第8話 慰労会
展示会場の後片付けにやって来たのは、嫁いだ律子姉さんと旦那さんの氷川正さんだ。氷川さんは苅野谷会社の得意先の社員で当社に来るうちに、長女の律子さんと親しくなった。
刈谷はこの日、初めて氷川に会う。彼は背は高くなく、百六十ぐらいで、体格も普通だ。氷川の会社は大型の工作機械を製作している。その部品に苅野谷浩一さんの、なめらかで耐久性があり、丈夫な軸受けやビスを使っていた。当然、氷川さんは両者を頻繁に往来して律子さんと結ばれた。
ホテルへは大半がタクシーを使った。当然この辺りに
苅野谷さんたちもそれでタクシーを逃してしまい、歩いて空車を拾う形となった。なんせ岡崎の平安神宮前には日曜の夕方となれば、京都駅へ向かう観光客を狙って空車が直ぐにやって来る。さっそく苅野谷さんたちはその空車に乗った。
都ホテルと聞いて運転手が京都駅前かと喜んだのもつかの間、蹴上の都ホテルと訊いてがっくりと肩を落としたのを見て「済まんなあ」と氷川さんが声を掛けた。何で乗ってあげたのに気を遣うのか、と思ったが、これが都会で稼ぐ人達の思いやりだと知った。この何気ないひと言で氷川さんの人柄も解った。
タクシーは数分で蹴上の都ホテルに着いた。降車した先には婚礼披露宴が終わったのか、引き出物を抱えた客で入り口は溢れていた。ホテルのボーイが降りたタクシーに小走りにやって来て「すまんが大阪まで行ってくれんか」と言われて運転手が了解すると、ボーイが直ぐに手招きしてお客がやって来た。
「あんたラッキーやなあこれで今日の水揚げはクリアーして早う帰れるなあ」
と氷川はタクシーを降りたあと、ボーイと交渉中に開けた、助手席側の窓から運転手に激励の声を掛けていた。
「律子さん、ええ旦那さんをもらったんやね」
と刈谷真一は耳元でそっと囁いた。彼女も満更でもないと頬を緩めた。だが響子は「優しいだけが取り柄の人よ」と向き直った真一に眉を寄せて言った。社長と加納さんと伸也君は先のタクシーで到着していた。
会場は響子さんの謂う、どっかの偉いさんたちの挨拶が続いて、乾杯となり立食パーティが始まった。そこで上の空で聞いていた連中が料理に群がる。
慰労会は陽が落ちて暗くなった頃に始まり、みんなは夕食を兼ねて先ずは、身内同士集まって腹に詰め込み始める。
早速、中央のテーブルに盛り付けられた料理に殺到したのは、空腹を耐えかねていた刈谷真一だ。これを見た響子は伸也に、昼食を一緒だったか問い質し白状させた。いったいお昼休み時間は何をしていたのかと響子は睨んた。
彼曰く、伸るか反るかの大勝負の後に、どうして大勢の前で欠食児童のように齧り付く刈谷に、響子は彼の気の緩み過ぎを看過できない。幸いなのはまだパーティーが始まったばかりで、目に留める者が身内と渚ぐらいだろう。その渚も
パーティーが始まると、まずは商工会議所の会頭が、各社の社長へ個別に挨拶に回っていた。会頭は頭が禿げ上がった七十に手が届く男だが、儲け話には貪欲で性欲も旺盛で脂ぎってた。そんな男が会頭に選ばれたのは
内は五パーセントの利益をコンスタントに出してますから、無理に事業開拓する必要もない。それでも敢えて我が社の製品を多くの企業に知って使って貰いたい一心から、此のイベントに参加した。その説明に会頭は、まずは宣伝を兼ねて参加されたのは賢明でした、と集客力の無さを誤魔化していた。
でもこの惨状は授業料だと思っています。要するに失敗なくして進歩はない。と謂うのが我が社の信念ですから。それを真面に取り合わないのが内の伸也ですよ。会頭は後継者問題は何処の企業でも抱えてますと同情してくれた。
あの子は理屈だけで、今までやって来た。挫折は絶対にあってはならないと思い込んでる。あの子は要するに失敗は嫌なんです、若すぎるんですな、まあ学ぶと知るとは、自分で体験する。これ以上の良策はないですな。
「いやあ、大変いい話を聞かせてもらいました」
と会頭はさっさと切り上げて次の起業家に向かっていく。
「何なんですか、あの禿げおやじは」
と刈谷は苦々しく思って響子に訊ねた。響子は「真面に取り合わないのよ」とアッサリ躱される。それより響子は伸也に「食べてないで今のお父さんの話をちゃんと耳に入れておくのよ」と喚起を促した。加納さんはこれには同調して頷いてる。
空腹が満たされて余裕が出来れば周りに目が向く。衣食満たされて礼節を知るとは良く言ったものだ。ここから新たな情報を求めて、各自活溌に交流を始めた。当然に刈谷は渚の居る真辺の会社へ接近する。
社長の真辺との雑談に応じていた渚は、側に来た真一に向けられた。それに気付いた真辺はムッとする。が渚の手前愛想良く振る舞った。挙げ句は渚がちょっと失礼しますと言えば、真辺は苦笑して見送った。
二人はそこを離れて、目立たない場所を探して、会場周囲に用意された壁際の椅子に座った。
「いつから引っ越すの」
「今日で展示会も終わったから明日にでもと思っている」
「じゃあ明日は休みなんだ」
「いや、まだ言ってないけど」
「手伝おうか」
「ハア?でも仕事でしょう」
「今日は飲み過ぎたって云えば真辺は休ましてくれるわよ、でもまあ荷物ってお布団ぐらいかしら」
「それもそうだ、来るときはほとんど手ぶらで福井から出て来たからなあ」
「ああそうだったわね。あなた鞄一つしかなかったもんね、じゃああたしは手伝わず高見の見物とするか。あなたの所には口うるさいお姉様がいらっしゃるもんね。あの方には今日、見たあの部屋は内緒ですよ。だって二階があたしの部屋ですもの」
とテーブルの向こうの響子を目ざとく見ていた。
その視線がかち合った律子は、真一の話し相手が気になって響子に訊ねた。
「あの二人は何なの、真一さんって、こっちへ来たばかりでしょう。それに知らない相手ね」
「そう、真一さんは三日前だけど、相手は半年前に伸也が実習生として大学から行った会社の事務員」
「事務員! それでも何だか親しいそうに話してるけど、どうなってるの」
響子は、彼がこっちへ出て来る列車に乗り合わせた者だと説明する。
「それだけの縁でもうあうして喋れるの、あの子ってそんな活発な子じゃなかったのにね。どっちか云うと人見知りする方じゃなかった?」
律子姉さんの疑問は響子にも同感だ。二人の話を聞いていた氷川さんが「事務員って云うより社長秘書って感じですね。だってあのタイトスカートのスーツよく似合うなあ。きっと足元はハイヒールなんでしょうね」
と割り込まれて、二人の姉妹は何なのこの人って睨まれた。
「いやあこれは手厳しい眼差しを、お二人から浴びて仕舞いました。でも誤解のないように。此処は仕事の延長と捉えて居ると解釈したまでで、ご容赦頂ければ幸いです」
「まあッ、巧く逃げたわねえ」
そこが憎めない、と律子の氷川批評に、響子はシビアだ。
「響子、完璧な人間は居ないわよ、それどころか、そんな人が居れば気色悪いでしょう」
「どうしてなのッ」
理想を追い求めて何処が悪い、と云わんばかりに姉を見た。
「それは一緒に暮らしてみて解ったの。同じ屋根の下で生計を立てて初めて知るものなのよ」
自分を殺して相手に溶け込める人は稀れにしか居ない。持ちつ持たれつ、それで人と云う字がなっていると。
「誰もが聞かされた標語だけど、実感が湧いてこなければ絵に描いた餅でしょう、一緒に暮らしてみて苦楽と生計を共にして解ったのよ」
「どうしたらそんな聖人になれるの」
あたしには無理だけど、と訊ねた。
「簡単よ、たったひと言、自分の為と思わないで、人の為と思えば出来るわよ」
まさに言うは易し行うは難しだ。
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