光の中に消えた~Left into lights~⑯

春斗が莉奈と共に光子の実家を訪れてから数週間と経ったある日、春斗は自室にて小説を書いていた。彼自身、光子の捜索に尽力したい意思はあったが、約束もまたあったからだ。約束の主は健吾。今まさに春斗がヘッドセットを付けて通話をしている相手だ。

「そっかあ。ダメだったか。」

「うん。」

「まあ仕方ないよな。嘘つかせる訳にもいかないし。」

健吾はあっけらかんとした声で言った。

「いや、悪いな。今かなり忙しいって聞いてるのに、莉奈さんが言ってたよ。結構なペースで色んな介護系の施設に電話かけてくれてるって。」

「気にしなくていいさ。敢えて悪く言うなら僕は趣味でやってる様なもんだしな。面白がっているのさ。お前と光子さんのこと。」

「はは、ありがとな。」

春斗は健吾の気を遣わせまいという意図まで汲んで、改めて感謝を口にした。

実際に、この頃健吾を取り巻く状況は忙しないものだった。新人賞の審査員、文芸誌の編集業務、何人かの作家担当も兼務しており、彼の慧眼はその全てで遺憾無く発揮されていた。いつ寝ているのか、という問いかけでは足らず。いつ何をしているの、どうしてできるの、という話になるほどの業務量をこなしていたのだ。それでも莉奈から好評を得る量、決していい顔をされる訳では無い問い合わせを消化しているのは凄まじい事だ。そんな彼を支えていたのは、間違いなくやりがいだった。

暫くの間、作業通話らしい無音が続いた。静寂を破ったのは、健吾だ。

「ありがとう、か。」

「ん?」

「いやな。こっちのセリフだと思ってさ。」

「どこがだよ。」

春斗は最もな返答をした。多忙な健吾に恋人の捜索まで振って小説を書いてるのだから、感謝される筋合いなど彼には全くない筈だった。

「全部だよ。偶に考えるんだ。近くにお前が居てくれなきゃ、僕はこういう風に働けては居なかったなって。」

健吾はそう説明した。

「そうか?健吾は夢が明確だったから、大丈夫だったと思うけどなあ。」

「そんな事ないさ。確かに課外活動で文芸同人を出したり、小説賞に投稿はしてたろうけど…なんて言うか張合いが無くてさあ。あのままだったら僕は高校生なのに頑張ってるってことに甘んじて、低い次元で満足してたかもしれないなって。」

「なるほどねぇ…。」

春斗の疑念を含んだ相槌に、健吾は嬉々として言葉を続けた。

「腑に落ちないか?でも、そうかもしれないって思うんだよ。他でもない僕が。…自分で言うのも難だけど、人並みに勉強もこなしてたから、別の楽な道を行くことも選べたろうし、尚更ね。」

「うん。」

「まあ、お前が思ってるより充実してるって事だ。そしてそれに感謝してる。仕事が凄く多い、それは事実だけど。全然嫌じゃないから、あんまこっちのことは気に負わず小説と向き合ってくれよな。」

「そっか、…ありがとう。」

春斗は納得したようだった。町行くサラリーマンはくたびれた顔をしているが、健吾はその限りではないようだった。

「それで、小説はどれくらい進んだんだ?」

「実は、あと少しで終わりそうなんだ。」

「おお!そうなのか、楽しみだな。」

健吾の声色には期待が滲んだ。

「ああ、でも面白いか自信ないぞ。目が見えるようになって初めて書くし…。」

「ははっ、珍しいな。自信が無いお前だなんて、寧ろ期待してしまうよ。まあ、安心しな。最悪の場合、僕が整えるからな。」

「ふふ、そりゃ頼もしいね。」

そう言って春斗は一つ溜息をついた。

「終わる…か。」

健吾が不意に言った。

「終わるといいな。いや、終わるというのは縁起が悪いかもしれないが。もう一つは、解決するといい。」

「ふっ。ああ、そうだな。」

「その為にも、早く書き上げてくれよ。なんとなくだけど…終わる気がするんだ。物語が、二つとも。ふふ、ちょっとクサいかもしれないけど。なんとなくね。」

「分かったよ。…ところで結構時間が経ったけど仕事はいいのか?」

春斗が外に目をやると、早歩きのサラリーマンが映った。

「大丈夫だけど。そうだな、一応この辺にしておくか。」

健吾がそう応えると、春斗は頷く。

「じゃあ、またな。」

「うん。またな。」

互いにそう言って、通話アプリケーションの接続を切った。

春斗が通りにもう一度目を遣ると、早歩きだったサラリーマンがもう一人のスーツの男に必死に頭を下げていた。どうやら一大事のようで、彼はそこに誰かの物語を感じ取る。

「物語か…本当は、そんな大それたものじゃなかったりもするんだよな。」

春斗は、小さな声で独りごちた。


縁と言うのは不思議なものだ。春斗はある場所から連絡を受けて、電車に乗っていた。その心には期待が満ちている。そこには、今の光子と連絡を取っているかもしれない人物がいるからだ。

退院後、春斗は自宅で仕事が出来ることもあり、出不精になっていた。彼が出かけると言うと、大方近所に食料を買いに行くという意味だった。電車に乗る機会を増やしていたら、もう少し早く気付いていたかもしれない。あれこれと考えているうちに、電車は目的の駅へと到着した。そう、そこは春斗と光子が出会った駅だ。ここから春斗が向かう場所は一つしかない。

それは、あの暑い夏を過ごした施設だった。


春斗が施設の入り口につくと、彼は聞き慣れた音と見慣れない風景による違和感を久しぶりに覚えていた。こんな風になっていたのかと、つい辺りを見回してしまう。その中で一際目を引く絵画を見つけ、暫く足を止めていると、聞き覚えのある声が彼を呼んだ。

「おや、誰かと思えば蒼野先生ですか。貴方の様な一流の小説家にそれをじっくり見られると恥ずかしいものです。」

丁寧な口調の主は豊田だった。

「豊田さん。お久しぶりです。この絵は豊田さんがお描きになったんですか?」

「ああ、そうだね。」

「何分目で見る芸術には疎いので表現の意図を汲めてない発言になるかもしれませんが、独特の色使いが魅力的でつい気になってしまいまして。思わず見蕩れていました。」

「ははっ、褒めるなら簡単でいいさ。寧ろ小賢しい前置きの方が煩わしい。」

「すみません。」

春斗はそう言ってはにかんだ。

「…目、本当に見えるようになったのか。ビジネスマンとしては複雑だが、取り敢えずおめでとう。」

「ありがとうございます。」

「それで、今日はなんの用があるんだ。村山が君に連絡した事は把握しているが、まさか遥々絵を見に来てくれたって訳じゃないだろう。」

豊田は壁にもたれ、一つ溜息をついた。

「実はですね…。」

春斗は、手術のために施設を去って以後のことを豊田に語った。

インターンシップに参加した女の子と交際する事になっていた旨は、若干言うに憚られたが、光子と交際し、手術を機に別れを切り出され、今まさに彼女を探しにここへ来たという事を説明した。豊田は終始無言でそれを聞いていた。

「そうか。事情は分かった。じゃあ鷹村の所へ行くんだな。確かに彼奴の元には今も下柳から連絡が届いていた筈だ。後、住所が分かるだろうから必要ないとは思うが、一応うち系列の介護施設に下柳が就職してないかも調べておくから。帰る前に一声かけてくれ。」

「本当ですか?ありがとうございます!」

「嘘をつく必要が無いだろう。」

豊田は懐からメモとボールペンを取り出し、鷹村千世の居る部屋番号を書いて渡した。

「ふふ、そうですね。」

春斗はそれを受け取りながら、年不相応に無邪気な笑顔を見せる。それを見て豊田はまた一つ小さな溜息をつき、呆れ笑いを返した。

「廊下、走るなよ。」

そう言った豊田に、春斗は一礼を返し振り返って歩き始めた。

鷹村千世、光子の居場所を知る。その人の元へと。


「お久しぶりです。先生。」

中学生と言うものは、たった一年会わないだけで見違える程に成長するものだ。手術前、春斗が施設を離れると伝えた時、千世は随分と騒がしくしていたが、再会は春斗の予想に反し静かなものだった。千世の背中まで伸びた髪が窓から入る風になびくと、目鼻立ちの良い顔が映えて美しく。しかしながら、二度と光を捉える為に開くことない双眸は儚かった。

「うん。久しぶりだね。元気にしてたかい?」

「はい。」

春斗の問いに千世が答えると、彼女は部屋の中へ春斗を案内し椅子へと座らせた。一人部屋という事もあり、千世はベッドへと腰かけそのまま会話を続ける。

「先生って、目が見えるようになったんですよね。」

「うん。」

「本当なんだ。おめでとうございます。正直、羨ましいです。」

その言葉には強く感情が乗っていた。

「ありがとう。そう言えば、千世ちゃんは手術しないのかい?」

「ああ、えと、私眼球は結構無事なんです。たしか脳?神経だったかな?が原因で視えないらしくて。眼球の再生ではどうにもならないんですよね。残念なんですけど…。だから勿論手術も受けません。」

「そっか、ごめん。嫌な事聞いちゃったね。」

春斗が気まずそうに言うと、千世はくすりと笑った。

「全然気にしてないですよ。羨ましいのは本当ですけど。気にしてないのも本当です。」

「うーん、そう言われると寧ろ弱いなあ…。千世ちゃん少し見ない内に大人になったんだね。」

「本当ですか?」

この時咄嗟に出た千世の声こそ歳相応にあどけなかった。

「あ、もぉー、先生ってば上手なんですからぁ。」

「はは、ごめんね。」

千世が入れた誤魔化しに春斗が相槌を返すと、窓からいい風が入って、二人には話題を切り替える為の充分な間が与えられた。

「それで、今日ここに来た理由なんだけど…。」

春斗がそう切り出すと、千世は何も言わずにベッド近くのキャビネットから封筒の束を取り出した。それは光子との文通によるもののようだ。

「それって、みつこさんのことでしょ。」

「うん。」

「やっぱり。じゃあこれ、どうぞ。」

春斗は千世から封筒の束を受け取った。

「やっぱり。って?」

「みつこさん急に遠くで就職したんだもん。気になってたよ。先生と交際してることについても、それからあまり触れてなかったから。余計。」

「ああ…。何だか恥ずかしいな。気遣わせちゃってたんだ。お互いいい歳してんのに。」

春斗は誤魔化すように笑った。千世には視えていないが伝わったようだ。

「気にしないでください。…寧ろ今の今まで何もせずに申し訳ないと思ってるくらいですから。」

「ああ、じゃあ。」

春斗は脈絡の無い村中の連絡に、今更合点がいったようだった。

「私がむらなかさんにお願いしました。今のみつこさんと文通を続けていても、何だか落ち着かなくて。…あの人なんて言ってました?」

「久しぶりにうちの施設に来ませんか、仕事等の相談では無いので気を楽にして、みたいな内容だったよ。千世ちゃんのことは特に書いてなかったよ。僕が思い出したんだ。色々とね。」

「そうなんですね。」

千世がそう言うと、春斗は封筒の束を改めて見た。

「これ、読んでもいいのかな?」

文通はプライベートなことだ。手渡されたとはいえ、春斗も慮るところがあった。

「勿論良いですよ。いや、本当はみつこさんにも許可を取るべきなんですけどね。」

千世はくすりと笑った。

「確かに、間違いないね。」

春斗も笑い返した。

「あ、今本当に読む手を止めようとしているなら。どうぞ読んでください。住所くらいなら確かに内容まで読まなくても良いんですけど、先生は小説家だから、何かが伝わるかも知れないし。それはお二人が長く続くために必要なことかも知れないじゃないですから。」

「はは、ありがとね。じゃあちょっと静かになるけど、それもいいかい?」

春斗は光も音も無ければ、どれ程世界が退屈になるかということを知っていた。だからこそ、逸る気持ちを抑え、千世を気遣う。

「はい、大丈夫です。私は本でも読んでますから。」

千世は笑顔でそう応えた。

暫くすると、穏やかな静寂が部屋に訪れた。


春斗が全ての手紙を読み終えると、部屋には西陽が差していた。随分と集中していたようだ。彼が申し訳ない気持ちで千世を見ると、春斗に負けないくらい集中して本を読んでいたので、安心して一息ついた。

手紙の内容は極めて普通のやり取りだった。この様な場合を想定した光子から、春斗にだけ伝わる様な何かしらのメッセージがあれば、それは素敵な話だったかもしれないし、ほんの少しだけ期待もしていたが、手紙の内容は至って普通だった。

無論、それは春斗にとって問題ではなかった。インターンシップ後、光子がどの様な気持ちで暮らしていたのか、そして今の光子がどの様な生活を送っているのか、それを知れるだけで充分だったから。

春斗は沢山メモを取った。本人に知られたら、或いは気味悪がられるかもしれないが、光子がしたいと書いたこと、欲しいと書いたもの、好きだと書いたもの等を書き留めていった。光子と春斗が離れ離れになった月を境に、それらが減っているように感じられたのは切なかった。

「ありがとう。読み終わったよ。」

春斗は千世に言った。

「いえいえ、それよりどうでした?何か分かりましたか?」

千世は本を閉じて脇に置き、何かを期待して問うた。

「いやあ、分かるも何も…まあ女の子同士だからできる話というのもあったのかな。知らない事とか聞いた事が無いこと、そういうのは沢山書いてあったよ。」

「そうですか…。」

千世の方が、光子のメッセージがある事に期待していたようで、分かり易く肩を落とす。

「そんなに残念そうにしなくても、光子さんが千世ちゃんと真剣に向き合ってる証拠だよ。それに必要な情報以上のことを知られたんだから。凄く役にも立ってる。本当にありがとう。」

春斗は感謝の気持ちを目一杯込めて言った。

「どういたしまして、お役に立てたなら光栄です。」

千世はそう応えると、その手に触れるよう差し出された手紙の束を受け取り、少し手探りで元あった引き出しを開けて収めた。

「それじゃあ、その…申し訳ないんだけど。」

「もう帰るんですよね。大丈夫ですよ。」

千世は言い難いことを言わせないよう春斗を慮った。

「ふふ、なんか寂しいな。もう少し子供のままで居てくれても良かったのに。」

「そう言われると、くすぐったいです。だって、変わったのなんてほんの少しだけですから。…あの時みつこさんと会って、凄い迷惑をかけて。大人にならなきゃ、大人ってなんだろう?って考えたんですけど。こうして人の顔色伺ってばかりが正解なのかは、今もずっと疑問ですよ。」

千世はそう言うと、少し笑って誤魔化したが、春斗は折角の事だと思い、刹那考えてから答えた。

「大人か…難しいね。僕は多分、環境に恵まれててさ。やりたい事やって暮らしてるから案外子供なんだ。でも大人じゃないのかと言われれば、もうそうじゃない。一方で、以前に比べたら随分と落ち着いて、人に配慮して言葉を選ぶ千世ちゃんを僕は大人と思うけど。世間はまだ子供だって言うだろう。…きっと、大人って言われるようになるのは簡単なんだ。本当に、大人になるってことに比べてね。だからこそ、酷かも知れないけど、ずっとその悩みを持ち続ける事が答えになると思う。いつの間にか忘れちゃうからね。」

春斗の真摯な言葉に千世は頷いた。

「分かりました。頑張ってみます。」

「うん。応援するよ。」

春斗は千世の様子を見て安心した。伝えたのは難しいことだったが、十二分に伝わっていると表情で分かったからだ。

「あ、でもね。本当に疲れた時は子供に戻ってもいいんだよ。これは作家として自信を持って言うけど。人間は心のバランスが第一だから。」

 春斗はそう言って笑う。

「はい、ありがとうございます。」

 千世も礼を述べて、笑った。

「じゃあ帰るね。」

そう言うと、春斗は席を立ち伸びをして荷物を確認した。体を玄関へと向け歩き出すと、その背中に向かって声がする。

「先生!それじゃあまた、…今度はお二人で来てくださいね。」

「勿論だよ。じゃあ、またね。」

春斗はそう応えて、千世の部屋を後にした。


廊下に出た春斗の足は、玄関へは向かっていなかった。豊田の部屋に立ち寄るのも理由の一つではあったが、彼には最後に挨拶するべき人が居た。現場には有って無いようなものだったが、既に定時を過ぎている。その為、彼は少々早歩きになっていた。

応接室、事務室を過ぎて突き当たりを右に曲がると、目的の部屋が見えた。その扉は開いていた。もう冷房をかける必要がないということだろうか、春斗は目的の人がすでに帰ったのではないかとがっかりし、それでもゆっくりと部屋の前まで進みドアをノックした。

「すみません、蒼野です。遅くなりました。村中さん、いらっしゃいますか?」

その声に返事はなかった。会うべき人とは村中だ。話をする約束した訳では無いのだが、不義理な事をしたと春斗は感じていた。

肩を落とし、どうにかして感謝を伝えられないかと考えていると、背後からコーヒーの匂いが近づいてきた。

「おお、蒼野先生。丁度良かった。そろそろと思ってもてなしを用意していたんだ。」

二つのマグカップが乗った盆を両手で持って、春斗に話しかける声の主、それは村中だった。

「ああ!村中さん、お久しぶりです。それと遅くなりまして申し訳ございません。…持ちますよ。」

春斗はそう言って、盆に手を出す。

「ああ、別に構わないさ。待っていたと言うよりは仕事をしていただけだからね。それで、蒼野先生が来ているのは知っていたし、顔も見せずに帰るような人じゃないと思っていたから。給湯室まで行ってたんだ。冷めてしまうかと思っていたけど、本当にナイスタイミングだったね。」

村中はそう話しながら自らの執務室へ春斗を案内し、コーヒーを配膳する事で席につかせた。

「いや、本当にすみません。何から何まで。」

「ははっ、いいと言ってるだろう。そもそも約束じゃあ無いんだから。寧ろ自然に席につかせたけれども、先生の方こそお時間はありますか?」

「あ、はい。全然大丈夫です。」

「それじゃあ息抜きに話をしよう。正直に言って私は先生のファンでもあるからね。二年前は仕事だったから、あまり話せなかったけれども。ちょっとしたことを話そう。まあ今も仕事の休憩だから十分程度かな?…うん。それぐらいでね。」

「分かりました。因みに私は何十分でも構いませんよ。そういう仕事をしていますので。」

春斗がそう言うと村中は頷いて応えた。そして、互いにコーヒーを啜る。

「そうだ蒼野先生、目が見えるようになったんだよね。おめでとう。」

「ありがとうございます。」

「やはり目というのは便利だろう?いや、改めて便利というのも、視力を失ったことが無い私の発言としてはおかしいが…。君の場合、治る見込みの少ないものが治ったというのを含めて、本当に良かったなと思う。」

「はい。」

春斗の返事は少し暗かった。

「ふむ。あまり、元気がないようだね。鷹村さんから聞いてるけど、やはり光子さんの事かい?」

「ええ、そうです。目が視える様になって、確かに生活は楽になりました。でも、光子と離れ離れになって…、それも目が視える様になったからだったんです。私は彼女の歴史を知っていてなお、自分の欲を優先させて、蔑ろにしていたんだなって思いました。」

村中は春斗の言葉を聞いて目を丸めた。

「はは、バカ言うんじゃないよ。どんな人間でも視力が回復するなら手術はするさ。いくら君が優秀な人だとしても、そんな反省の仕方は思い上がりだな。」

「あ、いや、別にそんなつもりは…。」

「まあ、聞きなさい。そもそも相手を責めない事が常に正しい事だったり、奥ゆかしいとかそう言う肯定的な話になる訳じゃないさ。下柳さんも確かに優秀な人だけど。彼女が君から離れたのは逃げだ。違うかい?」

「それは、まあ、その。」

春斗は口ごもった。その通りだが、光子のことを悪く言いたくなかったのだ。村中はそれも分かってるようで呆れ笑いを浮かべていた。

「私はね。蒼野先生、いや、敢えて春斗君と呼ぼうかな。君が本当に羨ましいよ。」

「羨ましい、ですか?」

「ああ。」

村中は深く頷いた。

「それはどうして。」

「いい悩みを持っているから、かな。」

「いい、悩み…?」

「ふふっ、私が春斗君の歳だった頃は、毎日仕事が追いかけてきたものさ。当時悩んだ事なんて今振り返っても別段身になって無いし、そもそも表面的な事だったよ。…仕事、お金、結婚はもうしていたかな?兎も角もその歳の人間に周りが言われるようなことをこなして、あれが欲しいから働こう。生活する為に我慢しよう。そんな事ばかり考えて過ごしてたんだ。」

村中の言葉を聞いて、春斗は尚更腑に落ちなかった。思わず礼節に欠く言葉が口をつく。

「その、言葉を返す様で恐縮なんですけど、それも幸せなんじゃないですか?」

「ふむ。まあ、その通りだね。」

春斗の言葉に、村中は即答した。想定内のようだ。

「でもね、春斗君。忙しさにかまけて、考える事を減らし、目の前の事だけに頭を使ってお金を稼いでね。いつの間にか歳をとって、子供達も無事独り立ちしてくれて、自分の時間がまた増えた時、人は気づくんだよ。」

ここで村中はコーヒーを一口啜り、間をとった。

「人生には、宿題があると。」

彼はそう言って、改めて春斗を見る。

「宿題、ですか。」

春斗はそう言って応えた。

「そう、今の君が頭を悩ませているような事だ。才能と実力、美醜と愛、幸不幸、善悪等、価値観と言われるような事は本来若いうちから熟考して定めておくべき事なんだよ。そして自分のやりたいこと、やるべき事、進みたい方向、重大な意思決定を前にそれを活かす必要があるんだ。今思えば、私は楽しい事やお金を稼ぐ事に忙しいと言い続けて、それらを後回しにしてきていた。大きな流れに乗って、ただ生きてきた。」

そう語った村中の目には憂いがあった。

「でも、それは多くの人がやっていて、或いは一部の人が幸せと呼ぶものです。失礼を承知で申し上げますが、そう卑屈になるようなことではないと、僕は思います。」

「先生がそれを言いますか。」

村中は春斗の言葉に刹那、感情的な反応をした。だが、直ぐ様落ち着いて続ける。

「私はね。時折虚しくなるんだ。この宿題に気づくまで時間がかかったのは、才能故の事だと思えてならなくて、だって、そうだろう。忙しくすればこれらは考えなくて済むのだから。きっと豊田君なら学生の頃に感じていた事だろうなあ。運命のせいに出来るくらい、きちっとした努力を重ねていたのだから。きっと、彼は覚悟のもとに運命を受け入れる。そういう答えを出したんだろう。そうした宿題の答えが、結局正しかったのかは分からないけど。だからこそ彼は実力でビジネスを成功させたんだろうよ。」

この時、春斗は村中の眼にあどけないものを感じた。それは羨望だ。そうだと分かると遣る瀬無くなった春斗は黙り込んでしまった。

「ああ、いや、すまなかったね。どうにも年寄りの話は辛気臭くてダメだ。いつの間にか本題からもズレているし。こんな愚痴を聞かせるつもりなんかなかったんだよ。」

「いや、大丈夫です。それに言いたいこと、伝わってますから。」

「そうかい、それはありがたいね。」

村中は、また一口コーヒーを啜った。そして、もう一度春斗を見据えた。

「春斗君、改めて言おう。…君に課せられた宿題と存分に向き合いなさい。さっきは余計な尾鰭を付けてしまったが、それだけの事だ。もう一度、下柳さんに会う前に、どうして下柳さんが好きなのか、他の人ではダメなのか、どうして下柳さんは自分の元を去ったのか、今どんな気持ちでいるだろうとか…そう言うことを考えてみるんだ。勿論、答えや正解はない、当然だが利益もね。それは沢山の大人が時間の無駄と言うことだ。でもね、確かに価値がある。それに気づくことで、後悔が滲むほどの。」

村中はそう言いきった。大衆に受け入れられるような意見では決してなかったが、春斗は真正面からこれを受け止めていた。

彼の中を瞬時に複数の感情が駆け巡る。そして、春斗は今、確かに応えられる言葉を見つけ出した。

「幸せですね。自分は。」

村中はその言葉を聞いて深く頷いた。

幸せ、春斗はずっと自分の外側、どこかにそれを探していた。まだ、遠くにあると思っていた。かつては闇雲に手を伸ばし、光を失って、彼は長らく自分を不幸だと思い込むことにもなったほどだ。否、客観的に見れば失明それ自体は不幸だったに違いない。

だが、事態は彼を見捨てていなかった。

結果的に、全ては今へと繋がっていた。それは心から愛せる人と出会えた今だ。一瞬の内省が春斗にその事実を気づかせた。この時彼は幸せを自分の内側に見出したのだ。

春斗はコーヒーの残りを飲みほして、一つ深呼吸した。

「村中さん。今日はお忙しい中ありがとうございました。」

「いえいえ、こちらこそ辛気臭い話しに付き合ってもらって、ありがとうだよ。」

村中は春斗が食器の片付けに手を出そうとしたところを制し、二人は立ち上がった。

「それじゃあまた、蒼野先生なら連絡さえくれればいつでも来ていただいて構わんからね。」

そう言って村中は右手を差し出す。

「はい。また来させていただきます。色々とお世話になりました。」春斗も笑顔で右手を差し出して、二人は握手した。そして、手を離した後、村中は春斗を部屋の入り口まで見送った。

施設の外はすっかり暗くなっている。春斗は豊田の部屋で約束の資料を受け取った後、早速村中の言った宿題に取り組みながら帰路につくのだった。

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