光の中に消えた~Left into lights~⑩
「ねえねえ春斗、今からコーヒー入れるけど、飲む?」
週に一度、単位充分な光子が生み出した午前で講義が終わる日の午後。あれ以来、こうした空き時間に、彼女はなるべく春斗の部屋へ通うようになっていた。
「本当?丁度、欲しいと思ってたんだ。頂こうかな。」
春斗はそれをとても有難いと感じていた。目が見えない生活に、もう何年も慣れ親しんだとはいえ、やはり独りの時間は怖いものだ。光子のお陰でそれも随分と少なくなり、春斗は以前から健吾の不在時や、施設での講師業をしていない時に感じていた不安、世界が自分を置いていくのではないかという恐怖を感じることも少なくなっていた。
そう、春斗にとって、彼女はまさに闇に差す光だった。
「ふぅ、さみ…。」
この状況に、ほんの少しだけ迷惑を被ったのは健吾だった。彼は今、普段であれば春斗と共に推敲作業に勤しむ頃なのだが、向かいの喫茶店でコーヒーを飲んでいる。光子が来るからと連絡を受けて、追いやられた形だった。だが、親友の幸せを心から祝福しているからこそ、迷惑がるのも気が進まず。矛盾した感情に、彼は今、ただただ口角を上げていた。
遠慮の壁が崩れて以降、二人の距離はあっという間に縮まった。
やはり、仕事上の命題として人間を扱う春斗、文脈を読み解く才のある光子とあれば、精神的な繋がりを深めることなど容易いようだ。たった数週間しか経っていないにもかかわらず。二人は一度も喧嘩せずに銀婚式を迎えた夫婦かのような絆を深めていた。
なにより、かつて沢山の共感を集めた光子の見せる彼女としての振る舞いは、本当に愛すべきものだった。それは時折健吾の目に見ても魅力的に映った程で、顔の醜さなど全く感じさせなかった。健吾は、恋をすると女の子は可愛くなるなど、非論理的な話だという認識を改め、才能ある者の表現力に感心していた。
兎角、二人の恋は順風満帆だった。
「さて…と。」
仕事に一段落がつき、伸びをする健吾。その目には洒落た鳩時計が映る、スケジューラーを確認して、念の為PCの時計をチェックすると、美味しいが何かが少し足りないコーヒーを、一気に飲み干した。これ以上は仕事に差支える。親友には悪いが、と心の中で呟いて、健吾は喫茶店の席を立った。
「ありがとう、美味しかったよ。」
スーパーで買い溜めしたドリップコーヒーを堪能した春斗は、光子に礼を述べた。
「はい、どう致しまして。」
そして二人ソファに並んで、茶菓子の残りを摘んだ。
「なあ、今、何時?」
「ん、四時前。」
「あー、じゃあ健吾来るなあ…。」
繋いでいる手に、少し力が入った。
「じゃ、またね。…お仕事がんばって。」
「うん。」
光子は惜しむ子持ちを抑えて立ち上がった。そして、最近買い揃えたマグカップを手際よく片付け、部屋を去っていった。
「えっ!?お前達ってまだキスもしてないの!?」
春斗は健吾の大きな声に驚いた。話した事実は、何気ないことと思っていた。
「え?ああ、…うん。」
「意外だなぁ。すげぇ仲良いのに。」
「いや、でも未だ付き合ってからはそう長くないし…何よりタイミング取りづらいんだよ。…ほら、俺目が見えないから。」
「ああ、そうか、…そうだよな…雰囲気とか表情とかあてにできないし。確かに、難しいよな。すまん。」
「別にいいよ。」
春斗はそう言ってはにかんだ。
健吾はその後も手では原稿のやり取りをしているが、どこか思案顔をしていた。彼も恋愛と縁遠い人生だったからだろうか、お節介な気持ちは湧いて止まない様で、何とかして二人をキスさせようなどと余計なことを考えていた。
「うーん。でもさ、春斗もそろそろ次のステップに行きたいだろ。」
「それは、…まあ。」
春斗は、もどかしさを隠せない口調で答えた。
「だろ?」
健吾はそう言って頷き部屋を見回した。すると、彼の目にカレンダーのとある日付が目に入る。
「そう言えばそろそろクリスマスじゃないか、そこで何か特別な事をして…キスしたいって伝えたらいいんじゃないか?多分、光子さんもそろそろだと思ってるだろうし、きっかけがあればなんとかなるはずだ。」
「うーん、なるほど。しかし、特別なことか…。」
「なんかないのか?光子さんが喜びそうなこととか。」
健吾がそう言うと、春斗は頭を捻った。健吾はその表情を見てほっとする。彼の表情が良いアイデアが出る時のそれだったからだ。
「…遊園地。」
「遊園地!いいじゃん!彼女が行きたいって言ってたのか?」
「いや、何となくだよ。一緒にテレビ観てるとさ、CMが流れるんだけど。その時に、何となく…ね。イルミネーションとか、視覚的なとこが多くて言い出せないのかなあ、多分あの雰囲気、行きたいんだと思うけど。」
健吾はこれを聞いて感心した。間違いないと思っていたのだ。そして、こんなにも分かりあっていそうな二人が、まだキスもしてないという事実に、一層驚いていた。
「それ、絶対にそうだよ。だから、今度会った時に誘いな。」
「わかった。それと、ありがとな、自信出てきたわ。」
春斗はそう応えて安堵の表情を見せた。二人だって分かり合うという点では負けていない。いや、負けられないだけの時間がある。健吾の自信満々な絶対という言葉、それは春斗にとって何より信頼に能うものだった。
「でもなー、そうなると、春斗のこと心配だなー。クリスマスなんて僕は暇だし見に行ってもいいか?」
「冗談。それだけは勘弁してくれよ。」
春斗は不躾な健吾の冗談にも笑って応えた。そして、期待溢れる未来に進むため、仕事とデートプランニングに精を出すのだった。
「ねえ、もう着替えた?まだ?」
「ちょっと待って、さっき入ったばかりなんだから、まだに決まってるでしょ。」
洒落たブティックの試着コーナー前、急かしているのは莉奈、着替えているのは光子だ。二人は、クリスマスデート用に粧し込むための服を買いに来ていた。
「しかし、小説家って言うのは心が読めるのかな?イルミネーションさ、見に行きたかったんでしょ?」
「ああ、うん。急に言われた時は、少しビックリしたかな。」
手持ち無沙汰な莉奈の問い掛けに、光子は着替えながら応えた。
「いいなあ。息ぴったりって感じで、互いに言い出しにくいことだと思うんだけど。」
「まあ私からは無理だよね。」
「ああそっか。そりゃそうだね。…じゃあ尚更、良い服選ばないとね。」
「ふふっ、確かに、伝わっちゃうかも、しれないものね。」
そんなやり取りをしていると、カーテンレールの音が鳴った。
「どう?大丈夫そう?」
試着を終えた光子が莉奈の前に出て問いかけると、彼女は静かに全身を見回した。
「うん。悪くないと思うよ。」
「本当に?何か変なとこないかな?」
「無いよ。そもそも変なとこって、何?」
「いや、似合ってないと違和感とかあるじゃない。」
「あー、そうだね。安心して、全然そんなとこ無い。本当に。」
莉奈は素直に答えた。妙な可愛さを振り撒かず。落ち着いた印象を与える服装、それは確かに彼女と合っていた。
「そう、それじゃあこれにしようかな。」
光子はそう言って、またカーテンを閉じた。
訪れた静寂の中で、莉奈はお洒落な照明を見上げ物思いにふけっていた。先の発言もあってだろうか、これまでのことを思い返すと、一緒に服を買うなどという、女の子同士なら当たり前にする事さえ、それほどしていないことに気づく。戦うことに忙しかったのだ。それがこうして変化していくこと、そこに時の力を感じながら、莉奈は大きく伸びをした。
「えっ?まだなんだ。意外。」
ブティックを出て、二人はカフェで一休みしていた。当然話題は光子と春斗のことだ。
「まあねえ…だってそればかりはタイミングじゃない。」
それもまた何の偶然だろうか、キスをしたかどうかという、春斗と健吾もしていた話題だった。
「みっちはそういうの慎重そうだもんなー。キスなんて、ばっ!とやっちゃえばいいのよ。知らないけど。」
「へぇ、じゃあ莉奈は割と簡単にキスするんだ。意外と軽いんだねぇ。」
「なぁっ!…それはアレよ。揚げ足取り!そもそも別問題でしょ!」
「別問題ねえ…。」
光子はそう言って、ため息をつく。莉奈はぷくっと頬を膨らませながらナッツの袋を開けていた。
光子が溜息をつくのも仕方がない事だった。莉奈には豊富な恋愛遍歴の割に、どれも莉奈側の問題で長続きしていないという事実があったのだ。莉奈自身ガードが固い癖に、人には軽い気持ちでキスしちゃえなどと言う態度は、光子だって癪だった。
ただ、今の光子には、答えを知りたい問題もあった。そして、その相談相手が莉奈しか居ないのも事実だった。
暫く間を取って、光子は莉奈に問う。
「莉奈はさ、キスする時ってどんな感じだと思う?」
「うーん、そうねぇ。ムードが良いとかなんじゃない?場所とか、そういうのが。」
「ああ、そうね…。じゃあもっと直接聞くけどさ。キスする前に、キスしよう?って…言う?」
莉奈は難しい顔をした。言う、ということもあるのかもしれないが、概ね雰囲気だろうと考えていたからだ。
「言うのはちょっと…恥ずかしいかな。なんていうか、ムードができて、目を閉じて、察してもら…あっ。」
莉奈はそう言いかけて光子たちの抱えている問題に気づいた。光子はその様子に安心し、どこか手持ち無沙汰なのか、頬杖をつきながらミルクの混ざり切ったコーヒーのマドラーを、くるくると回し続けていた。その先の答えを待っていたのだ。
暫くは、静かだった。
「なかなか勇気がいるよね。」
莉奈は顎に手をやりながら言葉を選び答えた。
「でしょ。」
「まあでも!うちはそろそろしてもいいと思うなぁ、キス。」
「うーん。」
今度の莉奈は、真剣で親身だ。そう感じた光子は頬杖を崩して頭を掻いた。
「多分さ、クリスマスのデートで向こうも決めるつもりだよ。うん。きっとそう。」
「あー。」
「だからさ、そこで勝負しなよ。観覧車にでも押し込んでキスしようって言うの。そこまですれば、流石になんとかなるでしょ。」
「そうだね…。それは、そうかも。」
気乗りはしないが、光子は莉奈の提案を悪くないものだと感じた。
「じゃあ、頑張ってみようかな。」
そう言った光子の目には、いつも劇団で見てきた舞台へあがる時の光があった。莉奈は親友の恋が一層進展する確信を得て表情を綻ばせた。
「にしたってクリスマスデートかぁ。羨ましい限り!」
「そう?莉奈こそそういう誘い沢山ありそうだけど。」
「あるにはあるけど。…見栄とかでするんじゃなくて本当に好きな人と、ねぇ?」
光子は少し困った顔をした。正直なところ、莉奈が人を好きになったという話を聞いたことがない。
「難しい話ね。」
微笑んで返す光子。
「あーあ、もうやる事ないし、みっちのクリスマスデート見に行っていい?」
「冗談、動物園の動物じゃないんだよ。」
同じ様なやり取りが、どこかで起きていた気もする。その後、二人は他愛のない雑談へと戻っていった。
待ちに待ったクリスマスの日、遊園地には甲高くてあどけない声が響き、家族孝行な父親と思しき男性が、疲労の色が隠しきれない笑みを湛えながら子供に手を引かれていった。遠くでジェットコースターが轟音を上げると、後を追うように絶叫が届き、暫しの静けさが訪れた。すると、植え込みに隠されたスピーカーから流れる愉快な音楽に気付く。そんな普段の街中とは異なる幸せな喧騒の中、光子と春斗はフードコートの一角に座り、四人でテーブルを囲っていた。
おかしい話だ。昼にはまだ早い時間というのもそうだが、二人きりのデートだった筈が、どうしてか、人数は四人になっていた。
「で?どうしてお二人はここに居るんですか?」
光子は怒りを隠しきらず言い放った。向かい合う席に居るべき春斗は居らず。莉奈と並び健吾が座っている。春斗はその隣で苦笑いを浮かべていた。
「あ、いや…。えと、その…。ごめん!」
莉奈は素直に謝った。深く頭を下げており、表情が見えないのは寧ろどうかとも思ったが、光子は取り敢えず健吾に目を移した。
「それで、健吾さんは?」
「僕は春斗を送って直ぐに帰ろうと思ってたんだよ?でも、まあ合流出来るまでは、って遠くで見てたんだ。そしたらサングラスにマスクの怪しい奴が二人を見てたから…何かあったらと思って仕方なく、ね。」
健吾は言い淀むことなく答えた。
「ああ、そうですか。だって、愛咲さん?」
「うっ、距離感…。」
光子は健吾の説明に納得し、莉奈を責めた。しかし、春斗は冷静だった。
「まあまあ、…ところで健吾。」
「何だい?」
「よく僕達を見つけられたねえ。その上結構混み合ってたゲート前で怪しい人物に気づくなんて凄いじゃないか。それに、当日入場は時間もかかっただろう。」
静かに健吾を詰める春斗。
「それは…。」
健吾は苦い表情で言葉を探すが、どこか諦めがついていたようだった。実際、彼が莉奈に気づいたのは入場後の事だ。
「当日入場の列、何時間待ちだったかなんて俺には分からないけど。一人だけ助かろうなんてのは好きじゃないな。」
春斗が足した一言に、莉奈は健吾を睨んだ。健吾が軽く謝って済ませようとしたことを、春斗は見透かしていたようだ。
「…ごめんなさい!僕も二人のデートに興味津々でした!」
健吾は観念した様子で謝罪した。ただ、声を張りすぎたのだろうか、周りの目が集まってしまった。
「ちょ、ちょっと声が大きいです!健吾さん!」
光子は恥ずかしくなり、慌てて健吾を落ち着けた。こうすることで叱責をかいくぐるのは、健吾が持つ処世術の一つなのだが、光子はその思惑通り、彼を強く責めなかった。
「で、これからどうする?」
暫く間を取って、春斗が重要な事に言及した。これ以上、二人の出歯亀に時間を割くのは明らかに無駄だった。
「そりゃあ勿論帰るよ。」
健吾は即答した。向かい合った二人は当然だと言わんばかりの反応だ。しかし、続く莉奈は相当肝が据わっているのか、或いは単に素直すぎるのか、思いもよらない事を言い出した。
「えっと…その…、私はあまり帰りたくないと言いますか…。」
「えっ?」
光子は目を見開いた。
「いや!邪魔する訳でもないし!勿論覗くつもりなんてもう無いんだけど!えっと…。」
莉奈は反論されぬ様に早口で語り、言葉に詰まりながらも、観念したように言葉を続けた。
「そもそも今から帰ると…私めっちゃ暇なんだよね。」
「ぶっ、あははっ!」
春斗は笑ってしまった。彼は何も気にしていない様だ。
「いやいや、それでも今日はクリスマスですよ?一人で遊園地とか相当きついし帰ってください。」
光子は笑う春斗を横目に莉奈を睨む。
「ああ、えっとですね。まあそこは変装グッズがありますし、折角なんで私もイルミネーションを見たいと言いますか、このまま何もせずに帰るというのも、勿体ないなあと。」
無理を押す莉奈に、春斗の笑いは増していくが、光子は必死だった。無理もない。彼女にとって、今日は一生に一度かもしれない大切な日なのだから。
「そんな怪しい格好でイルミネーションの近くにいたら悪目立ちするでしょ!他の人たちにも迷惑だから帰ってください。そもそも覗きなんかしなければよかった話じゃない。」
正論だった。しかし、莉奈の天然ボケもあってか、最早漫才が如き様相を呈し始めたそれに、健吾も笑いだしていた。
「まあまあ、みつこ。取り敢えず落ち着いて…。」
春斗は光子を宥めた。彼としてはこの状況が面白くもあったのだが、無論、今が二人のデートであることも理解していた。押してばかりでは話が進まないと感じた春斗は、話を巻き戻すことにした。
「結局さ、この後どうする?」
「それはまず、二人に帰ってもらって…。」
すかさず応える光子。
「僕もそうするつもりだよ。」
健吾もそれに応えた。
「いや、折角だからさ一緒に回らないか?」
「えっ。」
春斗の発言に、光子は驚いた。
「まあ、確かに二人はこそこそと後をつけて来て、正直心象も悪いけどさ。なんて言うか…恥ずかしい話。俺は今までちょっと緊張してたんだよね。」
春斗は赤裸々に心情を吐露した。光子もそうだった。
「それにまあ、此処を選んだのも評判が良いからで、社会人の健吾はまだしも、あいさきさんは金銭的に損をするのは事実でしょ。かなりの譲歩だけど。」
光子は表情を曇らせながらも静かに彼の弁を聞いた。
「だからさ、俺とみつこさん、健吾とあいさきさんのダブルデート風にしてしまえばいいんだよ。そうすれば、本当に帰るかもわからないお二人さんにこそこそ見られているか不安に思う事も無いし、緊張もいくらかほぐれる。それで、いいんじゃないかな。」
「うーん。」
光子は不満そうだが、そのアイデアを直ぐには否定はしなかった。
すると今度は健吾が口を開く。
「いやいや、ダブルデートって…。愛咲さんが嫌がるだろ!」
彼は動揺していた。モテなかった訳では無いが、文学に浸った青春にデートの三文字など無い。突然デートすることになり、その相手が美人の莉奈ともなると、いろいろと意識してしまっていた。
「私はいいですよ~。ってことでみっち次第かな。」
軽く承諾した莉奈。健吾の手は汗が湧き出る。
「えっ?うーん…。」
光子は、正直なところまだ二人に帰って欲しいとも思っていた。だが刹那、春斗が緊張していたことと、自身もそうであることが頭を過ぎる。それに春斗の言う通り、本当に二人が帰るかは分からない。こうなってしまった以上、春斗のアイデアは悪いものじゃなかった。
「まあ、こうなったら仕方ないか。」
光子がそう応えると、莉奈の表情には喜びが滲み出た。なんと厚かましいことだろう。光子は深くため息をつき、健吾が身なりを確認しながら慌てる様子でひと笑いして、怒りの残渣を処分しながら四人でご飯を食べるよう導くのだった。
昼下がり、連日厳しさを増していく寒さに抵抗する有難い日差しが注ぐ中、急遽四人となったデートは、思いの外盛り上がっていた。光子らにはぎこちなかった午前よりも砕けた言葉が飛び交い、偶に生じる間には、残りの二人が適度な合いの手を入れることで、テンポよく楽しい時間が続いていたのだ。賑やかしく、そしてとことん穏やかな時間が、そこには流れていた。
しかし、その平穏は次に鳴り響いた場内アナウンスによって唐突に終わりを迎える事となる。
「場内にいらっしゃいますお客様に、お知らせ致します。只今より、大観覧車前にて夜の特別観覧整理券の配布を行います。搭乗を希望される方は大観覧車前までおこし頂く様、よろしくお願い致します。」
青天の霹靂と言える事態に四人は驚いた。下調べ不足だ。四人は不運にも観覧車からは遠くにいた。同じような境遇だろうか、辺りにはカップルが足早に動くのも見えた。
目が見えない春斗の世界にも足音だけが無慈悲に響いていた。それは不安を煽り立てるのに充分なものだった。彼は他の人よりも歩みが遅い。限られた数の整理券を入手するのは困難であると言えた。
その様子もあってか、暫く硬直し、見合った四人を包むのは息苦しい緊張感だった。負の連鎖と言えようか、デートを失敗したくない気持ちが強い二人には、見立ての甘かった自身への苛立ちが募った。西の空にどんよりした雲が広がり始め、焦燥が駆り立てられる。けれども次の瞬間、そこに響いたのはそれと対照的な余裕のある声だった。
「有難い事だな。」
健吾の声だ。
「僕らが名誉挽回する機会じゃないか。分かるよね?」
そう言って健吾は莉奈の方を向いた。
「そうですね。そしたら善は急がないとです。」
「ああ、そうか二人が。えっと、ありがとう。」
事態を理解して春斗は礼を述べた。光子も続いた。
「いえいえ、…みっち、デートの邪魔してごめんね。列に並べたら連絡するから。」
「それじゃあ行きましょうか。」
健吾がそう言うと莉奈は首肯し走り出した。それは周囲のカップルには出せなさそうな人目をはばからないスピードだった。
光慌ててそれを追う莉奈を見送りながら、光子は二人が代わりに並んでくれることに感謝し小さく礼をした。
辿り着いた観覧車前、既に並ぶ人の列は多かった。だが恥を忍んで全力疾走した甲斐もあり、健吾と莉奈はそこに加わることが出来ていた。長い待ち時間、当然何も話さないということはなかった。
「ところでさ、健吾さんは二人のことどう思ってるの?」
莉奈は首を傾げ、健吾の方を覗き込むようにして聞いた。
「そりゃあ、応援してるよ。こんな風になったけど、尾行しようとしたのだって本当に心配してのことさ。まあ、今さら建前にしか聞こえないだろうけどね。」
「そうですね。」
「それになんて言うか、お似合いの二人だと思う。」
「へえー。初対面の時は間違えたのに?」
「あっ…、あの時はすみませんでした…。」
「ふふっ、まあ私には失礼でもなんでもないですよ。」
「その、そうかもですけど…。だからと言って本人に謝るのも失礼でしょ?」
健吾は難しい顔でそう言って、答えを待たずに言葉を続ける。
「因みにあの後、僕実は結構凹んだし、悩んだんですよ?外見で人を判断して、まだまだだったなあって。」
「ふふっ。健吾さんは難しいことを考えるんですね。」
「そうですか?」
「そうです。」
奈がそう答えると、一度会話が途切れた。ふと辺りに目をやると、幸せいっぱいな表情の子供が駆けていく。クリスマスの街は浮き足立っていて、雲が太陽を隠し寒さが増しても変わらぬ温かさが感じられた。
「それで、愛咲さんはどうなんです?二人のこと。」
「私もお似合いだと思ってますよ。応援もしてます。みっちには絶対に幸せになって欲しいんです、…私より、先に。」
「ん?」
笑みを称えながらも切なさを感じさせた莉奈に、戸惑う健吾。少しの沈黙があった後、意を決して彼は問いかけた。
「その、何か思うところでもあるんですか?二人に。」
「…二人、と言うよりはみっちかな。私達の昔話は覚えてます?」「ええ、まあ時間も経ちましたから大まかにですけど…。」
「中学生の時、私が学年でも人気のある男子に告白された話があったとおもうんですけど。」
「言われれば、なんとなくそんな気はします。」
「あの時、あの子が私に凄いって言ってから、私、ずっとひっかかってるんです。だって私は何一つ努力したわけじゃないし、告白はその成果でもない。それなのにあんなにも努力できて実力もあるみっちが私を凄いって言ったことが。みっちがいじめにあってたことまで知ったら、尚更…。」
そう言う莉奈の口元は苦笑いをしていたが、目には憂いが滲んでいた。彼女が言わんとすることは、充分健吾に伝わっていた。
「残念ですけど。僕には往々にしてあることとしか言えません。才能や実力については僕も悩んだつもりではいるんですけど。」
「ですよね。」
莉奈は申し訳なさそうに笑って続けた。
「まあ、私は実力が何か、みたいな所で拗らせてるんです。だから彼女には見せつけて欲しいって思ってるんですよ。努力する人が一番だってことを。」
健吾は、力強く頷いた。健吾自身も才能を目の当たりにして来た人間だ、二人はそういう意味でよく似ていた。
「ふふっ。」
「なんで笑うんですか。」
「莉奈さんは、難しいことを考えるんですね。」
健吾の言葉に、莉奈も笑った。
「そうです?」
「そうです。」
会話が一段落つくと、二人は、長い列の中ゆっくりと歩みを進めていた。
「それじゃ、これ整理券な。僕達はイルミネーションを適当に楽しんで帰るから…後は頑張れよ。」
「ん、ありがとな。」
春斗は健吾から整理券を受け取ると、照れくさそうにはにかんだ。これから先のことを想像してのことだろうか、これまで見たことのない、幸せそうな顔だった。健吾がそんな春斗のことを穏やかな気持ちで眺めていると、光子と莉奈がお手洗いから戻ってきた。
「ごめん、ちょっと混んでた。待ったよね?」
「別に。大丈夫だよ。」
春斗と光子は軽いやり取りを交わすと、光子の隣に居た莉奈が肩を叩く。
「じゃ、私達は退散しますので!…楽しんでね。」
そう言うと莉奈は健吾に目配せをし、地上でイルミネーションを観るのに相応しそうな場所を探し消えていった。
春斗と光子が整理券の指定する時間に観覧車の前へ着くと、そこには長い搭乗待ちの列があった。
「凄い人の量です…。大丈夫ですか?」
春斗の手を引きながら、光子は言った。
「うん、大丈夫。周りの様子はなんとなく分かるよ。他人の期待さえも感じるくらいにはね。」
「そうなんですか?」
「これは本当になんとなくだけど、声色とかそういうのでね。近いと呼吸とか、手を繋いでたら拍動とかね。」
「へぇーっ、って、…あっ!」
春斗に言われて慌てて手を離す光子。春斗はその意図を理解し、直ぐに口元を綻ばせながら手をねだる。
「そんなに無粋じゃないですよ。それと、この雑踏では…困ります。」
「あ、えと、ごめんなさい…。」
再び手を繋ぎ直した二人。光子は照れ笑いしながら列の中をエスコートした。
春斗は分かっていた。目が見えない代わりに、いやでも世界を知ろうとする五感が彼に伝えていた。期待、高揚、緊張、色めき立った感情が、入ってきて、心に出来たのは暗い影。その全てを真に分かち合うならば、自らもこの眼で見なければならないのだという焦燥。
だから、彼は願った。いつぶりになるか、サンタクロースに。
「もう一度光が欲しい。」
中途失明をした春斗にとって、それは最もシンプルな望みだった。
彼がそんなことを思いながらぼんやりしていると、頬へ雪が触れて、彼女の昂った声が届いた。彼にとってホワイトクリスマスは、光ある者と自分とのコントラストを強めるだけのことなのに、それは無邪気なものだった。
この時、春斗は自身の願いが、やがて眼前に聳える大観覧車が如き、大きな運命の環を激しく廻らせることになると、知る由もなかった。
「足、大丈夫?」
「ん、…っと、乗れたかな。」
「うん。」
二人の搭乗を確認し、係員は扉を閉めた。
春斗を座らせると、光子はその向かい側に座って、ほっと一息つく。長い一日だった。徐々に空へと昇っていくゴンドラ、他愛のない会話を続けていると彼女の声色、息遣いが変わる瞬間を春斗は捉えることとなった。絶景、そう呼ぶに相応しい光景が光子の目に入ったのだ。眼下には、コマーシャル通りの美しいイルミネーションが輝き、加えて素晴らしかったのは雪だ。漆黒の闇に落ちる雪には色とりどりの輝きが反射して、二人の乗るゴンドラはまるで銀河の中を旅するように頂きへと向かっていた。
彼女は気を遣っているのか、その景色について言及しなかった。春斗はそれに勘づいて、どこか寂しさを感じてしまう。、ただ、そればかりに気を取られている場合でもない。
元より覚悟していたことであり、ここで決めたいことがあった。そう、キス、したかった。
「…メリークリスマス。」
いつの間にかしんとしてしまったゴンドラの中、光子が静かに言う。
「メリークリスマス。」
春斗も静かに応じた。
「そろそろ頂上だね。」
春斗は光子の拍動が、一層変化するのを感じていた。
「…えっと、ありがとうございます。観覧車もイルミネーションも…その。」
「いいですよ。言い出したのは自分です。それに喜んでくれてるから、僕も嬉しいですから。」
「本当に、ありがとうございます。…そ!それに重ねてお願いがあるんですけどっ。」
頂上まで後少し、光子は早口で言った。
「待って。」
春斗は言葉の続きを制した。
「僕からのお願いが先、いや、きっと同じだからこそ、僕から言わせて欲しいんだ。」
「…はい。」
真剣な表情の春斗に光子は向き合った。
「頂上に着いたら…キスしよう。」
春斗はゆっくりとそう言った。
まるで時間さえ彼等を待つように、頂上は未だ来ないでくれていた。春斗は人差し指を突き出して、光子はその意味を悟り、自らの口元へ導く。唇の感触が指先に触れると、流石の春斗も体温が上がり、真っ暗闇の世界には自らの心拍音がうるさく響き出した。
そして、心が決まったとき、丁度彼女の指先が唇から少し離れた。
「頂上だよ。」
光子の声が聞こえて、春斗はゆっくりと距離をはかりながら顔を近づけていく。そして、二人は丁寧に唇を重ねた。
街は今宵、聖夜。どれほどの恋人達が、当たり前の様にキスを交わしているだろうか、彼等にとってそれは悲願、長い時を要するものだった。
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