光の中に消えた~Left into lights~⑪

冬空の下、街を行く人々は年末年始の穏やかさなどとうに忘れたように足早だ。つい先日始まったはずの一年も、気づけばすぐに二月となっていた。

そんな折、光子は大学が主催する就活セミナーに参加し、帰路に着いていた。社会福祉学部の彼女は、インターンシップの時よろしく系列の施設に勤めれば済む話なのだが、社会勉強の為にと就活に精を出すことに決めている。ただ、それが指定する装いには疑問が残るようだった。

「痛っ!はー、もぉ…。」

普段はスニーカーを愛用している彼女にとってリクルートパンプスは難敵の様だ。イライラしながら通りを歩いていたが、とある商品が目に留まって、歩みを止める。

「そっか、もうすぐバレンタインか。」

光子は小さく零し入店して、豊富な種類のチョコレートを物色したのだった。


また別のとある日、莉奈は過酷さを増す実習の説明と、卒業論文についての説明を受けていた。それは少し退屈で、彼女は外を眺めたり資料に落書きをしたりして過ごしている。携帯電話の通知が何度かあったので次の休憩で確認しようか等と考えていると、助け舟が出されるかのように丁度チャイムが鳴った。莉奈は、何とか舟を漕がずに済み一安心すると、廊下に出て携帯電話を確認した。

「えっ、この日…?」

莉奈が驚いたのも無理はない。光子からのメッセージには、春斗、健吾、莉奈、自分の四人でお茶をしようとあったのだが、その日程は二月十四日、バレンタインデーだったのだ。当然、二人きりで過ごすのだろうと考えていた莉奈は、戸惑いながらも肯定の返事をした。その後、チャイムが鳴って、莉奈は退屈な説明会へと戻って行った。


その夜、莉奈は光子へと電話をかけた。

「もしもし、みっち?」

「ああ、莉奈ちゃん。何?」

明るい声で応える光子、莉奈は少しだけ安心する。

「いや、うーん。お昼の件かな。」

「ああ!あれね。」

「いいのかなあ、おじゃま虫が二人も行っちゃって。」

「いやいや、春斗にも言ってあるし全然大丈夫だよ。」

「本当に?二人きりじゃなくていいんだ。」

「うん。…と言うか別に終日四人って訳でも無いよ?」

「ああ〜!確かにね。」

光子の言葉に、莉奈は納得した。

「…うーん、でも…。」

それでも暫くすると、莉奈は煮え切らない様子を見せた。彼女はなんとなく光子が何かを隠していると感じていたのだ。電話を切らず、繰り返しそう言った態度を見せる。それに観念してか、光子は長年の付き合いも考えものだと溜息をついて、胸中を明かし始めた。

「…本当はね、その、二人きりで過ごすことも考えたよ。」

「ほらぁ!」

「でも、…恥ずかしい話なんだけどさ。照れ臭くて、チョコレート渡すのが。」

「えーっ!」

莉奈は電話越だと迷惑な大声で驚いた。それもそのはずだ。莉奈の知る光子は、そんな事に恥じらいを覚えるような人間ではなかった。受話器越しに光子がクスクスと笑う声がする。

「なんだろうね、もし受け取って貰えなかったらとか、美味しくないって言われたらどうしようって思っちゃって…。おかしいよね。度胸で生きてきたみたいなところあるのに。」

「ああ〜。」

莉奈は本当に好きなんだ。と喉元まで上がった言葉を止めて、頷いた。そして光子を慮り言葉を続ける。

「春斗君はそんな事言わないし、しないと思うよ?」

「いやあ、そんなのわかんないじゃん。」

光子は笑いっていたが、少しの不安も伺える。

「そうだね。いや、みっちでも、そうなんだ。」

「ん?」

「いや、まあ、なんでも?」

「そっか。」

「そういう事なら、分かったから。…楽しみにしてるね、特に、お零れのお菓子とか!」

莉奈はそう言って笑った。

「莉奈ってば、現金だなあ。」

光子は、そう応えた。そして、暫く話した後二人は通話を終えた。

幸せとは、不思議なものだ。沢山の人が本能的に求めるそれは、過酷な状況に置かれても道を拓いてきた光子さえも、弱くてしまうのだ。莉奈はこの夜、それをひしと感じていた。そして、彼女にとってこの通話は、どこまでも強く見えた光子のイメージを揺るがすものとなった。

人は変わる、何十年と変わらないものなどそうそうない。否、もし変わらなかったならば、それは停滞だ。明日は、何が変わるだろうか、莉奈がそんなことを考えこんでいる間に、夜の闇は一層深まっていくのだった。


「あー、寒っ!」

「いやいや、そんな格好だからでしょ…。」

「ちっ、ちっ、ちっ、甘いなあみっちは…こういう脚を見せる格好はね、一度きりの人生の今くらいしかできないのよ。こればかりは譲れませんなあ。」

「大袈裟な。」

乾いた風も走る冬の道、二人は寒い時期の定番トークを交わしながら春斗の住むマンションへと向かっていた。

「にしても最近は忙しくなっちゃったよね〜。」

「そうだね。」

「どんくらいで会ってるの?間隔とか。」

「あー、就活次第かな。…多い時で週四。」

「本当?結構会えてるじゃん。」

何気ない会話に表情が綻んだのは莉奈だ。

「なんで莉奈が嬉しそうなの…。」

「そりゃ本当に嬉しいからよ。」

「ふふっ、ありがとね。」

少し強ばった光子の表情も和らぐと、莉奈は思い出したような顔をした。

「あ!そう言えばさ、卒研の説明で聞いて興味がわいたから眼の治療について調べてたんだけど、知ってる?まあ最近盛り上がってるしみっちは関係あるから知ってるかもだけど、兎に角、近いうち良いニュースが聞けるかもしれないってこと。」

莉奈は弾んだ声で光子に言った。光子は何となく良いニュースの内容を察すると、言葉を返す。

「へぇ、そうなんだ。楽しみにしておこうかな。」

それは誤魔化しだった。そうした理由は、莉奈にとって朗報でも光子にとってもそうとは限らない、それだけの事だった。

「いやぁー!今日は楽しみだね!」

莉奈はそう言って呑気に光子の先を行って振り返る。彼女らしい無邪気な微笑みは、誰を虜にしてもおかしくないものだった。

「だから、何で莉奈が嬉しそうなの…。」

光子はそう返して微笑んだ。その心には微かな不安を携えていた。


「ご馳走様。」

「ご馳走様です。」

春斗と健吾がそう言うと、光子と莉奈は洗い場に下がった。かちゃかちゃと洗い物をする音が響き出すリビングルーム、その床には穏やかに陽の光が落ちている。

「しかし、いいのか?クリスマスに続いてバレンタインまで。」

「今回は、呼んだからね。問題ないよ。」

「悪かったって。」

「それにしてもあの日、健吾相当疲れてたよなあ。どんなに気取ったかしんないけど、莉奈さんとは何か起きなかったのかい?なんなら部屋まで送ったんだろ?」

「おい、もうその話はやめろよ。何も無かったんだよ。何も出来なかったしなぁー…。」

バツが悪そうで惜しむような健吾の声に、悪戯に微笑みかける春斗。

「それも含めて良しとしよう。…うん、結局あの日だって助けられたし、なんと言うか不甲斐ないな。」

そう言うと春斗はそれが眼の事と伝わるような動きをした。

「あ…その事なんだけどさ、春斗、最近ニュースって観てるか?」「観てないけど…。」

「そっか、…じゃあ光子さんから眼の話とかは?」

「特になにも…。」

春斗の言葉に、健吾は少し驚いた。

「何かあるのか?」春斗の問いかけに、健吾は刹那思案する。

「いや、最近失明に関してニュースになってた気がしたからさ、聞いてみただけだよ。」

健吾は真実を選んで応えた。

「なんだ、そうか。」

春斗もその言葉に納得した様だった。

だが、世界というのは不思議なものだ。この時健吾が守ったものは、すぐ様破られることになる。数奇な運命を持つ者達には、必ずや試練の時がやってくるのだ。それは、本来とても些末な筈なのに人々を苛んでいる。命題のこと。


昼食の後片付けも終わり、四人はリビングルームで談笑をしていた。時折持ち寄ったお菓子を口にしながら、出会ってからこれまでの事を懐かしげに振り返っていた。テレビからは、当日となったバレンタインを特集する焼き増しの様なワイドショーが流れている。

「いやぁ、でもこうして話してみるとやっぱり長かったなあ。」

「ホントそうですよね。」

こう交わしていたのは健吾と莉奈だ。最近一年の体感が短くなったなどというあるある話から今に至る。二人は、光子と春斗のことを甲斐甲斐しく世話したつもりでいる期間のことを長く感じると言って盛り上がっていた。

「いや、二人とも僕らのことなんだと思ってんの。」

春斗は呆れ声で言った。

「あはは、えっと、それだけ動向が気になる…心配ってことですよ。」

莉奈は誤魔化そうと返した。

「本当にそれだけかなあ?絶対面白がってると思うなあー。」

光子がそれをからかい交じりに追求する。

「僕は素直に面白がってるよ。」

そして、呑気な声で健吾が応え。

「健吾くーん?後で覚えといてね。」

敢えて穏やかに春斗が言うと、四人は笑いに包まれた。

それは本当に、穏やかな午後だった。


健吾がテレビに目をやると昼間のワイドショーが終わろうとしていた。ワイドショーの後は、再放送の刑事ドラマが予定されている。しかしこの日、刑事ドラマは流れなかった。緊急ニュースのアラート音が鳴り、テロップが出されたのだ。差し替えの放送が行われるほどの事が、起きていた。

「ここで臨時ニュースが入りましたので、急遽、放送番組の内容を変更し、お伝え致します。かねてより研究が進んでいた再生医療、iPS細胞の分野でまたも日本がやりました。京応大学医学部の研究チーム主導の元、同大学病院内で行われていた眼球再生手術が成功したとの情報が入りました。これにより、著しい眼球の損傷が原因で失明した多くの方が視力を取り戻せる可能性が高いとのことです。なお、同治療法は来年度より更に人数を取って臨床試験を行う予定とのことです。…繰り返します。」

大ニュースだった。特に四人、さらに言えば春斗にとってだ。かつて自分を孤独の闇へと突き落とし、愛する人と沢山の物事を共有できない事実まで見せつけた失明が治るかもしれない事に、喜びは不思議と少し遅れてやってきた。

「やった!本当か!?今のニュース。」

そして子供のように、無邪気に叫ぶ春斗。色んなものにぶつかりながら移動し、テレビのスピーカーへ顔を近づけた。

「うん、今聞いてもそうだ!これ!俺の眼が視えるようになるって!そういうことだよな?健吾!」

大きな声だった。春斗の物凄い喜びは余すことなく健吾に伝わった。健吾は莉奈と光子に一瞬だけ目を配った後、春斗に応える。

「落ち着けよ。でも、…そういう事だと思うぜ!良かったなあ!」

そして、莉奈へと申し訳なさそうな顔をした。春斗の興奮はまだまだ収まらなかった。何よりそれを共に分かち合いたい人が居るのだから。そして、彼は暗い谷底から助け人を見つけた時の様な声で言った。

「みつこ、俺!嬉しいよ!また君に会えるんだ!最新の治療だから、俺が該当するかは分からないけど、ニュースの内容からしたら間違いない。少ない人数に入れば…やったあ!今日は俺の人生で最高のバレンタインだ!」

しかし、光子の応えは鈍かった。そのことに春斗の表情が曇ると暫く居心地の悪い沈黙が続いた。

「みつこさん?…みつこさん、どうかしましたか?」

春斗は動揺しながら言った。

「いや!その…みっちは心配してるんだよね?その手術、誰でも受けられるようになるとは言ってないし、多分!すごい倍率だと思うから。」

重苦しい空気に耐えかね、莉奈が応える。

「なんだ、そういう事だよね。きっとこれから、映画も、街並みに沈む夕陽も、息を飲む様なイルミネーションも分かち合えるんだよね?」

確かめるように、春斗は言った。だが、とうとう口を割った光子の答えは、違った。

「ごめん…そうじゃない。」

静かで、消えそうな声。

「え?それって…。俺の眼が視えるようになって欲しくないってこと?」

「うん…。」

光子は、そうすべきでないと思いながらも、隠しきれない本音を応えた。そして、春斗は愕然とする。彼女の気が進まない理由は、顔立ちの事だろうと察しはつくのだが、彼にとってそれは瑣末事に過ぎなかったからだ。ただ、それは同時に彼にとってだけの事でもあった。

「ごめん、二人とも…。ちょっと席、外して貰えるかな?」

春斗は健吾と莉奈に向けて言った。

「…ああ。…でもな春斗。」

「いい。」

健吾は何かを諭そうと試みたが、それは制されてしまった。

「みっちごめんね?また後で…。」

「うん。」

続いた莉奈に光子が小さく頷いて、二人は部屋を後にした。テレビの電源を切ると、全くの無音が二人を包んだ。

「俺は君が、みつこが好きだ。大好きだから。手術には前向きになって欲しい。後生無いと思っていた奇跡だし。失ったはずの物が取り戻せる。そう…壊れていた物が直る。どう考えてもいいことじゃないか。みつこさんならわかるでしょ?」

春斗は真剣に語った。彼の言う通りだ。それで悪いということは全く無い。

「正直に言うと。…それは難しいと思う。」

それでも、光子の返事は芳しくなかった。

「っ!それは失礼じゃないか!何度でも言う、僕はみつこのことが好きなんだよ?だから会いたい!会いたいんだ!ちゃんと!君が前向きじゃないと言う事は、俺の言葉を信じていないってことになるんだよ?」

「でも!私は、その準備が…。」

「準備なんて必要ないよ。みつこと一緒に美しい景色が見れる!映画だってテレビだって料理さえも!これまで半分くらいしか共有出来なかったことが、出来るようになる!それは歓迎すべきことだろう?」

「それは!それは、そうだけど…。」

光子はそれでも、前向きにはなれなかった。

「どうしてそこまで…、僕はみつこが好きで一緒に幸せになりたい。それだけなんだよ?」

「それが!私の顔を見たら分かるなくなるかもしれない。そう思ってしまうの…。春斗にとっては簡単な話で、その愛が本物だったとしても、私にとっては…。」

「そんなこと!!そんなこと僕には関係ない、みつこが好き、それだけだと!」

「だから!そんなのわかんないでしょ!!それに、そんなことって何?。」

春斗が軽視したことは、光子にとって重要なことだった。人間には、歴史がある。

「なんでできるって思えるの?保証なんでどこにもないじゃない!…貴方の事、何も全部わかっているつもりは無いけど。それは貴方がこれまで望んだことを、なんだかんだ全部叶えてきたからでしょ!?」

「っ…。」

春斗は言葉に詰まった。貴方だなんて呼んで欲しくなかった。春斗と呼んで欲しかった。それもまた些細な違いのようで、大きい。

ただ、光子の言っていることは正しかった。彼が出来るという根拠は彼の努力が成果と比例してきたからに他ならない。中学生の時、春斗は向けられた愛に応えず。敢えて自分に気の無さそうな女の子を口説いて落とした。生業の小説家も、そう簡単に生計が立つものではないのに、読書に没頭することだけで実現していた。頑張って書いた作品が認められる。それは、言葉にすると単純な話だが相当な奇跡と才能の賜物で間違いない。春斗は失明という絶大な不幸に見舞われてこそいるが、尚も圧倒的な天運によって自己実現を果たし続けてきたのだ。そんな彼が無根拠に理想を語るのはやむを無いことであり、その態度は確かに自信過剰ともいえた。

一方の光子は違った。努力など、何一つ彼女に報いなかった。簡単に挫けていたなら、或いは、天から授かった異様な洞察力さえも持っていなければ、もっと鈍感でいられただろう。的はずれなことをしたと後から笑ったり、適当な所で切り上げることもできたかもしれなかった。だが、神は彼女に、最低な才能の渡し方をした。彼女は自分の努力を客観視し、修正し、誰が見ても正しい努力にすることが出来た。そして、充分にそれをしてきた。それでも、世界は応えなかったのだ。だから、光子にとって春斗と交際出来ていることは至上の幸せといえた。否、当然の報いとも。それ故に、光子は今の幸せを維持することに強く拘り始めており、春斗が視力を再獲得する事は、その妨げでしかなかった。光子が前向きになれないのは仕方の無いことだったのだ。

また、光子はこの時、春斗の手術を拒むことで嫌われるならば、それは自らの選択だからこそ、良いとも考えていた。彼女は兎に角手術を受けて無事視力を取り戻した春斗に愛されなくなることが怖かった。それは、彼女を傷つけてきた出来事と同じだったから。

この日まで、彼女の精神は屈強に鍛え上げられていた筈だったが、目の前の幸せを守ろうとする弱さに、膝をついていた。

長い沈黙があった。返す言葉を探し続けた春斗は、とうとうそれを見つけられなかった。

「みつこがなんと言っても、僕はこの手術を受けるよ…。いや、りなさんの言う通り、受けられるかは分からないと思うけど…。」

静寂の隅っこで、啜り泣く声がしていた。

「そう…わかった。またね。」

光子はそう言うと荷物を纏めて部屋を出た。彼女は直ぐに後悔したが立ち止まらなかった。一人部屋へと残された春斗の世界には、音も無く、光も無い。皮肉にも、その目に届かぬ光の世界は穏やか極まりない冬晴れだった。

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