光の中へ消えた〜Left into lights〜⑫

「みつこ、あの時はごめんな。」

春斗はそう言いながら、小さな包みを光子に渡した。不格好な、恐らくハート型にしようとした形跡のあるクッキーは、健吾のサポートを受けながら自作したものだった。

「あの時のことは、別にいいから。…でも、嬉しい!ありがとう。」

今日はホワイトデーだ。あのバレンタインデー以降、二人の関係は悪化すると思われたが、思いの外直ぐに元へ戻った。それは春斗が今まで通りの付き合いを望み、それを伝えたこと、光子もそうしたいと考えていたことによるものだった。ただ、手術の話題は控えることが、二人の間で暗黙の了解となっている。それゆえに、手術に関して前向きな意見を光子から聞けていないことが、春斗にとって気がかりだった。

「どういたしまして、だよ。」

そう言うと春斗は、緊張を解いてソファに体を預ける。温かい陽光が彼の頬に滑り落ちた。

「最近どう?」

聞いたのは光子だった。

「特に変わりないよ。でも、そうだな…。みつこが忙しくなって会えないから。ちょっと寂しいかも。」

「何それ。ずるい。」

「あはは。」

春斗の言葉には一理あった。三月は真面目な学生にとって就職活動最盛期に近い、二人はひと月前の喧嘩など関係なく、共に過ごす時間を減らしていたのだ。

「…余り来れなくてごめんね。」

「いや、それくらい我慢するさ。就職活動って一生を左右するって健吾が言ってたし、嫌味になんなきゃいいけど、貴重な経験だろうからさ。」

「貴重な経験、ね…。私は昔から品定めされるの慣れてるけどなあ。あ、でも地方都市に行けるのは貴重かも。」

「ああ、そう言うの新鮮かもね。沢山の知らない風景とか見れるからさ。」

「あっ…。」

刹那の静寂。

「うん。そうだよね。そうなの!」

「この前なんかさ、北陸?に初めて言っちゃった!で、次は山陰にも行くつもり、まあでもそこまで何か観光する物があるって言うよりは、やっぱり介護の地域差を勉強するためって感じで…。」

下手な誤魔化しと自分で分かりながら、光子は捲し立てた。敢えて、その他も色んな所に行って色んな物を見た話をした。春斗はそれを黙って聞いていた。

「そうなんだ。みつこが楽しめてるなら、それが何よりだよ。」

春斗はそう応えた。

「ありがとう。」

そう返した光子は、いつの間にか強ばった体をソファに預けなおした。落ち着くと、窓の外を通る車の音が聞こえる。

「俺さ。」

「何?」

「入院するよ、来年度頭から。」

「…そうなんだ。」

「うん。でもまだ手術とか、そう言うのができる!って訳じゃないよ、暫くはずっと検査。ただ、書類的には見込み有りってことでさあ。それで一先ずの入院ね?」

明らかに低いトーンで放たれた光子の声に、慌てて繕った話をする春斗。ピリッとした静けさはこの頃の二人によくあることだ。光子はそんな春斗を見て、少し考えてから応えた。

「おめでとう。」

「えっ?」

「それだって倍率凄かったんでしょ?」

「うん。そうだけど、じゃあ応援してくれるってこと!?」

光子の思わぬ反応に春斗は感情が昂った。

「うーん、それとこれとは話が別。」

「なんでっ?」

勢いよく春斗が突っ込む。思わず光子の表情は崩れた。

「ふふっ、やっぱり複雑なの。まあ、私の中だけなのかもしれないけど…。」

「わかんないなあ。」

春斗は首を傾げ、溜息をついた。

「そういうものかもね。兎に角、同意も前向きな気持ちもないけど、入院となればサポートは必要でしょ?私、できる限り手伝うよ。」

「…ありがとう。」

「うん。」

光子が頷くと、静かで穏やかな時間が訪れた。二人の間にある何かが解けて、ゆったりとした時間だった。暫くすると二人はテレビを点け、他愛のない会話をし始める。二人はこの日、ひと月ぶりの単なる時間を過ごした。


桜が咲いている。子供たちはまだ学校が休みなのだろうか、朝の電車は少しだけ空いていた。昨夏の出会いに思いを馳せる二人を乗せ、電車は大きな病院のある街へ向かっていた。

「みつこ。」

「何?」

「ありがとう。結局、色々と手伝ってもらって。」

「大丈夫よ。それにほんの一部じゃない。健吾さんがだいぶ揃えてたみたいだし?」

「ああ、まあ…そうだったねえ…。」

目の代わりに泳ぐ、春斗の声。

「ちょっと、ちゃんと健吾さんにもお礼は言ったの?」

光子がそう言うと、春斗は大変バツが悪そうだった。

「言うよ。言う。忘れずにね。」

「はあ…。」

光子が溜息をついたと同時に電車は目的の駅に着く。光子は春斗の手を優しく引いて、二人は共にホームへと降り立ったのだった。


病院に来るのはいつ以来だろうか、剛健とも言える光子にとって病院は縁の薄い場所だった。 春斗は入院の手続き中で、光子は手伝うと申し出たが断られたためロビーで座り彼を待っている。周囲を見渡すと、年度始めの騒がしい街を抜けて来たにも関わらず、なおも沢山の人が居て、不思議な気持ちになった。光子が視線を受付に戻すと既に春斗の姿はなかった。彼女はすかさず少し離れたところで彼がうろうろしているのを見つけ、急いで歩み寄った。

「ごめんなさい。もう終わってたのね。」

「ああ、うん。」

ほっと一息つく春斗に、光子は申し訳なく思う。

「気にしなくていいよ。休んでてって言ったのは僕だし。」

「ありがと。」

春斗の計らいに、光子は感謝を述べた。

「でも珍しいよね。なにか考え事?」

「あ、いや、…病院に来る人沢山いるんだなって思ったの。」

ロビーからエレベーターへと向かう二人。大きな病院ということもあり、行き交う人も多い。

「確かに足音が多いね。…それで、考え事を?」

「うん。なんていうか。私、病院にはあまり来ないから。こう…こんなにも病気と戦ってる人が居るんだ。って思うとそれがちょっと不思議で。街ですれ違っただけなら病人だとは思えないような人も居るし。」

春斗は光子の話に大きく頷いた。

「分かるなあ、それ。」

「本当?」

「うん。それといえば…。」

歩きながら言葉を続けようとした春斗を、光子は力強く制止した。話の内容は気になるのだが、そういうわけにもいかない。

「春斗、ここ、エレベーター前。」

「あっ、うん。」

春斗を制止させ、光子はエレベーターのボタンを押した。そして、一瞬強く繋いだ手の力を緩め、話の続きを求めた。

「えっと、それで?」

「ああ、中学の頃、失明して入院してた時、俺も似たようなことを感じたんだよね。」

春斗はそう言うと顔を遠くへ向けた。

「年頃だった。って言い訳したい恥ずかしい話なんだけどね。突然視力を失ってさ。やっぱ自分だけが特別に不幸だって思っちゃうじゃない。…それで毎日毎日どうして俺だけが、なんて言ってたんだけど。ある日主治医の先生に怒られたんだよ。」

「うん。」

光子が相槌を打つとエレベーターの到着音がした。二人は歩調を合わせそれに乗り込む。光子が行く先のボタンを押して扉を閉めると、春斗は少し間をとって言葉を続けた。

「先生、ここを何処だと思っているんだ!って一喝した後、…世の中に沢山の健康な人達が居る中で、それでも絶えず患者は来る。その中には重大な障害が残る者もいれば、若くして命を危険に晒さなくちゃいけない者もいるんだ。たった今もそう、本当に不幸なのはお前だけなのか?って。言ってさ。…あまり感心できる話じゃないかもだけど。俺はそれで少し気が楽になったんだ。自分だけじゃない。それは確かにそうなんだって思えたから。」

春斗の表情が綻んだ。それは、どこか感慨深げでもあった。光子が言葉を探しているとエレベーターは目的の階へ辿り着く。

「いい先生に会えたのね。」

光子は春斗をフロアへ導きながら応えると、春斗は首を縦に振った。

「それで、その後かな。今のみつこと同じ不思議な感覚にもなったのは。自分が悲劇の中心に居ると思ってたことは、世界にとってはほんの一部、瑣末事なんだって気づいてさ。」

「うん。」

「でもさ、やっぱ不思議なんだよね。意味わかんないもん。大事に決まってんじゃん失明とかさ。それが例えば今、この病院の外を走る車の運転手には全く関係ないなんて…言われたとてさ。」

春斗がそう語ると光子の手を握る力は一層増した。そんな春斗の話を聞きながら、光子は彼の創作を思い返す。

「ふふっ。」

「…何?」

「いや、だからなのかなあ。私が春斗さんの小説が好きなのはって、思って。」

光子がそう言うと、春斗も合点が言った様子だった。春斗は物語を作る中で、それは特別な事じゃなく、誰であっても特別であると伝えたがっていた。それが光子に伝わっていると分かったのだ。

「ああ。そうかもね。」

春斗がくすくすと笑い合いながら応えた。

暫く歩き、二人は歩みを止めた。いつの間にか、案内に記された病室の前だった。 二人は病室に入り、光子が窓を少し開けた。すると穏やかな風に乗って、何も知らない電車の音がして、彼女は一つ、大きく息を吐いた。

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