていた真一が、木下の答えにひと言い添えた。これには掛川の父も驚いたようだ。渚さんは、そんな彼を慈しむような眼差しを投げ付けてくる。
本堂から下がり、この小さな池の辺りで出会ったようです、と木下は案内する。
寂光院本堂のこの左手奥に、女院が隠棲していたと謂われる
先導した木下が竹垣に着くと、向こう隣りに父が立ち、こちら側に順次、渚と真一、早瀬がいる。響子さんは早瀬から少し間を置いて石碑に思いを馳せているようだ。
「あそこに彼女の棲む庵が在ったのですよ、そこへ後白河法皇を招いて積もる話をしてそうです」
「一体何を話すんです。平家追討の院宣を出し一族を滅ぼした張本人の後白河法皇に」
と渚は不満気味に隣に居る木下に問う。
「そこですよ。諸行無常の鐘の響きを止める為に、双方が歩み寄ったんじゃないでしょうか。彼女の積もる恨み節を、深き壇ノ浦に沈めてもらうためにやって来たんでしょうね」
「双方がもう既にその力を失って、老いさらばえて知る境地と言えば儚いものでしょう。これは私の仮説ですが、老いて知る我が身の愚かさを法皇は悟ったんでしょう。その結果として朝廷の力は弱まり、武家が台頭を許したのは失策だと。それを彼女に語ることで己の愚かさを恥て、更に安らぎを求めたんでしょう」
と今度は父がゆっくりと語る。
「掛川さんはそう思ってるんですか」
「木下さんもそうでしょう。だけど残っているのが石碑だけとは知らなかったなあ、彼女は生かされた人生をどう歩んだんでしょうね。特に晩年になって平家追討の院宣を出して一族を滅ぼした後白河法皇との対面に、彼女の心境に迫れる物が有れば、と思って妻は行きたがったそうだよ」
医者には止められて行くのは無理だが石碑だけでは。これではベッドの上で思いを馳せたままで良かったかも知れないなあ、と父はポツリと呟いた。なぜが渚さんには父の吐息が寂しいそうに見えて、真一と一緒にそっと離れた。それを察して響子さんと早瀬も一緒に父から離れて石碑と対面した。
「お父さんは、お母さんへの想い出に耽ってるのよ」
「それでも木下さんとは何か話しているけどね」
「それですけど、掛川さんは再婚されるって伺ったけど……」
早瀬が確かめるようにボソッと喋った。
「どんな相手だが知らないけれど、あたしには止める権利はない。でも拒む理由はあるわよ。同じように父にもあたしの相手には止める権利はないけれど拒む理由はある。でも今佇む父は、一人の人に想いを遂げる雰囲気じゃないようね」
「お父さんがそうなら、渚さんは何処までも突っ切れば良いんじゃないの。ねえ真一さん」
話を振られた真一にしても、今あの父親と正面切って張り合う気持ちは失せている、と謂うより盛り上がらないのだ。
「いつまでそうしているつもりなの」
とじっとしている真一が、響子さんには焦れったいらしい。
「父は気付いているわよ。何でこんな時に従兄弟が付いてくるんだと思うでしょうね」
渚さんまで云われてしまった。
「じゃあ、お父さんはじっくりと真一さんを品定めしてるってわけ、それで一緒に来たあたしはいい迷惑だわ」
「まあ二人とも良かれと思って、私がしただけですから」
響子さんには来て貰いたかったが、渚さんを説得するには刈谷さんを連れ出すしかなかった。この複雑な状況を、響子さんに説明する
「父には父の条件と都合があるのよ、それに当てはめられるか思案しているのかも知れない」
「それでもあの石碑を見ながら意固地に何を考えてるのかしら……」
とそれを聞いて響子さんは皮肉った。
「響子さん、それは
「そう云う不倫を助長する考えは捨てて欲しい」
と響子さんは感情に起伏のある渚さんにチクリと刺す。
「いや、私は男と女の感覚を述べただけです。神代から恋は不変で変わりはありません」
美しい花を観るときに、その土の中に秘められた養分にも思いを寄せなければ、花は美しく咲けないと知って欲しいのです。
「それはお母さんの生き方からですか」
「掛川さんのお母さんの名前なんですが、実家は湧き水が豊富で水害から土地を護る護岸の意味合いから付けられたそうですよ」
「早瀬さん、それはお父さんがあなたに云ったんですか」
彼にも話していないのに、何でまた早瀬にと、木下と二人で石碑と対面する父に鋭い眼差しを向ける。
「父は母をどう愛していたのか、どうやら母は末期には父にかなりの思いを伝えていたようで、寂光院の話は知らずに、ここへ来れば少しは解るかと思った。でも母は本から得た知識を確かめる前に亡くなった。ですから何を思い何を大切かにするかによって、父の生き方が変わるでしょう」
「どうもあの二人は、それほど深刻な話ではないみたい」
と響子さんは木下と父が和気藹々と、時には笑いを噛み殺すような仕草を指摘した。
「木下さんの説明が、きっと面白かったんじゃあないかなあ」
真一が渚に肩入れするのが響子には癪に見える。そこを早瀬はすかさず「いいじゃ有りませんかせっかく息抜きで、しかも日帰りなんですよ」と干渉を避けるように仕向けた。
「そうね、最終便は夜の七時四十分で、余裕を見て六時には空港へ向かわないと、だからきっとそんな予定なんかも話してるんじゃないの」
だからそっとしておけば、と早瀬に言われて響子さんは、彼と二人で石碑から離れた。
「そんなに
二人が側を離れると、さっそく真一は渚さんと話し始める。
「あたしの問題と一緒に、きっとお母さんのことを思い出して来たのよ」
あたしが生まれる前の父は、一人はなんともなかったが、親しい人が出来ると、その人と一緒にいる時間が楽しくなれば、独りが怖くなったそうだ。
「今の話、お母さんから聞いたかも知れないが、でも此処に来たタイミングは可笑しいけど……」
ーーそれで、もうお父さんはこの問題に結論を出したんじゃないか。
ーーそうじゃあないわ。厳格な人ほど独りが耐えられないのよ。
ーーそうかなあ。
ーー近々再婚する前に、お母さんとの想い出を整理しておきたいのよ。
ーーそれは酷い。それじゃあ人を思う心に道徳は要らないのか。愛情表現の欠如が再婚の理由なのか。
ーーさっきも言ったとおり、父は独りが怖いだけなのよ。
ーーそれじゃお父さんの道徳って云うのは自分を押し殺した果てに出て来る感情なのか。
ーーそんな深いもんじゃないわよ。父にすれば人の道から外れない正しい行いでしょう。
ーーだからこの場合は、好きな人と自由に生きたいという俺の感情を、お父さんが否定しても、俺は何も踏み外してないんだ。
「あなたのお父さんが熊本から出てきたのはそう言う意味合いじゃないのか……」
そうだとして、あなたは何処まで父に逆らえる人なんですか、と彼女は寂しそうに聞き返した。
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