第25話 一難去らずまた一難

 いよいよ五日から仕事始めになった。彼女の立場を思うと、真一は少し億劫になり勝ちな心を戒めて会社へ向かった。響子さんは会社の事務所を手伝っている。真一が事務所へ寄ると、彼女から元気が無いわねぇと言われた。しかし響子さんは渚さんを余り快く思ってないんだろうなあ。それだけに原因は言いにくいがもう気が付いているはずだ。気になる伸也の奴は、奈菜ちゃんとルンルンなのに、響子さんはあれから早瀬と会っているのさえ窺えない表情だった。まあ三日前に伸也の身代わりになった彼女にすれば、そう深くは考えて無さそうだ。まだ未知数な早瀬に手を差し伸べてやりたいが、これだけは相手が有るから、こじらせると厄介なだけにそっと観るしかないか。

 あれからまた真一は、哀愁を帯びたまま事務所のデスクの前を通りかった。そこでパソコンと睨めっこしている響子さんに呼び止められた。どうやら経理に問題が見つかったのか、菅原さんの事務所へ行って欲しいと頼まれた。

「経理を任すと言う事は人様に家の台所を見せるようでみっともなかったけど菅原さんならいいかって珍しくお父さんが言うもんだから真一さんはどうなの」

「どうって急に言われてもしかしその話なら乗って損はないよあの人は明朗会計で良心的だから」

「その言い方ってどっかのスナックの呼び込みたいね」

「行ったことあるの ?」

「バッカーね、直ぐ調子に乗るからはぐらかさないように」

「はぐらかしたのはそっちだよ」

「アラそうだったかしらとにかく真一さんに行ってもらいたいってお父さんが言ってたから頼んで良いかしら」

「いつ」

「今日は仕事始めで特にないから今からどうかしら」

 と云う訳で出かけることになったが、向こうにすれば用件は違っても、昨日の今日で同じ人が来るとは思ってないだろうなあ。

 さっそくバスで御池通に有る事務所へ向かう。屠蘇気分が抜けきらない乗客を尻目に、彼もノンビリとバスに揺られた。商店街や百貨店の店頭には、初売り出しの福袋が飛ぶように売れている。内の会社の商品もああなればいいが、と名残惜しそうに行き過ぎた。やがて菅原の事務所に着くとそこに久谷が来ている。

 真辺は今日は休暇で、代理として久谷がやって来ているらしい。そこへ真一がやって来て事務所へ入るなり、正面のデスクに座る菅原さんから、後ろの応接セットのソファへ手を差し伸べられた。振り向けばそこにはあのクリスマスパーティーの夜に真辺と一緒だった男が居た。躊躇しながらも向かいの席に座った。渚さんの話では、男は確か久谷くたにと聞かされた。菅原は久谷と対面するように真一の横に座った。

 菅原さんが久谷の経歴について簡単に説明する。今年で四十になり、油の乗り切った中年になるそうだが、どう見ても三十半ばに見える。若う見えまっしゃろ、と菅原が言うように張りのある顔をしている。真辺はこの事業を興すのに必要な人材として、先ずは知人に営業面を任せられる人を求めた。だから久谷は知人に斡旋してもらった人だ。後の社員は全て求人広告で募集する。

「それで何の話なんですッ」

 真一には合点がいかずに、途中で切り上げさすような口調になった

「そうでんなあー、会社の事業内容は社長の真辺さんの方が詳しいでっけど会社そのものの有様は久谷さんの方が詳しいので来て貰いました」

「ハァ ? それで何で僕は呼ばれたのですか」

「そう性急に物事を運んではせっかくのお膳立てが壊れますから、まあそこは順を追って話を進めましょう」

 そこで下の喫茶店に頼んでおいた珈琲が、バイトの若い女の子に依って運ばれた。

 こう言う場合一階が喫茶店と云う立地条件は重宝しています、と菅原は珈琲を勧めた。ここで飲み物が出た、と言うことはやっとこれから話の本題に入るところなのか、と真一はウンザリした。それを助長するように久谷が始める。

「それじゃあ云いますが掛川さんのお父さんから大変立派な返礼品をいただきまして社長の真辺は恐縮していますよそこからどう察したのかお父さんは近々こちらへ社長に会いに来られるそうなんです」

「それがどうしたんですか別に娘さんがご厄介になっているのだから会社訪問されてるのは普通でしょう」

「そうでしょうかまして熊本からわざわざ年始めに出向いて来るなんて異例でなんか他にご用がおありだと思ってるんですけれどひょっとして心当たりでもあろうかと思いまして前もってお伝えすべきとここへお呼びしました」

「わざわざここへ呼び出さなくても良いじゃないですか」

 これは渚さんの耳にも入っているのか。なら直ぐに相談を受けるが、どうもまだ彼女の預かり知らないところの、当事者間での話なんだろうか。

 久谷が言うには、貴方には熊本に居る親を説得できないから、特に母親を亡くされて気落ちする彼女の幸せを願うのなら身を引く用な事を匂わせる発言を云ってくる。

「そんな話より彼女は知ってるんですか」

「いやそれは解らないそれは順序としては先方のお父さんから話されることでこちらから掛川さんに相談するものでもないでしょう」

「それを何で本人より先に私に知らせるんですかそのあなたの意図が分からないけど……」

「それはどうでしょう薄々は感じているんでしょう、それより本当の安らぎを伴侶に求めて彷徨うあたしも若いときはそうでしたよ、三畳一間でキャベツをかじっていて安らぎが有りますか掛川さんのお父さんはそれを確かめに来るんだと思いますよ」

「何の為に」

 俺はそんなに惨めではない。久谷は一言多い奴だ。

「安定した将来が築けるのか、親とすれば当然でしょう、お父さんはお母さんが亡くなった時から自分のことは後回しにして娘さんのことを考えているんですよ、だから再婚はそれからと思っているらしいですよ」

 再婚の話は渚さんから聞かされている。しかしそこまで考えていたのは今初めて知った。

「人が離れた経験を知らないあなたには難しい話でしょう」

「離れていくってどう云う事なんですか」

「別に辞められて行く以外に死別も有りますお母さんのように」

「何が言いたいんです!」

「そう剥きにならずにまあ聞いて下さいよ最終列車で最愛の恋人と別れたわたしの話を」

 ーーもう二十年近くなりますが、私も両親から祝福されない恋から逃れようとしました。待ち合わせをしたのは真冬で丹波の山中の駅だった。駅はその町の中心に在り、そこで許されぬ恋に翻弄された。いや取り返しの付かない恋に、あの人を巻き添えにした後悔が残った。あの駅に立てば今でも彼女の姿が想い浮かぶのですよ、貫き通した彼女をどうして止められなかったのかと。

「それは一度想いを乗せた列車は想いが尽きるまで走り続けるんですよ、もう少し年輪を重ねればそれが実感できますが哀しいかな今のあなたの若さでは無理でしょう。だから言えるんです目を覚まして欲しいと」

 そんな作り話に迷わされる自分じゃあないと久谷を睨んだ。

「あなたの過去と私の未来は決して重なり合わないと云う事だけは此処で断言しておきますそれはあなたとは愛の重みが違うと言いたいからでしょう」

 久谷は笑って、今あなたが置かれた立場から、それを誰が証明できるんです、と自信を持って言い切った。そして、あなたの中にはまだ子供っぽい処があると言われて、真一はムカッと来た。それで久谷は矛先を変えた。

「掛川さんはお母さんへの想いを大切にされているようですね」

 何も聞いていない人に、そんな容易たやすく言い切られるのが気に入らない。それは死して魂を遺した人への冒涜である、とまで真一は言いきった。これに久谷は反論する。

「あなたも私と同様に掛川さんのお母さんが死なれた真相は知らないでしょう」

「私は全く知らないあなたよりお母さんの傍に居た人から実感の籠もった言葉で言い聞かされた。そこには人生に対する生きざまを持ち続けた人の死に際を大切にしたい渚さんの想いを知ろうとしない人には本当にお母さんが人生を全うしたとは言い切れないでしょう」


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