光の中に消えた~Left into lights~⑰

愛、それは不思議なものだ。それは理性を騙る人間にあって、およそ合理的でないからだろう。

人は危害を加えられれば怒り、大切な何かを失えば悲しむ、それらは道理に従った感情の動きだ。だが、愛はどうだろうか。益を齎されれば必ず愛するのか、突き放されれば直ぐ様愛も冷めるのか、それは否である。

また、人一人が合理的である場合、当人にとって最も利益のある選択をし続けることが正となるが、愛はそれを超越する感情でもある。すなわち、心に愛が芽生えた時、理性はたちまち崩壊すると言えるのだ。自分よりも誰かに生きていて欲しいと、笑顔でいて欲しいと願う事は、極めて不合理な話なのである。

それ程の感情を受け取るのに、もし格差を生む概念があるのだとしたら、それは残酷なものだろう。だが、残念な事にそれはある。

それこそが、美醜だ。

美しく生まれた者は愛を受けやすいものだ。すなわち、生を肯定され易いといえよう。そして、その恵みを自覚した時、彼らは神に感謝する。人によっては選ばれた自覚と責任を感じ、魂の研鑽に一層励むかもしれない。すると神様も彼らを見て、また恵みを与えようとすることだろう。それは素晴らしい、正のサイクルである。

一方、醜く生まれればどうだろうか、親以外の者からは愛を受け難く、理不尽に貶されることも、嗤われる事もあり、この世は修羅。時に神をも憎む事もあるといえる。或いは自らの不遇を神の責任とし、魂の研鑽を止め怠惰に堕ちることもあるだろう。さすれば神もまた怒るか、呆れるかだけだ。それは悲しき、負のサイクルである。

無論、これらはあくまで傾向の話だ。研鑽に目覚めるのは愛に恵まれてもなお困難で、怠惰に堕ちる事が楽なのは世の常。またスポーツ等を極める場合は、美醜などを無視して研鑽に目覚めることもある。いずれにせよ重要な事は、研鑽に目覚められる人間は一握りだけである事、何より、愛を受け難い者にとって、それはより困難になってしまうという事である。


もし、幼くして栄光を手にできる程の才に恵まれた人が、醜いことにより虐めを受け、同時にやりがいを感じていた仕事でも、努力が成果に繋がらなくなったら、当然、不貞腐れてしまうだろう。そして、自分の見た目を決めた神を恨み、無駄な努力を止めることは、最早正常な判断とさえ言えよう。しかし、そんな不遇に遭っても研鑽を怠らず、自らの道を自ら決めて進む事の出来る、超人的な精神力を持った人が居たならば、その人が不幸なままで居続ける道理があるだろうか、いや、決してない。だから―――。


けたたましい金属音の連鎖と一陣の風を携えてきた電車が停車した。静けさを取り戻したホームには、何を伝えるためかわからない時報のような音と、蝉の声。行く先と発着時間を示す電光表示の上には、先程まで一匹だった鳩が、つがいを作って睦まじくしていた。

まだ日の昇る少し前、蒼野春斗はホームのベンチから立ち上がって、電車へと歩み出す。それは自分に関連したあらゆる問い掛けに、区切りをつけるため、そして単純に、愛すべき人に会いに行くためだ。

電車に乗り込むと冷房が心地よく、がらんどうの車内を少し歩いて、窓際の席に腰掛けた。動き出した電車、朝靄がかかる町を見つめながら、春斗は物思いにふけていた。今この視線の先、朝を迎える人達はどんな気持ちで居るのだろう。ぼんやりと、そんなことを考えていた。きっと、楽しみで仕方がない人も居れば、できるならば起きたくない人も居て、特別楽しい日、特別緊張する日、いつもと変わらない日がそれぞれに流れることだろう。そして、誰かが舞台の真ん中で脚光を浴び、一方で誰かは誰も見ないような所で叱責を受ける。他にも、人に感謝したり、恨んだりがあって、それはそれは不平等に過ぎていくのだ。不思議なことだ。人は皆、幸せを求めているはずなのに、莫大な幸せを得る者と、そうでないものを分ける社会を今日も繰り返している。いつの間にやら、彼は物語を書く者として、そんな取り留めのない、或いは一文の得にもならない問答に、一層深い思考をかけて踏み入れていた。

思考が一巡すると、電車も目的の駅に着いた。春斗は新幹線に乗換えるため迷路の様な駅構内で沢山の人とすれ違いながら、自分が迎えている人生の佳境を思った。そして、他人とはかくも距離のあるものなのかと痛感していた。沢山の日常が、彼の周りを通り過ぎて行った。

また一歩、思考が進んだ。沢山の人の中に健吾と莉奈を思ったのだ。彼は二人にどれ程感謝するべきだろうかと考えていた。今日だって二人は、特に莉奈は、自分と同じくらい光子に会いたい筈なのに、一人で迎えに行くことを許してくれた。加えて、結局自分が居場所を突き止めた時も、無駄になってしまったそれ迄の捜索時間について何も言わないでくれた。その凄まじいほどの愛と優しさに満ちた行為に、彼は確りと気づいていた。そして、その恩に生涯をかけて応えなければと感じていた。

新幹線の中でも、彼は様々なことを思考し、まとめていた。主に人間の今後にとってとても重要な、本質的な事柄に対する答えについてだ。

そこで彼は自分がとても幸せな部類の人間だと自覚し、過剰なまでの自信を携えていたことにも気づかされていた。光子にとって、それが気に障るところもあったろうと彼は反省する。これは思考を整理することの、第一に重要な成果といえた。

その他にも、彼は何故、自分が幸せなのか考える必要があった。村中に教えられた通り、そういったことに目を向けるには忙しくない事が重要で、今彼が忙しくないことは奇跡だからだ。何より、彼は与えられた幸福に応える事が、幸福であり続けるために必要だと結論づけていた。幸福をただ受け取るのではなく、それに応えることが重要だという考えに至っていた。そして、更に思考を練り上げて行くと、彼は自身の人生が、ある一つの行動によって大きく変化していた事に気づく。そう、それは組体操に手を挙げたことだった。

あの日まで春斗がしていた事、それは正に与えられていた幸福をただ受け取って過ごすということに他ならなった。あの時何もしなくても、否、寧ろ何もしなかった方が、彼はおよそ幸せな青春を謳歌出来たことだろう。そしておそらく周りの人と一緒に進学、就職、結婚をこなし、忙しなく働いて生涯を閉じる平凡で幸せな人生を過ごせたはずだった。

だがあの時、春斗は手を挙げた。単純に見れば、欲深い行為だった。その事が失明し、絶望の中で生きる道を彼に強いたが、一方でそれは実の所空っぽだった春斗の日々を激変させることになったのだ。そして、健吾という友人に恵まれたことにより、今日この日、彼は若くして哲学的な思索にふける贅沢な機会に恵まれることとなる。こうして彼はまた一つ、答えを出した。

それは人間として深い領域で生きる事は、「幸せな人生」の一言で片づけられる程度の幸せな人生を過ごすよりも、ずっと充実しているというものだ。

結論を出した春斗は深く溜息をついて車窓を見る。そこには少しの間、自分の顔が映って、一気に風景が開けた。新幹線が長いトンネルを抜けたようだ。そこに広がる田畑と、どこまでも高い入道雲は、暑い日差しを感じさせるものだった。


その後、電車を幾つか乗り継ぎ春斗は漸く光子の暮らす町に辿り着いた。朝早くに出てはいたが、乗り換え時間の兼ね合いもあり、昼下がりの最も暑い時間になっていた。無論、こうなることは分かっていたため、春斗は車中で昼食をとっており、この時間も散策をする予定にしていた。確かに、光子に会いたい気持ちは強かったが、平日だ。自由業の春斗と言えど、日中に人家を訪ねようとは思えなかった。何より、興味があった。彼女が自分から離れて過ごす場所として選んだ町がどのような場所なのかについて。呑気、そう言えばそうなるが、ことの決着をつけるにしては軽い足取りで、暫く彼は散歩を楽しむことにした。


物語というのは、特別に派手な起伏を持っていると思われており、日常は物語と違うものだと考えられがちだ。具体的には大規模なスポーツ大会、逼迫した医療現場、世紀の大事件に立ち向かう警察の様にダイナミックな場面が、その派手な起伏にあたる。だが、本質的に見ればそういう場面も日常の一部に過ぎない。裏を返せば、人の日常は全て、物語といえた。

夕暮れ時、春斗はぼんやりとそんなことを考えながら、手にした光子の住所へと向かっていた。茜色の視界にひぐらしの声、春斗はそういう育ちでは無いが、不思議とノスタルジーを感じる。ここまで来ると、光子との再会に向き合う自信のなさを春斗も自覚していたが、それでも逃避としての思考を止められなかった。

春斗はもう少しだけ心の準備がしたかった。だから勇気が出ないのを夏の暑さのせいにして、近くにあるスーパーに足取りを変えた。少し、涼みたかった。

しかし、彼の思惑からすれば、これは不運だった。否、確かに思惑とすれば不運ではあるが、何よりの幸福に向かう一歩でもあった。彼が選んだ道の先には、一人の女性が歩いていたのだ。

光子だった。

彼女は俯き加減で此方には気づいてないようだった。春斗の中に様々な感情が込み上げた。何から話そう。分からなかった。ただ、光子が気づいたらまた逃げるかもしれない。

そして、言葉が見つかった。少し悔しかった。本当は格好つけたかったが春斗には、言わざるを得ない言葉があった。田舎道だからもう時間はない。恥ずかしさだってもう無いから、彼は少し遠くから彼女に声をかけた。

光子ももう春斗を見つけて、立ちすくんでいた。

「すみません、下柳光子さんですか?」

凄まじい緊張だった。言ってから後悔もあった。あれだけ深い交際関係にあったはずなのに、それでも、春斗には確認が必要だったのだ。複数の感情が爆発して、彼は今にも泣き出しそうだった。

「はい。そうです。」

歩み寄る春斗に、光子は応えた。

「良かった。僕にはどうしても確信が持てなかったから…。」

春斗は心底安心した。春斗が深く吐息をつくと、刹那、気まずい静寂となった。それは、どうしようもないことだったが、幸運にも夏の暑さが次の言葉を運んでくれた。

「あの、立ち話もなんですから、歩きませんか。」

「ええ、そうですね。そうしましょう。」

お互いぎこちない雰囲気だったが、久しぶりに彼らは並んで歩くことにした。

「最近はいかがお過ごしですか?」

春斗は光子に訊ねた。

「そうですね。普通です。」

「普通ですか…。お仕事は?」

春斗は立て続けに訊ねた。会話を途切れさたくなかったからだ。

「特養で働いてます。」

「特養?」

「あ、えっと特別養護老人ホームのことですね。」

「ああ、そうでしたか。」

「はい。」

光子が繰り出す答えは淡白だった。

沈黙の気まずさはお互い様の筈だったが、彼女はこれを貫き通すように思えた。

春斗はその態度に少なからずやきもきした。そこまでされる様な事をしたつもりは無いと感じていた。実際、客観的に見ればそうだ。何よりこのままアパートに着いて、それとなく別れられては溜まったものでは無い。

だから、彼は素早く意を決した。

「僕は、ずっと君を探してました。だって、君の事が好きだから。」

二人の足が止まった。

ロマンとか、シチュエーションだとか欠片も無い程、唐突で呆気ない告白だった。それでも春斗は言葉を続けた。

もう二度と、離れたくないから。

「貴方を探す日々の中で、気づかないうちにミサンガが切れてました。それで思い出したんです。あの時、初めてデートに行った日。ミサンガにかけた願い…。あの時僕は、二人でずっと一緒にいられますようにって。僕は願ってました。」

そう言いながら、春斗は立ち止まった光子の前に回り込んだ。

「でもよく考えると、ミサンガにかけるには相応しくない願いですよね。だってこれ、どれだけ僕が頑張っても応えるのは光子さんなんだもの。だから…。」

春斗は深呼吸した。光子は何か言いたかったが、ただ俯いていた。夏の夕暮れ時、頬を伝う何かがあった。

「これからずっと、一緒に居てくれませんか?」

春斗は言った。単純明快な願いだった。叶えられるのは唯一人、光子だけだ。光子は頬を手で拭い、暫く何も答えなかった。


男は選択をした。

自身の考える幸せをその手に掴もうとして、彼はそれが金銭的豊かさでも、物質的な豊かさでもないことに気づいていた。

自由自在。

彼は自分の選ぶ一歩が、自分の進む明日が、たとえ誰かの眼に正解と映らなくとも、自分の決めた道であり続けること、それこそが幸せだと結論付けたのだ。


彼女はどういう選択をするだろう。

圧倒的な才能を持ちながらも、外見というたった一つの要素で困難な人生を歩まされ、苛烈な運命の中、卑屈な幸福観を育んだ彼女は。

難しく考えていた。正解は単純にもかかわらず。思い出が、歴史が、幸せになる未来図をぼかしていたのだ。彼女は他人という不確定要素と共同生活をして幸せになるのか、それならば孤独を選んででも、闇の中に幸せを見出す方が楽ではないだろうかと考えてしまう。

それでも今、選択しなければならなかった。問は幸せを受け取るかどうか。

もう一度、その濡れた頬を拭って、顔を上げる時が来たのだ。


翌朝、春斗は電車に揺られていた。隣には誰も居ない、一人だ。だが寂しくは無かった。寧ろ清々しいまで快晴の青空に高揚感すら覚えていた。

昨日、夕焼け空の下、光子はもう少し時間が欲しいと答えた。春斗はそう言った光子の表情を見て微笑みながら首肯した。その後、光子の提案で彼女のアパートへと招かれ、そこで色んな話をした。当たり障りのない、できるだけ明るい話をしたのだ。

やはり、互いに気の回る人なだけあって、話は弾んだ。時折、目線を合わせたり、外したり、何かを確認し合うかのようでもあった。その中で少なくとも春斗は確信していた。人生の伴侶はこの人しかいないと。そして、二人は別々に寝支度を整え別々に眠った。

電車に揺られながら、春斗はその余韻に浸っていた。それは久々に想い人と話せた喜びだ。何より彼を安心させたのは、新しい連絡先を得られた事だろう。二度と会えなくなる不安から、彼は解き放たれたのだ。

今はそれで、充分だった。

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