No.2 夜に咲く夢 作者:しゅん さん
眠らぬ街の中央にある天守。その最上階の一室は甘い香に満ちていた。城の主はたっぷりとした紅色の着物を畳に泳がせながら優雅に座し、豪奢な肘掛けに体を預けている。銀色の長髪は流れる星々の如く。そしてその瞳、妖艶という言葉がこれほど似合うものは他にない。血が滴るような唇は謎めいた笑みの形を崩さず、着物からちらと覗く胸元は雄の
「許す。面を上げよ」
澄んだ鈴の音のような声である。恐ろしくもあり、どこか幼くもある。
「は」
城主から離れること畳六つ。頭を垂れ短く答えるは豊かな黒髪を結わえた男であった。ゆるりと顔を上げれば、端整な顔立ちが蝋燭の火に浮かび上がる。年若いが落ち着き払い、目の前に座す絶世の美女を直視してなお微塵の動揺も見せぬ。灰色の
「そちを呼んだのは他でもない」
「……は」
男は居住まいを正し、ふと気配を感じて城主の背後に目を凝らした。のっぺりとした陰から音もなく二人の女がにじみ出てきたのだ。女の顔と姿は鏡に写したかのようで、それぞれ揃いの装束を身に着けていた。闇より濃い黒の布。全身を包むそれは口と鼻、そして片目までもを覆っており、肌が見えるのは指先と顔の半分のみ。男から向かって右側の女は城主と男のちょうど真中の辺りまで歩み出ると、手に携えていた紫色の長袋をそっと置き、再び城主の隣へと音もなく戻った。
「ひとつ謎掛けをしようかの」
「謎掛け、でございますか」
男は長袋と城主を交互に見つつ応じた。
「影を奪うまじないを知っておるな」
「は」
「それと対になる、影を与えるまじないも当然知っておろうな」
「存じております」
「では、影を奪うまじないと影を与えるまじない、この二つを一人の相手に同時に試せばどうなる?」
男はわずかに思案した。現実的に考えれば、全くの同時に別々のまじないを使うことはできぬ。術者が二人必要である。そして二人の術者がどれほど息を合わせようとも、必ずほんの少しの
「何も起こらないかと」
男の答えを聞いた城主は、にんまりと唇を三日月の形にした。まるで悪戯が成功した童のような可愛らしい笑顔である。
「その長物を取ってみよ」
城主の言葉には脈絡がなかった。男は一瞬戸惑いながらも、膝を進めて長物を手に取った。紫の袋から取り出したそれは闇のように黒く、黒く、いくら目を凝らしても闇にしか見えぬほど黒い薙刀であった。まるで薙刀の形をした黒い紙であるかのように見えるが、しかし触れればそれがしっかりと厚みを持っていることが分かる。
「これは……」
「謎掛けの答え合わせじゃ」
「これが?」
「この左右は」
そう言って城主は両手を交差させ、白魚のような指先でそれぞれ己の左右に佇む女を指差す。
「一つの魂を二つに裂き作られたものじゃ。瓜二つであろう? 元が同じ人間なのだから当然じゃな」
左右の女はぴくりとも動かず、一切の隙を見せない。城主に触れようとするものを
「これらに先の謎掛けを試させた。すると、それが出来上がったのじゃ」
感情を見せぬよう努めていた男も、これには驚愕の表情を隠せなかった。
影を奪うまじないと影を与えるまじないを、寸分の狂いなく同じ瞬間、同じ相手の同じ場所にかけたということか。元が同じ人間を二つに裂いてつくられた者ならば、それも可能かも知れぬ。しかしその結果がこの薙刀とは……。
「そのような方法で剣打ちが成るとは、寡聞にして存じませんでした」
男がかろうじて言葉を口にすると、城主はころころと生娘のように笑った。
「わらわも驚いたよ。これだから戯れはやめられぬというもの。とはいえ、できたものは収めるべき場所に収めねばならぬ。そこでそちの力を借りたいというわけじゃ」
男はそこでようやく己が呼びつけられた理由を悟った。この薙刀を解析せよと城主は言っているのだ。
男の職業は
剣問師の寿命は短い。職業としての寿命という意味ではなく、文字通り長く生きることができぬという意味である。普通、剣打ちを行った術者自らが己の剣の解析を行うことは
「
男は闇の薙刀を両手に掲げ、頭を下げた。薙刀は重さを何処かへ置き忘れているかのように軽かった。
「期待しておるぞ、
「は。しかしこの剣、少々特殊な生まれゆえ我が工房では手に余る恐れがありますれば、万全を期すためにも……」
「よい、外での解析を許す。そうじゃの、紫金の国へ渡り仕事を全うするがよい」
「……仰せのままに」
天守を出た男……カイは、明けぬ夜の闇の空に、ふうっと息を吐き出した。先ほどまでたっぷりと吸い込んでいた甘い香が未だ肺腑に残っているかのようだ。
(紫金の国か)
小さな星々を見上げながらカイは独りごちる。
(あの女狐め、突然何を言い出すかと思えば……戯れのついでにあわよくば、国を一つ盗ろうとでもいうのか)
剣の解析は様々な厄災を呼び寄せる可能性がある。建物が吹き飛ぶくらいならまだましで、歴史を紐解けば一夜にして国が滅んだという例もある。そのため剣問師は地下深くに専用の工房を構え、多重の結界を敷き、呪が外に溢れ出ぬよう注意を払って解析を行うのだ。カイは紅に、より強固な結界の援助を求めるつもりだったのだが、紅はそれを理解していながらあえて誤解したような指示を出した。結界も何も用意のない外国で剣の解析など行えば、何が起こるか分からない。それともこの黒い薙刀であれば大したことにはならぬと踏んでいるのだろうか? 確かにそれは剣問師の目から見ても十分考えられることではあるが、あの計算高い城主のことだ、他に何か企んでいるに違いない。
(いや、いや、これは仕事だ。あの女には世話になっているのも確かだしな。報酬も前払いの分だけで数年暮らせるほどの大盤振る舞いだった。これで逃げ出したりすれば間違いなく命はないだろう)
カイは頭を振りつつ、歩き出した。こうしてあれこれ考えるのは剣問師の仕事ではない。国が一つ二つ滅ぼうとも、残りの報酬を貰えれば文句はないのだ。仮にこれが切っ掛けで夜の国と紫金の国の間に戦争が始まろうとも、
(とはいえ、この仕事の後にまだ命が残っているという保証もないがな。まあそれはいつものことか)
夜の国に陽は昇らない。橙と紫の提灯が通りを照らし、影をつくり、陰に隠す。みにくいものは見えぬ場所へ。
夜桜がざあっと花びらを吹き散らし、雪のように舞っていった。
―●○●―
紫金の国。それはどこか夜の国と似ていながら、決定的に異なる国であった。建物はもちろん、街路、街灯、植えられた木々に至るまで、全てが黄金色に輝いている。しかし当然ながら、この国の石ころ一つに至るまでが黄金でできているという訳ではない。この過度に華美な街並みは言わば観光客への
「ねえ旦那、仕事の後は観光もなさるんですかい」
「ああ、うむ」
「それならいい時期に来なすった。今は朱金祭の準備中でね、方々から人が集まってきてるんでさ。屋台が立ち夜市が立ち、餅が撒かれておっきな花火まで上がるって話でねえ。アタシも仕事がなけりゃ、遊びに行きたいくらいでさぁ」
「そうかね」
やたらと陽気な大海の渡し守を相手に適当な相槌を打ちつつ、カイは眼前に迫る紫金の国を見上げた。きらきらと輝く建物はただ豪奢なだけでなく、そこに施されている細やかな装飾には確かな職人の技と歴史が刻み込まれている。
「さあ着いた。旦那、お戻りはいつ頃になりそうで? 帰りもアタシがお送りすることになってやすんでね」
陽気でお喋り、ともすれば軽薄な人物に見えかねないこの渡し守であるが、こと仕事に関しては抜かりなくこなす
「帰りが明日になるか十日後になるか
しかしカイは素っ気ない返事だけを返すと、そちらに見向きもせず歩き出した。このような場所で長々とお喋りをしている訳にもいかぬ。それは渡し守も重々承知しているようで、
「まいど、お気をつけて!」
商売人の決り文句を言うや否や、さっさと海の彼方へと消えてしまった。
船が遠のいていく音を背で聞きながら、カイは凝り固まった肩を回してこきりと鳴らした。普段と変わらぬ灰色ずくめの
遺書をしたため準備を万全にしていざ解析をしてみれば、剣がその場で
益体もないことを悶々と考えていてもカイの足は自動的に歩き続け、いつの間にか今日の宿へと到着していた。
船旅に時間がかかったせいか、空の色は既に夕刻に近付いているようだった。
「予約していた者だが」
「お待ちしておりました」
カイが名乗るまでもなく、
(まさかこれほどとは。夜の国に慣れたこの目にはちと刺激が強いが、しかし驚くほどに嫌味がない。洗練されている)
カイはもう一切れ、別の
(万が一今回の仕事がこの街の景観を台無しにするようなことになれば、己は美を愛する多くの者たちから恨まれるのであろうな)
(さて、さっさと仕事を終わらせてしまおう。明日はゆっくりと街を巡って日頃の疲れを癒やすのもいいな。そういえばあの渡し守、花火があるとか言っていたか……夜の国ではまずお目にかかれないものだ。見逃す手はないだろう)
無意識のうちに次々と溢れ出す
「
漆黒の薙刀の表面に、葉脈のような光が流れる。走査の
(――驚いた。てっきり底なしの闇かと思えば中には光もある。このとりとめのない色、未だに形を持たぬか。思っていたよりも深いな。いったん待機させるべきか)
カイは脳内に流れ込む情報を取捨選択し、細やかな操作を繰り返す。繊細な技術が必要とされる剣問師の中でも、カイの腕前は他の同業者と比べて頭一つ二つ抜きん出ている。
が、しかし。そんなカイの熟練の技を持ってしても、この剣の情報量は捌き切れる限界を超えつつあった。これはまずい。一旦作業を中断して……と、思ったその瞬間、カイの脳内に
『
「待て待て待てッ!」
思わず、といった声がカイの口から飛び出した。
一度実行処理が開始されてしまえば、人の言語で待てと言われて待つ剣はいない。漆黒の薙刀はぎゅるりとその姿を丸めて円となり、円は歪んで六つに割れ、それぞれが更に六つに割れ……と、それを繰り返して無数の
(まずいぞ……まさか最初から
カイは急いで部屋を出てから二歩走ったところで何かを思い出したかのように
酸味が強い。しかしそれでいて不思議と尖ったところのない優しい味だった。
―●○●―
「まいったな」
宿の外へと飛び出したカイは足を止め、思わずそう独りごちた。ちょうど陽が落ち、慣れ親しんだ夜がやって来るはずであった紫金の街並みは、今や別世界のように変貌してしまっていた。きらびやかな黄金通りは場違いな群青や緑色に侵食され、所々虫食いのように
(ともかく、剣を追わねばなるまい。この
根拠はなかった。実際ここまで侵食が進んでしまっている現状を鑑みれば、今更
(剣の居場所は――よし、分かるぞ。幸い
剣の現在位置が国の中心方向にあることに若干の
と、その時。建物の角を曲がった所で、カイの目の前に突如として大勢の人間が現れた。直前まで音も気配もなかった。ぽんと
(剣の異能によって影を奪われ、廃人と化した人間か。いや、それだけではあるまい。あの剣の出自を考えれば、恐らくもう一つの効果が……)
カイの思考を遮るかのように、その変化はまたもや
それは――鳥、だった。
いやしかし、果たしてこれを鳥と呼んでいいものか。だがその見た目は他に適当な呼び名を受け付けるとは到底思えぬものだった。
「「「「Kohoooo.....」」」」
カイを取り囲む鳥の群れから、一斉に呼吸音のようなものが発せられた。ぽっかりと開いた嘴から空気を吐き出しているのか。何かが来る。そして恐らくそれは攻撃だろう。カイはそのように判断し、全神経を張り詰めさせて攻撃に備えた。次の挙動の一つも見逃すまい。
「「「「OAaOOOOOOooo!!!!」」」」
鳴いた。鳥の声とは到底思えぬ滑稽な鳴き声が、しかし恐ろしいまでの音圧を伴って一斉にカイを襲った。視界が揺れる。眼鏡に一本の
「浄化剣
短縮された
【浄化剣・
この剣が地面と認識したものの性質を水面のそれへと変化させる。しかし実際に地面が液体に変化するのではなく、あくまで固体は固体でありながら水のような振る舞いをするだけであるため、その上に乗っていたものは泳ぐことも飛び跳ねることもできずにただ沈んでいく。効果範囲は約十
カイは沈んでいく黄色い鳥たちを見下ろしながら、ぺっと血を吐き出した。鳥たちは地面に挟まれているせいか呼吸音と叫び声を断続的に発するのみで、それは出来損ないの合唱のように「オッオッ」と響いていた。さながらカイはこの壊れた
【
この剣を持つ者を、あらゆる接地面から三
持ち主ごと地面の下に沈んでしまうという致命的な欠陥を抱える
剣問師はその職業柄、常に危険に備えねばならぬ。剣とはこの世ならざる異界の力を形にしたものであるが故に、物によっては剣自体が異界の
(目に映る限りでは紫金の国は壊滅状態だ。今更、己が少しくらい地
もはやそのように開き直らねばやっていられないほどに、彼方に飛び去った漆黒の薙刀による被害は甚大であった。看板の文字は異界語と思しき形に歪み、信号は何かを訴えるかの如く七色の明滅を繰り返す。飼い主を見失いトボトボと歩く犬の尻から黄色い鳥が生え、力なく一声鳴くとそのまま地面に沈んでいった。
こうして見ると剣が勝手に
【
どう見ても
余談であるが、この剣には類似した形状の他の剣が数多く存在し、その中には碌に効果のないものや、逆に呪を呼び寄せてしまうような剣まであるため、
(今もこの剣がなければ、あるいは真っ先に己が黄色い鳥になって無様な鳴き声を上げていたかも知れぬ。いや、それとも一応はあの漆黒の薙刀と
その推測ではカイがいた部屋や建物が異界化していなかったことの説明がつかないが、そもそも異界の力は道理の分からぬものである。この世の人間がうだうだと考えても仕方のないことなのかも知れぬ。
遠目に触手のようなものが生えつつあるらしい高層建築などを見ると、異界の瘴気がこの国に充満していると考えてもおかしくはなかった。予め
(なんということだ。この先にあるのは……あの漆黒の薙刀が停止した位置は、どうやらこの紫金の国の国守館ではないか。国主の周囲は強力な剣を持つ守り人が固めているはずだが、さて。彼らが無事だったとしても鳥になっていたとしても、どちらに転んでも最悪であることには違いないぞ)
しばらく走り続け、ようやく目的地を明確に絞り込める段になって、今更そんな事実が判明する。カイは思わず頭を抱えた。
仮に守り人が漆黒の薙刀を叩き落としていれば、カイはその薙刀を取り戻すために守り人と戦わねばならぬ。話し合いなぞ無駄だろう。というか、その剣を返してくれと言った時点で、こいつがこの国を壊滅状態にした張本人かと悟られる。一度の死罪程度では到底
では守り人が
そこまで考えてカイはぶるりと身震いした。紅を敵に回すのは不味い。アレは表向きは遊女上がりの細腕といった顔をしているが、その本質は
つまりそれほどまでに紅は危険なのである。漆黒の薙刀のことなぞ放り出して、何もかも知らぬ顔で逃げ出すという選択肢はそもそも最初からなかったのだ。彼女との契約を破ることだけは絶対にあってはならぬ。常日頃から死を意識して生きているカイをして、紅を敵に回す可能性というものは決死の覚悟を抱かせるに足るのだった。
国守館に踏み入る直前、カイは
案の定と言うべきか、予想外と言うべきか。国守館の中には人の気配が一切なかった。そして見るからに建物の異界化が酷い。赤黒い肉と白黒緑の機械が融合したような壁、肉の芽が咲いているかのような照明器具、ひたすら異界語の放送を繰り返す
守り人の姿はなかった。そこにはただ四体の鳥がいた。ただしその色はどす黒く、こころなしか筋肉質のように見える。四体のうち一体は小刻みに鳴き続けており、二体は泰然自若としている。残りの一体は何故か口から水を吐き出し続けている。「Oa... Oo...」「Orororoororo...」という鳴き声の二重奏が、嘴を大きく開けたまま無表情に立ち尽くす二体の鳥をより一層不気味なものに見せている。
カイは金と黒で装飾された鞘入りの刀を
「よおよよヨうKoooようKoそおおおおAAAAA紫金NOOOOくニえ!!!!」
温厚そうな中年男性の形になったそれは目をちぐはぐな方向に動かしながら止めどなく涎を垂れ流し、両手を刀に変形させつつ歓迎の
「
カイは躊躇いなく金と黒で装飾された剣の異能を解放した。と同時に、
【
持ち主の可愛さに応じて
右腕の痛みを紛らわすために下らぬ妄想を挟み込んだカイの思考を遮るように、目の前を飛ぶ国主の体が急激に変化していった。四分割された肉体はそれぞれが黒い球体となり、宙に浮かんだまま凄まじい熱量を発し始める。これは恐らく、爆発する。カイの脳裏に即座に未来が映し出される。これも
ドン、と臓腑を押さえつけるような振動がカイの体を襲った。振り向けば、四つの光の筋が夜空へと昇っていく。もうすっかり夜が更けていたのか。そんな場違いな思考は次の瞬間、色とりどりの光に塗りつぶされた。
花、であった。
夜空に開く大輪の花。
打ち上がったものは四つだけであったはずなのに、その花は開いては消えて、を幾度となく繰り返す。様々な色を湛えた光の粒が夜空狭しと咲き乱れ、尾を引いて流れ落ちては消えていく。
「美しい……」
思わずカイの口から溜息と共に賛美の言葉がこぼれた。
花火。それは夜の国では決して上がらぬものである。理由は明かされていないが、夜の国の城主がこれを厳しく禁止しているのだ。しかし他の国で、例えばこの紫金の国などで花火を見た者は、これは夜の国にこそ相応しいものだと思わずにはいられないだろう。夜空を
―●○●―
「なるほどのう。思いがけず楽しい土産話じゃった」
夜の国、天守の一室にて。カイは依頼を受けた日と違わぬ姿勢で城主の紅と対面していた。相変わらず甘い香に満ちた空間である。しかしこの香りは不思議と心を落ち着かせ、未だ完治には至らず痛みと熱を持つ右腕の疼きまで紛らわせてくれるらしい。カイは震える心の内をおくびにも出すことなく、紫金の国における漆黒の薙刀の解析について淡々と報告を済ませることができたのだった。
「それで、剣は回収できたのかえ?」
「は。こちらに」
カイが差し出したのは、手のひらに収まるほどの大きさの黒くて丸い玉であった。あの花火が上がって暫く経った後、スウと前触れもなくカイの目の前に降りてきたものである。それが姿を変えた漆黒の薙刀であることは、
紅の左右に控えていた向かって左側の女がその玉を回収し、紅に渡すと、彼女は面白そうにそれを指でつまんで弄ぶ。
「なかなか愉快なことになったようじゃな。わらわも見てみたかった」
「紅様、紫金の国はもはや……」
あの後。花火が終わり、剣が停止した後も、紫金の国が元の状態に戻るようなことはなかった。異界化した街並みは見るに堪えない姿のまま、人間もほとんど生き残ってはいなかった。巨大な財と武力を持ち合わせていた紫金の国は、たった一本の剣によって滅んだのである。
「国の体裁を保つどころではなかろうな。まこと不幸な事故であったなあ」
妖艶な笑みを浮かべる紅の顔は、とても一国を滅ぼす原因を作った者とは思えぬ。しかし、とカイは考える。恐らく紅は最初からこうなることを織り込んでいたのだ。その上で、紫金の国を乗っ取る算段までつけていたのであろう。空恐ろしいものである。不幸な事故によって一夜にして滅んだ国、その原因の全てを引っ被せられ、口を封じられるのではないか、という点だけがカイにとっては不安であったが、しかし紅の悠然たる態度を見ていると、どうも杞憂であるらしいと思えてくる。全く味方にすればこれほど心強いものもない。……まあ、そもそもカイが紫金の国を滅ぼすことになったのは、紅の依頼が原因であるのだが。その辺りは考えないようにするのがこの国で上手くやっていく
しかし一つだけ。あの紫金の国の騒動の中でたった一つだけカイの心の中に生じた疑問が、今も
「ひとつ、伺いたいことがございます。個人的な疑問なのですが……」
「仕事以外の話かえ? そちにしては珍しいことよ。よい、此度の褒美じゃ。申せ」
普通であれば、紅に謁見するというだけで大事である。その上で、許可されていない発言や質問をすることなど、とてもではないが考えられぬこと。しかしカイはどうしても確認しておきたかった。己にあれだけの仕事をさせたのだから、これくらいの無礼は良いだろうという計算もなかったと言えば嘘になる。
「その黒い剣が生まれる切っ掛けとなったのは、影を与えるまじないと奪うまじない、それを同時にかけたことによるものと記憶しておりますが……」
「そうじゃな」
「そのまじないを、一体誰にかけたのでございますか?」
「ふむ」
紅は記憶を探るように天井を見た。
そう、あの漆黒の薙刀が生まれる原因となったのは彼女の戯れであり、それは相反するまじないを同時に行使するというものであった。であれば、そのまじないを一身に受けた人物が存在していたはずである。恐らくは咎人、それも特大の罪を犯した者であろうという所までは想像できる。だがカイはそこに引っかかりを覚えた。それは紫金の国で最後に見た美しい光景が導き出した予想であった。
「ああ思い出した。あの男はそう、確か花火師じゃったな。この夜の国でこっそりと花火を打ち上げる計画を練っておった不届き者じゃ」
「左様で、ございますか」
「それがどうかしたかの?」
「いえ、ふと気になったものでして」
「相変わらずそちは面白い男じゃの。まあ良い、此度はご苦労であった。十分に体を休め傷を癒やすが良い。残りの報酬はいつものように振り込んでおこうぞ」
「は。有り難く……」
天守を辞したカイは数日前と同じように夜空を見上げながら息を吐いた。腕の痛みが思考を冴え渡らせる。なるほどやはりあの剣は、元となった男の念が宿っていたらしい。この国で花火を打ち上げること。それが男の願いであったのだろう。
(まあ場所は違ってしまったが、願いの半分くらいは叶えてやれたと思ってもいいのではないだろうか。これで満足してくれれば良いのだが)
人間として死ぬことも許されず、異界の剣と成り果てて――表現する術を持たぬ身となって尚、己の願いを見事夜空に表現してみせた名も知らぬ花火師に、カイは畏敬の念を抱きながら帰途につくのだった。
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