第17話 酔い潰れた夜を早瀬に訊く

 部屋に辿り着いても収まらない胸の烈しさは慌てたからではない。渚との思惑のすれ違いが、そのまま動悸となって胸に出たが、渚から投函された手紙を見て、ひと息付けた。彼は手紙を読み終えると、主の居ない天井を見上げた。それから荷物を纏めてひと息付くと吐息で曇る窓硝子を擦れば、比叡の凍れる山容が瞼に飛び込んで来る。

 頂上だけ白く凍り付く比叡の山頂を眺め、雪も降らないのに確かに此処は寒い街なのに、千年も住み続けて居られるのは何なのだ。年の瀬を迎えて寒波がやって来そうなほど空は陰り始め、雪が舞っても積もらない。福井ならこれはドカ雪を運ぶ雲なのに。彼は僅かな荷物を持って部屋を出て、予定通りそのまま福井へ帰郷する。これで渚さんとの駆け引きはなしだ。

 彼女は今まで本当に事務の仕事に追われていたのか。俺はあの時、四杯目の一気飲みをしたとき渚さんがなんて言ったか知らない。でも側にいた早瀬は何か聞いているはずだ。そうだ伸也に頼んで、早瀬を呼び出してもらおう。別に福井までの電車はまだある。早瀬は年末休みを実家のある湖北に帰っている。

 京都駅に行くまで晴れていても急に時雨れる。所謂いわゆる、狐の嫁入りって言うやつだ。日本海を渡った雪雲が、降り残した分を内陸にまで運んで冷たい雨となって降る。傘を差すのに躊躇する雨脚だから、少し濡れてしまったまま敦賀つるが行きの新快速に乗った。

 県境の隧道を抜けて琵琶湖に出ると時雨は雪になっていた。大津から瀬田の唐橋まで湖面を吹き付ける強風に乗って、雪は窓ガラスに叩きつけられて流れ落ちて行く。草津、守山、野洲と湖西に開けた近江平野を北上して近江八幡おうみはちまんに着いた。ホーム中ほどのガラス張りの小屋には既に早瀬が来ていた。待合室のサッシのガラス戸を開けて、中に居る早瀬の横の椅子に座った。

「いやあ呼び出してすまない、でもここまで出てこなくても伸也にはこちらから木之本きのもとまで出向くって言ったのに」

「伸也にもそう言われたが、どうしても待てなくてやって来たんだ」

「待てないって? どうして、君には関わり合いない話したろう」

「直接にはね」

 まあそれは後でゆっくりと話すとして、内の会社は自然相手で目が離せないから、年の瀬ギリギリまで仕事だったとぼやいている。

「それでも社長は、一日だけ九谷さんに野菜の管理を任せて出勤するから、我々はまだましですよ」

 と伸也に何処までこの仕事が務まるか、遠回しに言ってるようにも見える。

 その内、次にやって来た普通電車に乗り換えた。

 早瀬は社内に於ける人間関係の話をした。

 おもに真一に関心のある会社における、渚さんの仕事ぶりを延々と聞かしてくれた。それで彼女の仕事ぶりは判った。ただしきりと真辺が事務室にやって来るのが気に食わなかった。それに合わせて九谷も事務所へよくやってくる。この会社ではこの二人が主に渚さんと顔を合わす回数が多い事も判った。

「君を含めて、他の社員は余り事務所には顔を出さないのか」

「まったくそうですよそれだけ野菜の管理が大変なんですよ」

「じゃあ正月休みは社長一人で大丈夫なんか」

「社長と九谷さんは僕らと違って、もう既にこのシステムのノウハウをかなり身につけてますから。早い話が変動の少ない期間ならモニター上で管理が可能ですよ。僕らは四六時中見張ってないとだめですけどね」

「じゃあ常駐していない伸也はそんなにものになってないだろう」

「彼は凄いですよ。それだけ大学での補習も受けているせいでしょうね」

 大学の研究室には工場のデーターが送られて、それを伸也は見ているらしい。そのつじつま合わせのように、会社に来て僕らの仕事に時々加わっている。

「じゃあ卒業すれば、そこそこやっていけるのか?」

「本格的にやるにはそこそこの広い土地が要りますよ」

「それは雪の多い地方でも大丈夫なんか。例えば越前の九頭竜川沿いとか」

「気候よりも他の立地条件でしょうね。刈谷さんは正月はそこへ帰るのでしょう」

 そこで列車は木ノ本駅に着いてしまった。どうしますと言う早瀬に「まだ肝心な要件を済ませてないから」と一緒にこの駅で降りた。

 木ノ本駅は長浜市になっている。早瀬は列車の中で話そうと途中の近江八幡駅で待ち合わせたが話がまだ途中で、このままでは九頭竜に行けなくて一緒に降りた。

 改札を抜けて驚いた。一面田んぼ広がる中にぽつんと駅が有ると思ったが、何の何の、この辺りには不釣り合いな小綺麗な駅舎だった。最近改築したのかと早瀬に聞いたが、彼はそんな田舎やないと、ぶっきら棒に答えた。

 駅前は道路一つ隔てて広い駐車場になって、周りには住宅もあり、その間に申し訳程度に田畑が点在している。だが流石に商店は見えなかった。早瀬が列車の中で話そうとしたわけもこれで判った。

「駅の待合室で続きを聞こうか」

「あそこは寒すぎる。こう見えても喫茶店もどきだが店はある」

 と言い出して早瀬が歩き出した後に続いた。何もない駅前から百メートル以上歩いた国道に繋がる道路沿いに、ポツンと一軒それらしい店があった。構えは何となく喫茶風だが、店前にはお食事処ののぼりが立っていた。ちぐはぐな店だと中へ入った。中は確かに喫茶風だが丼物や定食らしきメニューが、ドリンクと一緒に並んでいた。とにかく珈琲を二つ頼んでテーブル席に着いた。

「会社における渚さんの仕事ぶりは判ったが、普段はどうなんだろう」

「普段って、刈谷さんは良く会ってるって伸也から聞いてるけど」

「まあそうだが、社長や九谷って人とはよく社外で話すことはあるだろうなあ」

「社長とは有るけど、九谷さんとはそうめったにないなあ」

「そうか、その社長だけど、渚さんとは社外へ出かけることは余りないそうだなあ。殆ど掛川さんの方で断ってるらしいと彼女から聞かされたがどうなんだろう」

 なにげなく質問したつもりが、早瀬はなぜが一瞬戸惑ってから、

「掛川さんがそう言うならそうなんだろう」

 と要領を得ない答えが返って来た。真一は少し怪訝な顔付きで早瀬を暫く見ていると、

「それで他に掛川さんの何が訊きたいんだ」

 と素早く切り返してきた。早瀬の切り替えが気になり、気の変わらないうちにと、思わずあの一気飲みの夜の出来事に切り替えてしまった。

「あの時は僕の側に居たのは君と渚さんだけだろう」

 と訊いてから、そのときの状況を今一度確認した。

「それで俺が四杯目を一気に飲んだ時のことだけど……」

「それを聞くために木ノ本でわざわざ途中下車したんですか」

「そうだ」

「そう言われても余り覚えてないだろうなあ」

「これは今の僕にとっては大事なことなんだ」

 珈琲は既に飲み干していて、彼の希望を聞いて熱いホットココアを追加注文した。それを早瀬は息を吹きながらすすった。

「掛川渚さんにはシアトルへ留学している弟さんが居るのを早瀬君は知ってるか?」

 早瀬はハアとひと息抜くと、知らないと答えた。

「それがどうかしたんですか?」

「ウン、そこが今から聞きたい肝心な処なんだ」

 そうですか、と彼は怪訝な面持ちで聞き返した。

「あの一気飲みの夜の出来事だが、そこで、その弟さんを僕は話題にしたのを覚えているだろう」

「嗚呼、そう言えば酒の勢いで掛川さんに聞いてましたね」

「それそれ、それなんだけど、僕がぶっ倒れる直前、即ち四杯目のピールを煽る前に渚さんに弟さんとどうなんだと聞いたのは覚えてるか?」

 早瀬はやっと刈谷の言いたいことを理解したらしく、ちょっと表情を和らげた。

「あの時は返事を待たずにと言うより、何を言われるか怖くなって、そのまま直ぐに一気飲みしてしまった。そのときに掛川さんが僕を止めながら何を言ったか聞かせて欲しい」

「そんなことですか。でもあれは本心かどうか場所が場所だけに知りませんよ」

「判ってるが、どうしても九頭竜に帰る前に聞いておきたいんだ」

「確か弟以上って言ってましたけど、そのときは何のことか解らなかったけどそう言うことでしたか」

 と早瀬は納得した。

 

 

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