第26話 まだ残る一難

 語り尽くせず久谷は帰った後に、菅原は下の喫茶店に刈谷を誘った。何か他に伝えたい物を感じた真一はその誘いに乗った。

「さっきコーヒーを出前してくれた子、ユウちゃんって云うのや」

 その子が二人のテーブル席にやって来た。下もあの二階の間取りだからそう広くない。長いカンタータも五人席ぐらいだが、込むとマスターはあと二つ椅子を増やすと、マスターはカウンターから出られなくなる。他に膝が合うほど小さい二人用のテーブルが四つ並んでいる。その一つに真一と菅原が座っている。

 ユウちゃんと呼ばれた子が、注文をカウンターの中にいるマスターに伝えると、早速鍋を動かした。菅原さんは昼食のオムライスを二つ注文したのだ。ここのは美味いさかい食べて行きと誘ってくれた。

 実は昨日、真辺と久谷の二人に会って聞かされたが、わしはあの二人に加担するつもりはない。あくまでも中立な立場や、と聞かされた。社長の方はこないだ実家に招かれて少しは様子も知ったと思うが、昨日は久谷さんから過去の説明を受けた。

 彼は丹後の生まれで、両親は今もそこに住んでいる。彼自身も所帯持ちだが今はこっちで生活しとる。丹後と云っても、もうほとんどが丹波の山の中だから、さっきの説明も嘘やない。本当に所帯を持つつもりで駆け落ちした話は本物や。ただ彼女のお父さんが地元の有力者でなあ「何処の馬の骨が分からんような青二才とは一緒に成るのは絶対に許さん」と云われたが相手の娘さんが親を捨てるとまで言ってくれたそうや。それでさっきの話になったんや。これは久谷さんを紹介した人からも聞かされ、社長もそこまで相手の身になってくれる人ならと採用したそうや。だから久谷さんも、掛川さんから肘鉄を食らわされたら別やけど、そうじゃないなら。とこの話に乗ってきゃはったんや。

 既に二人はオムライスをほぼ平らげて、ユウちゃんの運んでくれた珈琲で寛いでいる。

「そこでや刈谷さんは何処まで掛川さんの気持ちを掴んでるんや」

「気は合うんですけれどまだハッキリとは言われたことはないんですが」

「それやったらもうなあなあで来てるんちゃうか君の存在感に恋しているっちゅう感じやなあ」

「何ですかそれは」

「これはわしの長い経験に基づく人生観や、と云っても恋多き人生を送ったもんでもないんやそれが証拠にやっと掴んだ嫁はんを大事にしてまんのや」

 菅原が語る人生論は、その年輪の分だけ実感が籠もったもので、切実と訴えるものがあった。

「相手が意思表示しない処を見るともう恋愛感情から一つ抜け出たのだろう」

「そうじゃないから苦労している。何処までが演技でどこから本気なのか分からないからですよ」

「年季の入ったバーのマダムならまだしもそれはないだろうまだ若い女の子が」

「いや彼女なら陰陽師さえ舌を巻くかも知れない」

「それだけやり手な訳ないだろう」

「そうじゃなくて言葉に裏表がないから怖いんですよ」

「意のままに生きるちゅう事やなあ何もわるうーないがなあ」

「多分お母さんの影響なんでしょう」

「さっき久谷が言っていたことやったらわしもはっきり知らんが、何でも末期がんらしいなあ」

「まあね、そこで、それまでに助かる方法を捨ててしまったそうですよ」

 一部の機能を損ねてまでは生きたくない、健全なまま生きたいと云う想いを菅原は静かに頷きながら聞いていた。

「自分の命をどう使おうと勝手やけど、美しく生きるために使うのもええっこっちゃろう恋もおんなじちゅう考えなんやなあその娘さんも。それでそのシアトルに居る弟さんとは遣り取りしてるんか」

「しているらしいけれどなんとも言わないからただ留学する前の話は良く聞かされました。どうも内向的なところを視野を広げることで徐々に克服して思い切り別な世界へ飛び込んでいくその過程が似ているらしい」

「掛川さんにあなたはどう言われてるのか知りまへんが私の勘では弟さんも掛川さんも亡くなったお母さんの影響を受けているんでしょうね、その影を刈谷さんは引き摺ってるように見えたんでしょうなあそれ以外いに思い当たる節があれば聞かせて欲しいけど……」

「当事者としてはよく解らないけど傍目にそう見られればそう見えてくるから恋は不思議なもんですね」

「気が合えばそれで良いんや理屈は後からなんぼでも付けられますさかい、もっとも惹かれる要素は千差万別やから何処まで真剣になれるかが恋の分かれ目でっしゃろうなあ」

「どちらも真剣なんだと久谷に伝える方法があれば教えて欲しいけれど」

「なるほどしかし久谷さんも苦労人で今は妻子が彼の肩に掛かってますから一筋縄ではいかない処がありますが巧くなびくようにして掛川さんをしっかり掴んでいれば彼は諦めますし社長とも身を引かせるでしょう」

「そう簡単には諦めないでしょう少なくとも社長は」

「なるほど今までの彼の行動がそれを物語ってるなあ」

 彼はチャンスは逃さない。それは起業家としては申し分ないが、他の面でも発揮している。それが今度の年末年始のたった一日の休みに、熊本へ行っている、と菅原に言われればその通りだ。

「あんな遠征の家庭訪問が何処に有るって言うんだッ」

「愚か者は何を無視するか、賢者は何から知識を得るか、そこを良く考えて行動することですよ」

 税理士としていつもキチッと答えを出す菅原さんが、こう言う時はハッキリとは答えを言わないから戸惑う。それを訊ねると数字は正直な処があるが、それ以外は曖昧さが残る。特に人の行動なんてその典型的なものだから、厄介だと菅原さんは笑っている。だから真辺と久谷を比較すれば、まだ久谷さんの方が理屈に合った行動を取るから営業マンとしては適任者だろう。そこがわしと久谷との共通点だろうとも云った。要するに起業家としての真辺には未知な処が有り過ぎる。確率は少ないが掛川さんの云う悪い人じゃあないと言うのにも、その数パーセントの未知な処が引っかかっているんじゃないかとも指摘した。


 真一は苅野谷の工場に戻った。響子さんにさっそく用件を尋ねられたが、逆にどうしてお父さんが行くように勧めたかを訊いた。

「お父さんは菅原さんから折り入って甥御おいごさんに話して起きたいことがあるって言われただけだからお父さんも知らないわよ」

 とアッサリ言われた。

「そうかそれで掛川さんだけど」

「彼女がどうかしたの?」

「どうやら彼女のお父さんが熊本からわざわざ出てくるらしいんだ」

「それとどう言う関係なのかしら?」

「伯父さんは後継者としての伸也君を本当に諦めているんだろうか」

「伸也にはこの工場には冷めて熱がないことは確かなようねまあこの春には伸也も卒業だからねそうなればもう曖昧な態度は取れないでしょうね」

「だから伯父さんは俺に技術面は早急過ぎて身につけられないからせめて経営方針位は学ばせるつもりで菅原さんに俺の面倒を見させるつもりだから行ってこいって云ったと思う」

「それでどうして掛川さんの話が出るの、可怪おかしいでしょう」

「後継者ともなれば身持ちも大事になるんじゃあないのかなあ」

「なら余計に怪しいわよ、それにお父さんには一度訊かれた。真一君は従兄妹いとこと謂っても殆ど血縁関係がないからお前一度考えてみろって言われたけど……」

「ハア? それで……なんて……返事したの?」

「まだ会ったばかりで分からないって云えば『会ったばかりじゃないだろう盆には九頭竜川へ帰って会ってるだろう』とは言われたけれどそれは小学生までだからって言い返した」

 そうか新鮮味がないのか。

「それで」

「それで終わり」

「じゃあ俺が急性アルコール中毒でぶっ倒れて滋賀の病院で一夜を明かした時はどうなの」

「バッカーね、あんたの万が一の時の身元引受人にならされたのよ」

「じゃあ掛川さんは」

「あの人は無理矢理乗ってきたのそれと万が一の時は殺人未遂の張本人だから」

「あのー、呑まされたのでなく勝手に呑んだんだけど」

「あの場合はどっちも同じでしょう」

 本当はどうなんだろうと見詰めても、これじゃあの時の真相は誤魔化されてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る