光の中に消えた〜Left into lights〜⑭

拝啓、蒼野春斗様。

貴方がこの手紙を読めているということは、貴方の視力が無事回復しているということでしょう。その様な祝うべき時に、なによりもまずお伝えしなければならない言葉が「ごめんなさい」であること、本当に申し訳なく思います。そして、ごめんなさい。今後、貴方と会うつもりはありません。私は今、貴方と決別するためにこの手紙をしたためているのです。あまりにも突然で、理不尽で、かつ身勝手な申し出であり、卑怯な伝え方である事は承知しています。それでも今の私には知っておいてもらいたいことがあるのです。酷い話だとは思いますが、どうか最後まで読んでください。

…私にとって、貴方は夢でした。あなたと居る時間はとても楽しく、充実していて、まるで小さい頃、表舞台に立って生き生きとしていた昔の自分が蘇ったような、そんな素晴らしい時間の再来でした。憂鬱な朝が来ても、貴方のことを思い出して力を漲らせることができ、どんな困難に行き当たっても乗り越えることが乗り越えられる気がしました。だから、貴方との将来を真剣に考えたこともあります。今の貴方にとって皮肉になるかもしれませんが、貴方と出会い交際できたことで、私の人生は長くて暗いトンネルから抜け出した様に開けていたのです。

でも、あの時。あなたの視力が戻ると分かった時。私は愚かな自分に気づいてしまいました。あのような喜びを分かつべき時に、私はあろうことか自分の心配をしたのです。あくまで、自分の中にのみ起こったことかもしれません。或いは、これを読んでいる貴方にとって、それを理由に決別などとは間違っている。と想って頂けていたら、それは私にとってどんなに幸せなことでしょう。…それでも、例えそのように想って頂けていたとしても、やはり私は貴方と別れたい。

私は弱く、貴方の隣に居ることで感じられる幸せを失う不安に、特別、視力を取りもどした貴方が私を拒む恐怖に勝つ事ができそうもないからです。

貴方の立場を考えると、極めて身勝手な判断で理解し難いことかもしれません。ただ、貴方に甘えるなら、共に過去をさらけ出して語った事を思い出して欲しい。人間のもつ、歴史のことを。そこに、他でもない別れの理由があるのですから。悔しい話ですし、恥ずかしくもあるのですが、私は目の見える人達に良い扱いを受けたことがありませんでした。

むしろ、その逆ばかり。そうした経験の積み重なりが、今の私を作り上げました。例え都合よく利用されてるだけだとしても、需要のある人間になろうと私を削り、気遣いと言えば聞こえは良いですが、誰かの顔色を伺って生きる人間となったのです。そんな生活の中で私は「大抵の人はこうする」などと考えるようになりました。低い期待、予想のつく未来、それに対する安心感だけを私は支えにくらしていました。そうして少しずつ、私の中には傲慢が育っていったのです。「大抵の人」は「予想通り」に動くなどと、まるで見下したような価値観が育っていたのです。それに、そんな愚かさに気づかせてくれたのは、まさしく貴方。予想外の人となる貴方でした。

貴方は目が見えず、それ故に、私は良いところだけを見せることができました。そうして交際に至った時、私は初めて幸福を手にしたのです。しかし、その幸福は私欲を駆り立て、私は貴方の前でも自然と、こうして欲しいと思っているだろうと考え、振る舞うようになりました。

そして、悪い言い方になりますが、ことは思惑通りに運び、私の思い違いでなければ、私達は互いに互いの幸せを考える良い関係を築くことができていました。こうして、私は思い上がりを加速させ、喜びの日々を考えなしに享受していたのです。…そう、貴方が視力を取り戻す知らせが来るまでは。

あの瞬間、私の中で貴方との関係を成立させていた地盤は大きく崩れてしまいました。そして、その地盤に蓋をされていたが如く、膨大な不安が溢れ出し私に襲い掛かったのです。その後暫く、私は戦いました。明るい希望を思い抱ける様に、視力が回復した貴方でも私を愛してくれる未来を想像しようと努めました。

しかし、勝てなかったのです。私を築き上げてきた歴史が悪辣な囁きを繰り返して、優しい表情をした貴方が次の瞬間には鬼となる悪夢を何度も見ました。結果的に、私は負けました。貴方と交際を続けることは、もうできません。

およそ言い訳ばかりですが、貴方との交際期間は私に取って素晴らしいものになったと思います。何故ならば、貴方は私にこうして「愚かさへの気づき」と「幸せへの向き合い方の存在」を教えてくれました。全てを諦めて悟ったつもりで居た空っぽの私に気づかせてくれました。きっとそれだけで充分だったのです。…最後になりますが、この手紙に私の写真を添えました。貴方と並び立つに能わない容姿をしていると思います。どうか私のことは忘れて、幸せになってください。

それが今の、私の心からの望みです。

敬具下柳光子


梅雨空、仄暗い病室で一人の男が泣いていた。先端医療であるがために、長期に渡り続いた管理体制も解け、戻ってきた本来の病室。そこで彼、蒼野春斗は受け止め難い真実と対面していた。

「光子、光に子供の子…。光、光だったんだ…。」

病室に虚しく響く独り言。思えばそう、春斗は愛する人の名前がどんな文字をしているのかさえ知らなかった。そんな、沢山の知らないことを抱えた想い人から突如告げられた別れ、春斗は視力回復の幸福から一転。これまでの人生で経験したことの無い大きな失意を感じていた。それはつまり、視力を失うよりも、その絶望が大きいということである。

失意は悲しみを呼んだ。然るべきことだ。春斗は泣き続け、何度も何度も手紙を読み返した。暫くすると、春斗の中に怒りが芽生えた。これもまた然るべきことのように思えたが、少しだけ特別でもあった。彼は自身を失意に落とした光子の行為に対して、一切の怒りを覚えていなかったのだ。彼の怒りは光子の写真を見て、繰り返される自問自答の中で、否、自問自答を繰り返す必要性に対して向けられたものだったのだ。

春斗は絶対的に光子を愛していた。そして、その想いに揺るぎない自信を持っていた。それは光子の顔が如何に醜くとも愛し抜くつもりでいたということだ。いや、今も想いそのものに変わりはなかった。

しかし、光子の全てを愛しているのか、という問いに対する答えが、彼女の顔写真を見た瞬間から揺らいだ事も事実だった。彼はその事が悔しかった。そしてまた長い間、深い悲しみと真実の荒波に揉まれる中で、彼は人間そのものに存在する、より根源的な領域へと辿り着いた。失明のどん底から立ち直り、小説家として名を成して、人と愛し合った先で、再び理不尽と対峙した先。蒼野春斗は人間の範疇で解決できないものの存在を強く認識させられていた。

それこそが美醜である。

失明以来この日まで、蒼野春斗は人を「見る」時に、それを使うことは無かった。すなわち、関わる人の良し悪しを計るにおいて美醜を勘定に入れなかったという事だ。そして、下柳光子と出会い、心の交流を深めることで、彼は美醜が人の良し悪しに全く関係ないという本質に気づいた。

これは類稀なることだった。世の多くは外見に振り回されているのだから。

しかし、その気づきを経て尚も今、目の前の写真は確かに彼の感情を左右していた。彼は失明の経験が無かったらば、自分は下柳光子という「善き人」を見つけ出し、愛することが出来ていたのだろうか、という疑念に苛まれているのだ。中学生の自分を鑑みればこそ、その疑いと恐ろしい答えが彼の中で明滅した。

そして、悩みに悩み抜いた末に彼は、とうとう怒るしかなくなっていた。敵は美醜そのものか。若しくは人に、美しいと醜いを感じる心をプログラムした存在そのものだろう。


そう、彼の怒りは言わば「美醜とは神々の謀」だと言う真理に至った者特有の怒りであった。


その後暫く静かに怒り続けた彼は、一つの覚悟を決めた。

蒼野春斗は下柳光子を死ぬ迄愛し抜く。彼は如何なる可能性も無視して、ただ今ある事だけを見つめると決めたのだ。そして、光の中へ消えた彼女を、心から愛する人を見つけ出すと、誓った。

その思いに呼応するがごとく、後日、彼の前にはその水先案内人が現れるのだが、今はただ、酷く重たい現実を整理する為に、そして、怒りを抑え込む為に、ゆっくりとベッドへ体を預け眠りにつくのだった。


本来、と言うのは少し語弊があるだろう。しかしながら、彼にとって本来ならば楽しみとなるべき日が来た。そう、今日は面会謝絶が解ける日だ。真っ先に訪れた家族と視力回復の喜びを分かち合った後、気疲れした春斗はベッドの上でぼうっと窓の外を眺めていた。暫く呆然とし続けていると彼の耳に扉をノックする音が飛び込んだ。

「はい。どちら様?」

「あ、どうも蒼野さん。面会の方がいらっしゃってますが。大丈夫ですか?えっと、名前は…愛咲さんです。」

春斗がその名前を聞いた時、病室を風が駆け抜けた気がした。凶兆か、はたまたその逆か、或いはその両方だろうか、ただ何かがまた動き出す予感。それだけは確かだった。ざわつく心臓の鼓動を落ち着けながら彼は応えた。

「ああ、問題ないです。」

そうすると看護師は扉を開け、愛咲莉奈が春斗の病室に入室した。「…えっと、こんにちは。」

言葉を探すように目を動かして、莉奈は挨拶した。

「こんにちは。うーん、一応久しぶり…なんですよね。なんというか、はじめましてでも間違いじゃない気がして。」

春斗は空気をほぐすため、そう言ってはにかんだ。

「そう、ですよねぇ。なんか、私もどっちだ?みたいな感じで。ふふっ。」

つられてはにかんだ莉奈は用意した花を生けようと花瓶の置かれたチェストの前に移動した。

「目、本当に見えるんですよね?」

「うん。」

春斗はこくりと頷く。

「…おめでとうございます。」

「ありがとうございます。」

そう言葉を交すと、二人の間にまた暫くの静寂が訪れた。莉奈は持ってきた花を花瓶に刺しながら、何かを言い出すきっかけを探している様子で、度々春斗の方を見ていた。春斗もそれに気づいているようで、しかしながら、気の利いた言葉を見つけられずに居た。

ぎこちない時間が流れていた。いつの間にか莉奈は丸椅子に腰掛けており、それでも尚、言葉は出てこない。二人とも光子のことについて話そうとしているのは明白なのだが、それはとても触れにくいものだったのだ。また少しして、春斗は単純なことに気づいた。彼の口角が思わず上がる。光子の事以前に、今、話すべき相手がいることを忘れていたのだ。意識が解れると、春斗の中に漸く言葉が出てきた。また口角が上がる。それは自然に、たった今必要としている話題を引き出せそうでもあったからだ。

「そう言えば、どうして莉奈さんは今日お見舞いに来てくれたんですか?」

 思えばそうだ。手術前の二人が共通して知っている事実からすれば、一人で来るのはおかしな話だった。

「あ、その。実は…。」

「もしかして、光子さんのことですか?」

 春斗は予定通りに問う。

「はい、その通りです。」

莉奈がそう答えると、春斗は敢えて脱力した。ここで力が入ると元の木阿弥だったからだ。

「光子さんは来ていませんよ。…実はフラれちゃいましてね。連絡先も携帯変えたみたいで、今どこにいるのかも全く…。」

「すみません。なんか…。」

「いえ、良いんです。でも、それで貴方が来たと言うことは、…結構な覚悟なんですね、光子さん。」

「えっ?」

「退院したらすぐ貴方に会おうと思ってました。まさか、貴方とも交流を断つなんて考えてませんからね。…でも貴方から此方へ来た。…それは今、莉奈さんも光子さんと連絡がつかないってことでしょう。」

春斗がそう言うと、莉奈は頷いた。否、その姿は悲しげに俯いた様にも見えた。しかし、彼女は直ぐに顔を上げて春斗を見る。一寸前とはうってかわって、その目は力強さに満ちていた。

「私は安心しましたよ。」

「ん?」

「みっちのこと、まだ好きだって確かめられたから。私の所に来ようとしてたってことは、探すってことですよね?みっちゃんのことを。」

「勿論ですよ。」

春斗は力強く頷いた。莉奈はそれを見て満足そうにしたが、ふと何かに気づいた表情を見せて春斗へ問いかける。

「でも、もう見えてしまうんですよね、春斗さんの目。その、もし見つけたとして、再会したとして…。」

莉奈の懸念は明白だった。

「大丈夫だよ。」

春斗は莉奈の言葉を遮った。その語気は強く、それでいて優しかった。そして、彼はベットに備え付けられた引き出しから光子の手紙を取り出し、莉奈へと渡した。

「光子の手紙です。目が見えない時に御守りと共に渡されてました。…併せてあった顔写真も見ました。どうぞ、読んでください。…でも驚いたなあ、光子さん、貴方にさえ一言も言わず失踪するなんて。」

そう言うと春斗は一つ伸びをしで、すぐにでも重く固くなりそうな空気を解す。

「多分、嫌われたかったんだと思いますよ。中途半端なやり方をすれば、結局止まってしまう自分のことが分かる。そういう人だから。」

「…確かに、そうかもしれませんね。」

春斗は莉奈に応え、手紙に視線を送った。莉奈は何となくその意図を察して、くすりと笑う。

「ああ、なんだかこの歳になってやっと、みっちのやってきたこと、分かり始めた気がします。やっぱり凄い人だ…。」

莉奈はそう言うと手紙へ目を落とした。

春斗はそれを見て、窓の外をぼんやりと見つめる。遠くには、梅雨の曇天から零れ出した光線が、まだ目に慣れない街並みを照らし出しているのだった。


莉奈との面会から数日が経ったある日。春斗はベッドの上で体を起こし、パソコンの練習も兼ねて小説を書いていた。小説と言ってもショートショートと呼ぶべき、とても短い話だ。

あの日、手紙を読んだ後、莉奈も泣いていた。無論、光子の事を責めることの出来ない憤りや、置いていかれた悔しさからくる単純な涙ではなかった。それは光子が醜い顔をしていたことで、簡単なはずのことがままならなくて、なによりそれが本人のせいでは全く無かった事への涙だった。春斗はそれを見た時、何かを直感した。書かなければ、そうして今に至っている。

春斗がパソコンと睨めっこをしながら過ごしていると、病室の扉をノックする音がした。小説の臭いに釣られたか、若しくは単に頃合だったのだろうか、無二の親友であり、「七色求夢」としてチームで作家活動をしている相棒の坂口健吾が面会やってきたのだ。

部屋に入った彼は春斗と軽く挨拶を交わすと、丸椅子を用意してその近くに座った。

「いやあ、悪いな。面会来るの遅くなっちまって。」

「いいよ。というより何も悪くないよ。仕事だろ?」

「それはそうだけども、な。」

健吾の開口一番は面会が遅くなったことへの謝罪だった。春斗の業務整理をした後、彼は春斗を見出したその慧眼を買われ新人賞の審査や、新人作家の担当を複数名分こなしていた。成果はいずれも上々で早くも名プロデューサーとして評判になっている。連絡自体は頻繁に取り合っていたからこそ、春斗もその多忙を慮った。

「しかしもう書き始めてるとは。流石だな。」

手荷物を置いて一息つくと、健吾は感心した様子でそう言った。

「ああ、まあ他にやることも無いしな。」

春斗は答え、ゆっくりと伸びをした。

「そっか、お前らしくて安心したよ。」

「…俺らしい?」

「誰が何を言わなくても、自然にやるべき事をやっていく所さ。そういう所が僕は嫌いだね。」

小首を傾げていた春斗に、健吾が答える。

「なんだよそれ、一言多いだろ。そういう所、俺も嫌いだね。」

それを受けた春斗は拗ねたように言葉を返した。健吾はその様子を愉しみながら、春斗にクスッと笑いかける。すると春斗も応えるように笑った。

「…まあ積もる話もあるだろう?今後の事とか色々、時間もかかる事だしさ。ついでに読ませてくれよ。それ。」

健吾は最もらしいことを言って、春斗が目を離したパソコンを指さした。確かに、二人には話したいことが沢山ある。連絡を取り合っているからこそ詳しく話すべきことは多かった。光子の事も健吾は知っているのだ。

しかし、春斗には分かってしまう。健吾の表情がそういったことを後回しにしようとしていると、それ故に、春斗はこう返した。

「それはお前が読みたいだけだろ。読んだらろくに話もしないよ。」「バレてるか。」

健吾は白い歯を覗かせながら、春斗が渋々差し出したパソコンを受け取った。

その後、春斗は健吾が小説を読み始めたことを確認し、御手洗いへと向かった。

暫くして春斗が病室に戻ると、パソコンは机の上に戻っていた。健吾はというと、目を瞑り、少し上を向いて物語を反芻している。これは決まっていつもの事だった。

「冷たっ!」

「おっ、いい反応。」

春斗が冷えたペットボトル飲料を差し出すと、健吾は呆れた様子でそれを受け取った。

「いやぁ、いいタイミングだったよ。遠回りした甲斐があった。」

そう言って、春斗は満足げな笑みを浮かべた。

「はあ、全く…意地の悪いこったな。」「そう言うなよ、奢りだぜ?」「おう、ありがとな。」

健吾は貰ったジュースを一口飲むと、その表情を真剣なものへと変えた。春斗もその意図を理解し、ベッドを挟んだ向かいの椅子に腰掛け、向き合った。

「短編、読ませてもらったよ。相変わらずいい文章を書く。」

「それはどうも。」

「ただ、この作品を売るのは、正直難しいな。」

健吾は厳しい言葉を放った。

「…やっぱりかい。」

春斗はある程度予想が着いていたという様子で、その言葉を受け止めた。それを健吾は読み取って言葉を続ける。

「分かっている様だから、あまり意味が無いかも知れないが、随分と作風を変えたな。…いや、作風は語弊がある。…テーマ、…それとも課題、或いは敵か。」

その批評に納得したのか、春斗は無言で頷いた。

「今までの作品は人間的なテーマが多くて、恨み、裏切り、別れが中心にあった。それらは全ての人が共感しやすい悪意や、色濃く記憶に残る経験だろう。だから売れた。…表現も目が見えないと思えないほど深かったな。多分、失明を機に身をもって経験した思いだったり、盲学校に通うことでも、小説を読む事でも、ある程度は体験出来たからだろう。」

首肯する春斗を確かめながら、健吾はさらに続ける。

「でも、これは全く違う。この短編の主人公達は、全ての人ができる事ではない、涙ぐましい努力を善意の人に囲まれて行って、それでも生まれ、体格、外見の様な神に決められたとしか言いようの無いものに否定される苦しみが書かれている。胸うつ物が無いとは言わないが同じ境遇の人は少ない。だから共感も呼ばない。…これまでのようには売れないと思うね。」

健吾はそう言いきった。その視線を春斗から外すことも無かった。

「そっか。」

春斗はクスッと笑った。その表情はおよそ批評の内容が予め分かっていたようにおだやかだった。

「そうだよ。皆、本当に納得のいかないことは嫌いなんだ。そんなの現実で充分だろ?それに、どれほど納得のいかない展開も、人間がやる事には理由づけができる。だけど、こうと来たら…。」

「分かったよ。」

春斗は健吾の言葉が途絶えた所でそう応えた。

「やっぱ健吾は凄いな。俺が意図した事をこの短時間で読めてて、清々しいよ。書き手としては。」

「なんだよそれ。」

「今の、プロデューサーとしての好調は妥当だってこと。」

「皮肉かい、僕も書き手をやりたいんだが。」

「ふふっ、そうかもな。」

健吾のそれは厳しい批評だったが、お互い心地よさそうな表情をしていた。暫し沈黙が流れる。先に口を開いたのは健吾だった。

「それで、出すのか?」

「出していいのかよ。」

「さあな。でも、選ぶ権利はあるぞ。厳しいことは言ったけど、もうお前は…七色求夢は新人じゃないからな。むしろ売れっ子だ。無理は通せるぞ。」

そうだった。健吾の言ったことはあくまでも売れるようになるための話だ。春斗にはそれ以上のキャリアがある。

「だとしたら、尚更出していいのかよ。俺達で。」

春斗は優しかった。俺達でという点を強調し、念を押す。否、それは当然でもあった。七色求夢はチームだ。それも、とても良いチームだった。

「…聞き方が悪かったかもな。」

「ん?」

健吾は視線を一度外し、改めた。

「届けたいのか?って聞いてるんだ。あまり見くびらないでくれよ。」

春斗は健吾の思いを悟る。

「勿論だよ。」

笑って答えた。

「そうか。」

健吾は相槌を打った。

「じゃあ書いてくれ。短編じゃなくて、長いやつをさ。」

立ち上がり帰り支度をしながら健吾は言った。それは春斗の想定より随分と早く、追うようにして彼を立ち上がらせたが、噂に聞く多忙と懸念が次の言葉を選ばせた。

「長いのをか?それはちょっと…。」

春斗は躊躇していた。当然の事だ。退院したら光子を探さないといけなかったからだ。

「心配すんな。光子さんは僕も探すよ。まだ宛はあるだろうけど。それでも見つからないとなると、探す時間は膨大になるだろ?その時は寧ろ、僕が全力で探してやる。だから、じっくりと時間をかけて、伝えたいことを書くんだ。余さずな。」

健吾はこれまでになく真剣な表情でそう言った。今にも両肩を掴まれそうなくらいだった。春斗は健吾の表情をじっくりと見てその言葉を聞いた。

「全く、優しい提案だな。悪いもんでも食べたのか?」

「はは、どうだろうなあ、それは。…なんて言うか、僕はお前の隣に居ると楽しいんだよ。なんか面白い事やってくれるんじゃないかって。在り来りじゃない人の生き方を、見せてくれるんじゃないかってワクワクしてさ。…残念ながら、それはお前が悲しい時もな。それを優しいって言うのは寧ろ有難い話さ。」

「…そうかい。」

そう言って春斗ははにかんだ。嫌な気などするはずもなかった。「それじゃ、またな。」

「ああ、また。」

健吾が去った病室は、春斗にとって寂しいものだった。

「積もる話、全然してねえじゃねえか。」

彼はベッドへと戻りながらそう呟く。そして、呆れ笑いを浮かべたのだった。

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