光の中へ消えた~Left into lights~⑬

白く清潔感のある、或いは無機質とも言える空間。ベッドの上では、上体を起こした美青年がほんの少しだけ頭を垂れながら点字を打っている。換気のために開けられた窓から風がそっとお邪魔すると、それは入院生活ですっかり伸びてしまった彼の者の前髪をゆらしていた。

捉え方次第では厳かで、神々しくもある部屋の傍ら、彼の親友かつ仕事の相棒である健吾は、邪魔にならないようクラシック音楽を聴いていた。

「健吾、終わったよ。」

頭を上げた男、春斗は静か過ぎたのが災いしたのか、大きな声でそう言った。

「ああ、悪い悪い。」

健吾はそう言いながら春斗へと歩み寄った。

「お疲れ様。あと、態々病院にまで来ちまって悪いな。」

「別にいいよ。と言うよりも仕事だし、寧ろ急に入院したから困ってるのは健吾の方だろ?」

「はは。確かにそうでもないとまではいかんが…。取り敢えず仕事は今日貰った連載だけになったから、心配すんな。」

そう言いながら健吾は鞄に原稿をしまい、伸びをする。

「そうか。まあ、ありがと。」

春斗は笑顔を見せた。

健吾が椅子に戻ると会話が途切れ、暫くの間静かな時間が続いた。暑くなってはいるが、窓辺から吹き込む風があれば過ごしやすい季節だ。ふわりと風がまた吹いて春斗は微睡みかける。そんな時、スケジュールの確認を終えた健吾は春斗へ声をかけた。

「ところで入院生活はどうなんだ?何か困ってることは無いか?年度始めは忙しくって来れなかったし…なにか不自由なかったか?」「いや、大丈夫だったよ。」

「そうか。」

大丈夫、そう答えた春斗の表情を見て健吾は察しをつける。

「光子さんか。」

「ああ。」

「…今度何かお礼の品でも渡さないとな。」

「そうだな。」

春斗は満足そうに答えた。その様子を見て、健吾は少々気になっていたことを口にした。

「その、なんだ。あの後からも結局順調に交際が続いてるってことでいいのか?」

「そうだと思ってる。今でもよく来て話を聞いてくれたり、色々と気遣ってくれるし。うん。」

「…でも、結局強行だろ?」

「うーん。そこはまあ…そうだね。確かに気がかりだよ。けどさ。」

「わかるよ。絶対治した方がいい。誰だってそう思うし、誰にも止める権利なんてないしな。」

健吾は食い気味に言った。分かりきっている事を春斗に言わせたくなかった。

「ただ…。」

「ただ?」

春斗の問いに、健吾の視線は何かを探すよう宙をうろつく。

「いや、なんでもないよ。」

健吾はそう言葉を選んだ。

彼は外見に囚われず心の交流を重ねる二人を尊敬していた。それ故に、二人が同じ方向を向いて進んで欲しいと期待を強く持っていたのだ。だから、口から願いがこぼれ落ちてしまった。けれども、彼はそれを勝手に押し付けるほど不躾でもない。ただ、二人が別々の方を向いていることは健吾にさえ惜しく、話し合いを重ねればと感じていた。

「なんだよそれ。」

春斗は、その期待について分かっていたのか定かではではないが、穏やかな表情で応えた。

「さあな。」

外から風が一つ吹くと、ほんのりと夏の匂いがしていた。


変化のない日々ほど、早くすぎるものは無い。春斗の入院生活は正しくそういうものだった。太陽が昇って沈む繰り返しさえも怪しい事実と化す彼の世界で、仕事に追われることもなければ、それは暗い部屋に閉じ込められた状態でただぼんやり過ごすことを強いられたようなものといえた。

そんな日々において、健吾や光子との面会、或いは看護師との会話は彼にとって救いだった。今の春斗は会話以外の方法で他人が存在することを確かめられない状態だ。それはつまり、会話を通して命が誰かに接していないと、生きている証明さえ満足に出来ない状態ともいえた。これ迄は仕事に没頭することで忘れられていた孤独。春斗はそれに直面していた。

そうした生活の中で、彼はここ数ヶ月の事をよく思い出していた。何も光子との日々だけではないが、それでも光子と過ごした時間の事が殆どだった。映画館も遊園地も、お互いを深く知り合おうと語らった事も全てが新鮮だった。そのせいだろうか、たった数ヶ月程の思い出は彼の中で膨大な月日のように思えてもいた。そして彼は気づいた。自分が視力を失ったのと同時に、かけがえのない大切なものを見つけるための機会を得ていたことに。否、視力回復の見込みがなければ、そう簡単に良い経験と出来るものではなかったが、偶然にも彼はその条件を与えられていたのだ。

その貴重さを理解した春斗は、来る日も来る日も、もう二度と戻ることは無いだろう光なき世界への思いと二人への感謝を日記に綴っていった。

そうして時は流れた。

あっという間に季節は巡り、いつの間にか年をも跨いでいた。春斗の入院生活は、光子の献身的な支えによって何事もなく進み、遂に佳境を迎える。そう、再生眼球の培養が完了し、移植手術の目処がついたのだ。そして彼は、巷でインフルエンザが流行り出したこともあり、大事を取って面会謝絶期間に入ることが決まった。それは妥当な処置である。しかし、この決定によって、春斗が今の光子と会える日は、いよいよ残りわずかとなったのだった。


 太平洋側には珍しく、雪が積もった日。街は真っ白に染り、病院はいつにも増して無機質に見えた。窓辺の花瓶に花の見当たらない、寂しい雰囲気が漂う一室から何枚かの壁を隔てた先、少し暖かい部屋には、親しげな会話を紡ぐ二人の時間が流れていた。声の主は春斗と光子だ。

この日は、春斗が面会謝絶期間に入る一日前の日、つまり失明者としての春斗が光子と共に過ごす最後の日だった。

「もう、その話題はいいでしょ。」

そう突っ撥ねたのは光子だった。露骨に不機嫌な声。しかし、入院生活の中で本を読む以外に真新しい経験などできない春斗としては、あの日のこと、手術への是非について話題が及ぶのは仕方のないことだった。

「ごめんごめん。そうだね。こんなに大切で幸せな時間、野暮ったいことはやめるよ。」

それでも、春斗は極めて自然にそう答えた。気がかりでも、話題がなくても、雰囲気を守りたかった。それはこの時がまさしく大切で幸せな時間だったからだ。

「ああ、えっと…。」

突っ撥ねた時の勢いはどこへやら、光子は春斗の甘い言葉に弱った。

「ちょっと、照れくさかったかな?」

春斗が問いかける。

「そうですよ。…もう。」

ふふっと、光子は笑って返した。不機嫌そうな声をして悪化させた最後の面会の空気を元に戻そうとしてのことだ。春斗は、光子の様子に安心したのか、大きく息を吐いてベッドに体を預けた。

会話が途切れ、暫く間ができた。春斗は何か考え事をするように顔を天井に向けた。少しばかり時計の音がして、その表情を郷愁的なものに変え、顔を前へと向ける。わずかな間を経て、彼には伝えたいことができていた。

「…ありがとう、みつこ。本当に。…僕と、出会ってくれて。」

春斗が言った。

「うん、どういたしまして。」

光子は静かに答えた。

「入院して、時間ができて、考えたんだ。まさかとは思ったけれど、視力が戻ることになってさ。」

春斗は言葉を探すように、顔を動かす。

「なんて言うか、…ずっと失ったんだと思ってた。目が見えなくなったんだもん。それはそうだろう?でも、違ったよ。」

彼はそう続けて、一息ついた。

「得ていたんだ。光がないだけの、また別の世界をね。…いや、こんなのは本当に治るとならばの話で、世の中には視力を取り戻せるわけじゃない人もまだいるから、不謹慎だとは思うけど。そうとしか言えないんだよね。」

「うん。」

光子が相槌を入れる。その声は少し悲しげに聞こえた。

「あの日、君が僕のパスケースを拾ってくれた日。本当に嬉しかったんだ。俺が行く先々、仕事で関わる人達は優しくしてくれたけど。街中を歩けば無関心なものでさ。…だからかなあ。あの後、施設では君の話を沢山してしまったよ。…正直、宝物だと思う。みつこが持っている純粋な善意は。他にそう居ないんだから。」

 春斗は納得気に首を縦に振った。

「そんな人に出会えたんだ。やっぱり得ていたとしか言い様がない。…思い返せば健吾のこともそう。目が見えなくなってから、僕という上辺だけで中身のない人間に、本当に色々なものを齎してくれた。ほんと、治る可能性があるからこそ言えるけど。正直、少しだけ、名残惜しいな。」

春斗はゆっくり口を閉じ、照れくさそうに顔を伏せた。

光子は様々な感情を沸き立てながら彼の言葉を受け止めていた。それからすぐの彼女の心は忙しなかったが、ややあって極めて落ち着いた穏やかな声色を作り、口を開く。

「私の方こそありがとう。春斗には、私が一生経験できないと思ってた事を沢山経験させてもらった。その殆どが幸せと呼べるもので、本当に、本当に、感謝してる。」

一呼吸入れる光子に、春斗は首肯で応える。

「でも、今まで経験したことがない程の幸せだったからかな。春斗の話と同じで、そんなに単純な話でもないって、思った。」

「どういうこと?」

光子の言葉に、春斗は表情を微笑みから疑問に変えてそう問うた。「怖くなったんだ。不意に幸せな状態を失うことが。」

光子はそう答えた。春斗は静かに頷く。

「私は今まで、…自分で言うとかっこ悪いけど、そこまで幸せじゃなかったなって思う。でも、そのお陰、とでも言うのかな。誰かを気遣ったり、時には利用されても苦痛じゃなかったの。だってそれを、私が嫌と感じなければ結果的に皆幸せになるってことじゃない。…それに、お陰で大学の勉強は捗ったし。」

光子はノートを借りに来るだけの人を思い出していた。

「でも、間違ってた。そうやって自分を意図的に幸せから遠ざけて、必死で居場所を作って、ただ安全な場所に居ただけ。貴方が沢山の幸せをくれたから、私、気づけたんだよ。」

「そっか、嬉しいな。みつこさんがそう言ってくれると。」

春斗はそう言ってはにかむ。

「でも、私は得ることで、失ったともいえるの。それは以前の私、自分で区切りをつけて、その中で想像通りの安定した暮らしをしていた私を。或いは、その能力を。」

「確かに幸せじゃなかったけど、あの頃は穏やかで、全てに納得できていた。全てに期待してなかったからこそ、いくつかのことは必ず期待以上で、何より不安がなかった。…でも今は違う。貴方がくれる希望が、期待がある。そして、たくさんの期待には、それが叶わないかもしれない不安と隣り合ってる…。」

そう言うと彼女は手を胸にあて、俯いた。春斗は真剣に、光子の言葉を受け止めていた。窓の外は冬枯れの葉が風に舞い、暫くの間、病室には扉越しの足音が響いた。

「あ、なんかごめんね。もう面会終了時間も近いのに…。辛気臭いよね。こんなこと。」

「別にいいよ。」

微笑んだ。春斗はいつも光子に優しい。

「ううん。ごめんなさい。それと…これを。」

そう言うと光子は鞄の中から、小さな何かが入った紙袋を春斗に握らせた。

「これは…何?」

春斗は確かめるような手つきでそれを触りながら問う。

「お守り。」

「そうか、ありがとう。」

「…沢山、想いを込めたから。私だと思って大切にしてね。」

「うん。」

春斗は微笑んで応え、強くお守りを握った。そして大切な時は過ぎていった。

看護師が面会終了間近であることを告げたため、光子は帰り支度を始めた。物と物が擦れる音はやがて止み。とうとう面会終了の時間となる。

「じゃあ、頑張ってね。」

そう言って、春斗の手をもう一度握る光子。彼女が、立ち上がった所に春斗は声をかけた。

「みつこさん。最後に一つ、指切りをしよう。僕から君に約束したいことがあるから。」

「…いいけど。」

光子は少ししぶる声で応えた。

「僕は嬉しかった。君に希望を、期待を与えられていたと聞いて、心から。だから約束したい。…僕は君を決して裏切らないよ。同時に生まれる不安なんて、全部なかったことにしてみせる。そのための指切りをしよう。」

春斗は小指を差し出した。その表情は自信に満ちていて、光子はそれが苦手だった。それでも、応えるように小指を絡ませて言う。

「じゃあ、約束ね。…信じてる。」

その声は少し悲しそうだった。

「指切りげんまん嘘ついたら?」

春斗は構わず音頭をとり。

「針千本のーます。」

光子はそれに応えた。

面会終了を伝える看護師が、はかったように素晴らしいタイミングでやってきた。光子は看護師に応え、そそくさと立ち上がる。名残惜しく握っていた手は離れることになった。

「じゃあ、またね。」

春斗が言った。

「うん。さよなら。」

光子は看護師について、部屋を去っていった。春斗はまだ光子の体温を思い出せる手を愛おしそうにさすりながら、ベッドに全身を預けるのだった。


それから何ヶ月と経ち、蒼野春斗の世界は無事に光と彩りを取り戻していた。最先端医療ゆえ、面会謝絶期間中は部屋を移すこととなり、加えてあらゆる持ち込み物に触れることは出来なくなったが、彼女のお守りは約束と共に心へ忍ばせ、そして彼は長い期間を耐えきったのだ。拒絶反応の有無を確認するため繰り返される検査、続く隔離。加えて随分と長い間存在しなかった眼球の扱い方訓練。それらを耐え、過ごす中で突然襲いくる孤独は、全て光子と再会できる希望が払拭した。寧ろ、彼女は一体どんな人なのだろう、その思いから、彼の精神は充実していた。


だが、今。春斗は泣いている。

その手には、お守りとして渡された巾着袋と、残酷な真実が記された手紙。彼が視力を取り戻し、自由をも手にした日。

彼にとって最も大切な人、下柳光子は。


光の中に消えた。

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