光の中に消えた~Left into lights~⑨

穏やかな昼下がりの窓辺、カーテンが風を受けてゆらゆらとたなびいている。朝の冷え込みは去った様子で、外気温は空気の入れ替えに相応しいものとなっていた。駅近くの利便性重視な物件とは言え、空を渡ってきた空気は心地よい。かちゃかちゃと食器を洗い、片付ける音、それだけが小気味よいリズムで部屋に響いていた。

「ふぅ。」

水の流れる音が途切れ、タオルで手を拭く健吾だ。その目は三人の若者が集うリビングルームをちらりと見やった。その中で無二の友人が楽しそうに歓談しているのを確認すると、表情を崩した後、人数分のジュースを乗せたお盆を持って、そちらへと向かった。

「ああ、本当に何から何まで…。ありがとうございます。」

光子は戻ってきた健吾に気づいて礼を述べ、お盆の上、健吾の体から遠いグラスを二つ取って、彼から遠い方の席に置いた。

「ありがとうございます。」

そのうち一つに座っていた女の子、莉奈が礼を述べると、健吾はこれに少し頭を下げて応えた。そして、残りのジュースを光子と盲目の親友、春斗に配ると、健吾はお盆を片付けるため、一度キッチンへと退いた。

「坂口さん、結構気の回る方なんですね。」

「うん。いつも助かってるよ。」

光子の言葉に春斗が答えた。

「お二人も古く頃からの付き合いなんですか?」

「いや、…どうなんだろうね。まあ、長い付き合いにはなるけど。」

「へえ?」

「ああ、ごめんなさい。なんて言うのかな…。」

春斗の曖昧な言葉に光子が少々腑に落ちない様子にしていると、エプロンを外した健吾がリビングから戻ってきた。

「下柳さん達ほどでは無い、という事ですよ。おそらくね。」

そう言って、健吾は席に着いた。

「ああ、成程。」

光子は納得したようだ。

「でも今やほぼ一緒に住んでるんですよね。一体どんな間柄なんですか?」

今度は莉奈が問いかけた。

「それを話すのが、午後からの内容になるってとこかな。下柳さんも気になってる事あるんでしょ?」

「ええ…。」

首肯し春斗に目をやる光子。

「私も気になる事ありますよ!坂口さんがなんでスーツなのか?とか。」

余裕がでてきたのか、莉奈は健吾の含みがある言葉に食い入って冗談を返した。

「ああ!これね。ふふっ…これでも僕今日仕事中になるんだよ。確かに僕のメインは春斗に関する仕事だけど。別件で出社するのさ、この後ね。」

健吾がそう話すと、春斗が続く。

「その辺を含めた話もこれからするよ。勿論、みつこさんが一番気になってる話もね。」

そして、一つ笑みを入れた。

「…すみません。辛いこと、思い出させるかもしれないのに。」

「気にしないでください。第一、みつこさんの話だって、そういう内容だったでしょ。」

春斗はそう言ってまた口角を上げ、白い歯をのぞかせた。光子が慮るのも無理はない。彼は中途失明者。気になる事とは、他ならずそうなった理由だった。見えると見えないの境で起きたこと、鷹村千世の話を思えば、それが苛烈な運命によるものという事は想像に難くなかった。だが、光子はどうしても知っておきたかった。二人の間にある、気軽に踏み込めないこの領域は、関係を深めていくにあたり、互いに望まぬ遠慮を産んでいたからだ。つまり、それを聞くことは二人の関係を前に進めるためにも必要なことだといえた。

「それじゃあ話そうかな。みつこさんほど上手くは出来ないかもしれないけど。僕と、健吾のことを。」

春斗はそう言って、髪を一度、かきあげた。


世の中は不公平なものだ。才能、というものは偏って与えられる。或いは健康、健常さえもそうだろう。その偏りのせいか、春斗の小学校時代は特筆すべきことに乏しかった。だが、それは彼の小学校生活が順風満帆で無かったからという訳では決してない。寧ろ、その真逆だった。

春斗は例えるならば円の様な人間だった。それも他者より少し大きいくらいの円だ。彼はどこを取っても優れていて欠けがなく、その端整なルックスも相まってクラスの人気者だった。誰もが彼のことを羨んでいたのだ。そんな彼の本当は退屈な性質を見抜き、否定的感じていたのは、おそらく健吾だけだっただろう。

そうはいっても小学校時代、春斗と健吾は同じクラスになることさえない間柄だった。

同じクラスにならずとも、健吾は春斗のことを認識していた。人気者だったこともあるが、彼にとって鼻につくことがあったのだ。

健吾は幼い頃から小説家になる夢を持っていた。それ故に学業だけでなく、作文コンクール関係の宿題に力を入れていた。彼は努力の成果として何度も表彰を受けていたが、彼一人で賞状を受け取るといった機会は六年間で一度もなかった。そこに春斗が居たからだ。

なんでも器用にこなす春斗は、貰う賞のレベルこそ低かれど、毎回作文コンクールの表彰で健吾に並び立った。しばしばその場で春斗は健吾に微笑みかけていたが、健吾はその度つんとしていた。彼は春斗のそういう所が、堪らなく苦手だった。そして、その本質が嫌いだった。周りに囃されて、流されて、ただヘラヘラと笑って生きている。自分と違ってろくな志しもないくせに、それでも認められている。否、認められてしまって、何に気付くでもなくただ生きている。健吾は春斗のことを本当につまらない、中身のない人間だと感じていた。

何度か新しい春が来て、二人は同じ中学校に進学した。この時、健吾は私立中学校に進みたかった様だが、金銭的な理由から親がこれを許さなかったため、反抗期へと突入していた。彼は髪の毛の左半分を金色に染めて、その意志を示していたのだが、そのためか畏怖され、クラスでは孤立していた。

教師も彼には難儀した。普通の不良であれば、学業成績が悪く、問題行動も起こすため、批難しやすいのだが、彼はそうではなかった。登校拒否がちではあったが、出席量、学業成績には一切問題がなかったのだ。更には、一際弁が立つ人間であったため、杓子定規な教師達には、為す術がなかった。

そんな生活を数ヶ月で構築した健吾に対して、諦めず話しかける男が居た。春斗だ。

「なあ、今日も一緒に昼飯食べようぜ。」

最初はこれまで通り、つんと跳ね除けていたのだが、しばらくすると彼は強引に机を合わせ、許可もしてないのに弁当を広げ、食べ始めるようになっていた。健吾は何故こうも自分を、解釈に困ったが、押し返すほどの熱量を持ってはいなかった。一応のところ、依然として人気者である春斗のことだから、おそらくは点取り、或いは間違った義務感だろうと見立て軽んじて無視していた。

事実、この行為は彼の人気を一層強いものにした。そんな生活に、少しの変化が生まれたのは冬、バレンタインデーだ。

「健吾、昼飯食おうぜ。」

いつも通り、机を強引に合わせる春斗。周りの、特に女子達の視線が痛かった。この日ばかりはと観念し健吾は珍しく応えた。

「勝手に決めるなよ。」

健吾は一言告げて、席を立った。

「…そっか、じゃあ、また明日な。」

健吾が背中越しに聞いた春斗の声は、嬉しそうだった。

この時健吾は、一人でご飯を食べる場所を探しながらほんの少し反省したが、それは結局ほんの少しの変化で終わる。翌日はまた同じ風景に戻り、いつも通り春斗を無視したのだった。

三月になると、健吾は学校を休んだ。

一方の春斗は、羨ましい限りの話で、バレンタインデーの返答に追われて過ごすのだった。


春、桜の季節。

「うわっ!なんだよ、またアイツと同じクラスかよ。」

「ねえねえ、蒼野くんって何組?」

「げぇっ!担任また立川ぁ!?」

騒々しい生徒達が下駄箱の前にたむろして、学校の風物詩を作り上げていた。その中で不満を明らかにしながらクラスを確認する男子生徒が居た。健吾だ。彼はこのほとんど意味のない半日登校が凄まじく嫌いだった。休んでしまえば自作小説が何行進むかと何度も考えたが、明日からの新学期にクラスを間違え、恥をかくのは流石に参るため、仕方なく登校していた。

「っし!」

そんな健吾から喜びの声が漏れた。厄介なやつ、春斗とは別々のクラスになったのだ。しかし、その喜びをかみしめる間もなくして素早く彼は身を隠した。春斗と女子生徒の声がしたからだ。

「あっ、ねえ春斗!今年一緒のクラスだよ!」

「本当だ。ふふっ、嬉しいね。」

「それじゃ、新クラス向かおうか。」

「うん。」

暫くの間クラス分け表を確認して、春斗が手を差し出すと、女子生徒の方は恥ずかしいのか一度優しく叩いてから、ちょこんと袖を握り、新しいクラスへと去っていった。そう、バレンタインデー、そしてホワイトデーを経て、春斗には彼女が出来ていた。

彼女の名は菱川麗華と言った。学年でも一、二を争う高嶺の花だ。実は彼女、春斗にチョコをあげてはいない。噂では、その事が逆に春斗を刺激したのではないかとも言われていた。その真意はどうであったとしても、二人は周りから見れば羨ましい美男美女カップルだった。彼らとそれを羨む生徒を横目に見ながら、健吾もまた邪魔者のいないクラスへと向かっていた。

ともかくも、新学年のはじまりは春斗、健吾、両者にとって順風満帆。素晴らしいものだといえた。


二年目の中学校生活も、暫くのうちは穏やかだった。春斗も健吾も、この時が嵐の前の静けさだったのかもしれないと、解釈に悩むことになるとは、一切考えてはいなかった。

きっと、それぞれが思うままに、青春を謳歌していたのだろう。

春斗はサッカー部のレギュラーとして汗を流し、時に彼女とデートする幸せの時を過ごし、一方の健吾はインターネットを駆使して知り合った大人達との文芸同人制作に情熱を傾ける、一風変わってはいるが充実の時を過ごしていた。


夏休みが終わり、秋桜が顔を見せ始めた頃だろうか、彼らの通う中学校にも体育祭の季節がやってきた。校長が変わったせいだろうか、今年から追加されたプログラムに、春斗のクラスでは文句が飛び交っていた。

「先生ぇ。今どき組体操は有り得ないと思いまーす。」

「そうですよ。先生、インターネット世論をご存知ないんですかぁ?」

「事故ったらどーすんだよ、なあ?先生が責任取るんですよね?勿論。」

思い思いに抗議の言葉を、半ば罵声にして先生に浴びせる生徒達。「静かにしなさい!これは校長先生が決めたことです。私だって賛成はしてませんよ。…でも、やるしかないんです。やるとなったら連帯感を高めないと、それこそ事故になります。」

頭髪の薄い先生が大声でこれを制そうとする。

「なんだよハゲ、校長に負けてんなよ。」

「ちょっと、やめなよ。ふふっ。」

「円形脱毛おかわり一丁入りまーす。だはははは。」

必死な様子が面白かったのか、生徒達は追い討ちをかけるように罵言を連ねた。

「うるさぁい!…兎に角、この五段矢倉、これの人員配置を決めますよ、それではまず一番上から決めますからね!」

先生はそう言うと、力強い筆圧で五段矢倉の一段目から頂上までを黒板に板書した。

「はい!やりたい人は手を上げる!それ以外は静かにする!あ、そうだ!今から喋った奴はやりたい奴な!」

刹那で静かになる教室。

「いるわけねえよな。」

「一番あぶねえじゃん。」

ウィスパーボイスが二言ほど聞こえた。案の定誰も名乗り出ず暫く時間が過ぎた。流石にこれ以上ホームルームが長引くと、各活動に支障が出て自身が注意を受けてしまう。そう思った担任が強行策に出ようとした。その時だった。

「俺がやります。」

手を挙げたのは春斗だった。途端にざわつく教室。

「やめなよ!…絶対、危ないよ。」

麗華が思わず立ち上がって言った。しかし、先生はそんな彼女を無視して、黙々と春斗の名前を板書した。彼の立候補がきっかけとなったのか、残りの段は思いの外あっさりと決まっていった。放課後、部活に向かう途中、春斗は麗華から引き止められる。

「ねえ、今からでも遅くないから。矢倉の一番上は代わって貰おうよ。」

「ああ…いや、その。」

「やりたいの?私は望んでないよ?」

「まあ、それは俺の立候補だし。」

春斗の応えに、麗華をついた。

「なんで…。」

「多分、わからないと思う。自分でも上手く整理できてるわけじゃないからさ。」

「どういうこと?」

春斗はその言葉に、やり場なく目を動かし、二言、三言弁明した後、サッカー部の練習へと去っていった。他の生徒達もそれぞれの場所へと散ったのだろう。麗華とヒグラシの鳴く声だけが、寂しい廊下に残されていた。


各クラス、矢倉の練習が始まって数週間が経った。この頃になると、はぐれ者の健吾にも、春斗が矢倉の頂点に立つことは知れ渡っていた。既に十分幸せに見え、危険を冒す必要がない春斗の行動に、健吾は少しだけ違和感を覚えたが、すぐさま自分には関係の無いことだなと我に返り、ただ目立ちたいだけと、いい加減に解釈をつけ、机に顔を伏せた。

少しだけ窓の外に目を遣ると雨雲が見えた。

「今日、アイツのクラス体育あったよな…。」

健吾はそう呟き、刹那彼を案じた心に柄でもないなと一息ついて、教師の咎める声を無視し、また顔を伏せた。雷が低い音で轟いて、少し不気味な三時間目だった。


「─と。…る…。はる…。ぁると!春斗!」

遠くから聞こえるどこか懐かしい呼び声、小さい頃に風邪を引いた時以来だろうか、自分をこんなにも心配している声を聞いたのは、やがて意識が鮮明になると、確かめるように春斗は応えた。

「母…さん…?」

「ああ、そうだよ。良かった。」

母の声がはっきり聞こえると一先ず春斗は安心した。だが暫くして、辻褄の合わない状況を理解し、問いかける。

「なんで母さんが?ここは…どこなんだ?」

すすり泣き、答えに詰まる母を空気で感じる春斗。しかし、状況が分からないでは困る。もう一度、春斗は問いかけようとした。

「母さん?俺は…っ!」

急に全身が痛んだ。よく考えると身体に力も入っていない。包帯でも巻かれているのだろうか、視界も真っ暗だ。何故、今まで感じなかったのだろうか、この時、母に問いかけようとした言葉を、春斗は最後まで言葉にしきることができなかった。強く重たい痛みが全身を襲う最中、頭の隅で何となく、自分に起こったことを思い出しながらも、その意識は遠のいていった。

「春斗、目が覚めて良かった…。声も聞けて…とりあえず、今は休みなさい。」

答えに詰まっていた母は、春斗の意識がまた途切れた様子を見て、そう零した。傍らで様子を見ていた医者はそれに応えるように口を開いた。

「驚きました。息子さん…奇跡ですよ。生きているだけでもね。それどころか脊髄はほぼ無傷です。脳も、ところどころ激しく打ち付けたダメージはありますが後遺症にはなりません。」

「はい…。」

春斗の母は俯いた。春斗が生きているのは本当に奇跡だったのだが、その表情は暗かった。ただ一つ、春斗には明らかに失ったものがあったのだ。

「ただ、目だけはどうしようもないです。これも神経は無事なんですが、なにせ眼球が物理的に破壊されている…。」

「分かっています。分かって…。」

春斗の母は大粒の涙を流した。だが、誰かが人を想ってどれほど泣いても、強く祈っても、既に起きてしまったことは変えられない。彼がこの時失ったのは、「光」。そう、こうして春斗は視力を失ったのだ。そして同時に、彼の順風満帆だった中学校生活に言葉通りの分厚い幕が降りたのだった。


「組体操中止のお知らせ」、数日前に貼りだされた薄っぺらい紙切れの前には、もう誰も集っていなかった。それが張り出されるきっかけとなったクラスを横切ると、まだまだ空席が目立つ。その中の一つが目に入れば、彼には嫌でも思い出す顔があった。

「春斗、まだ出てこられないのか…。」

独り言一つ零して、健吾はかぶりを振った。そして、おもむろにメモ帳とペンを取り出し、走らせる。

「渦中の教室は、騒ぎ立てる大衆とは裏腹に、重たい沈黙が支配していた。まるでそれは台風の目。穏やかでいつも通りの青空が見える。異様な空間だった。っと。」

健吾はぶつぶつと言いながら、メモにそう書き落とした。その後、健吾はすれ違う何人かの生徒に訝しげな表情で見られながらも、何度かメモの文を小声で復唱した。彼は大きな事件が起きたものだと、メモをしまい伸びをしてふと窓の外を見ると、その目は普段と変わらない車の往来を映していた。

「世界は広いな。」

健吾はため息をついて、教室に戻った。


数時間後、健吾は離れにある特別指導室で過ごすことになっていた。彼は、英語なら良いだろうと外部から来た外国人講師に向けて組体操事件の事を話したのだ。時代錯誤な組体操での大事故は、世間を騒がせかけており、それ故に、無闇にその話をするなと臨時学校集会で呼びかけがあったにもかかわらずのことだった。当然、英語教師にそれを咎められ、彼は授業の進行を妨げた罰として反省文を書かされていた。

反省文などお手の物な健吾にとって、その罰は自作小説を書き進めるのに都合のいい話だった。先程取材していたように、旬なノンフィクション作品を作り始めていた健吾は、ご機嫌でメモ帳にアイデアを書き留めていた。罰の時間とは思えない様な鼻歌混じりでペンを進めていると、外から聞こえる声があった。片方は分からないが、もう一方は知っていた。菱川だった。

「六時間目中に呼び出すなんて非常識じゃない。しかも、こんなところに。」

離れの特別指導室は、普段滅多に使われない。故に、中学校にはよくあるお囃子で、その周辺は成功率の高い告白スポットとなっており、春斗と麗華にとっても因縁深い場所だった。

「非常識ね。だとしても、アンタより非情じゃないと思うなあ。」

性根の悪そうな女子生徒の声、面白い材料が転がり込んだ、と健吾は聞き耳を立てた。

「それは…。」

「へえ、やっぱり本当なんだ。お見舞いに行ってないの。蒼野君可哀想…こんな女にアクセにされて。」

「違う!そんなつもりじゃない!あの惨状を見てないからっていい加減なこと言わないで!」

激昂し否定する麗華に、健吾は一先ず安堵した。

「知らないわよそんなこと。皆あんたに遠慮して、結局蒼野君は一人。そこに申し訳ない気持ちは無いわけ?」

「あるに決まってる!…でもね、正直怖いの、青アザ、有り得ない方向に曲がった四肢、目からは大量に血が出てたのよ?彼女だからって私だけそんな者に対面させられて…。男子を恨んだわよ。」

「えっ…?なにそれ…?どういうこと?」

 菱川の泣き出しそうな声に、軽く責めるつもりだった女子生徒は引き気味に言葉を続けた。

「先生は誰も死ななかったって、不幸中の幸いだって言ってたじゃない。ニュースも!組体操だからって盛り上がっては居るけど、重体者はでなかったって伝えてた!」

女子生徒の言葉には健吾も動揺した。瞳孔が開く感覚。思わず物音を立てそうになった。麗華は性悪を片付けるには今しかないと、ここぞとばかりか食い気味で捲し立てた。

「そういうことなの!…中止の貼り紙をして!体育教師のクビ飛ばして!そもそも組体操って本当は校長主導でしょ?でも全部そういうことなの!軽傷だった男子さえ何も言わないし、無事だった奴らは軽い出来事の様に伝えるけど、私は知ってる。だから、お見舞いに行って…私が知らない春斗になってたらって思うと怖いの!」

麗華がそう言うと、女子生徒は絶句した。真実が語られているのならば、悪質な情報操作が行われているのは間違いない。

「…ああ。私、別に非情でいいわ。春斗のお見舞いには、行かない。勝手に行けばいいよ。その勇気があるなら。」

きっと彼女は泣いていた。けれども、女子生徒が返す言葉を失ったのを見ると、守ろうとしていた何かに踏ん切りがついた様子で、静かにこの場を去っていった。

菱川の告げた真実と、巨大な力に騙されていた女子生徒の咽び声が残響する特別指導室の中で、健吾はアドレナリンを爆発させながらペンを走らせていた。そして、彼は事の真相そのものが伝え方で変わることを肌で理解したのだ。この伝達の妙は、彼の創作、およびその審美力にも大きく影響することとなった。

また、健吾の中にはもう一つ、未来にとって不可欠と言える感情が生まれていた。

「春斗のお見舞いに行かなきゃ。」

彼は小さく呟いた。

そう、真実は既に漏れ出していたのだ。このまま広がれば、春斗の元へ赴くほど情のある奴はきっと多くない。彼はそう直感した。或いは、それだけではなかったのかもしれない、「七色求夢」、その名に纏わる強大な運命と、因果の始まりを導く力が、おそらく彼の背中を押していたのだろう。この出来事は、そう考えざるを得ない居合わせ、奇跡と呼べる偶然の重なりだった。


病院を訪ね、受付で話を聞くと、健吾の期待は二つ外れていた。一つは、お見舞いに行くものは居ないという見立て、もう一つは、面会謝絶の現実だった。

彼は今、それでもとお願いした「健吾が来た」という言伝の結果を待っている。何故だろうか、奇妙な自信はあった。病院特有の匂いで頭が変になっているのか、その自信は、直後に控える春斗との会話をシミュレートしながら、時折笑みを零すほどだった。

「坂口さん、坂口健吾さん。」

「はい。」

「蒼野くんとの面会ね。本人に確認したところOKだそうよ。ただ、私から見ても状態があんまりだから、その、驚かないであげてね。」

「?…あ、はい。分かりました。」

看護師の言葉に、面会できる安堵と一抹の不安を覚えながらも健吾は病室に向かった。春斗の姿を確認すると、看護師の言葉が腑に落ちる。包帯でぐるぐる巻きにされた春斗に対面し、健吾は不謹慎にも笑ってしまった。

「ミイラかよ。」

礼節に欠く、開口一番だった。

「ぶふっ、あっ!いってえ!。」

「あ、…その、悪い。」

なんとも軽率な言動だった。健吾は直ぐに反省し、今一度状況を飲み込むと、口を噤む。ベッド脇の椅子に座ると、春斗が答えた。

「別にいいよ、健吾。寧ろ面白かった。ただ笑うとアバラに響くから。っ!…勘弁な。」

春斗はそう言うとベットの上で姿勢を直した。

「…驚いたよ。学校も世間も、話題性の高いところでは凄い騒いでるのに。けがとかの話は最大でも重傷者数名で片付いた。なんて言っててさ。まさかこんなことになってるんてな。」

「そうか。」

「僕だって、数週間もすれば出てくるもんだと思ってたよ。」

健吾はそう語り目を伏す。彼は痛々しい春斗の姿から、相当数がまだ学校には戻らないだろうと察していた。

「不幸中の幸い、だってさ。中枢神経がやられてないとそうも言えるのか、って思ったよ。目とか、まだ回復しないし。」

「そうなのか。」

「…でも、不幸中の幸いなのかもな。或いは禍福は糾える縄の如し、か。」

「難しい言葉を知ってるな。僕向けか?」

「そうだね、健吾が来た。最大級のまさかだよ。」

春斗がそう言うと、心なしか口元は笑ったように見えた。健吾もつられて笑う。

「まさかなのは確かだが、禍福じゃなくて禍禍の間違いだろ。」

「ふふっ、あっ、いてぇ…。」

春斗が笑うと二人の間にあった緊張は解けていた。

「ずっと、健吾と話してみたかったんだ。」

「僕はそうでもないけどね。お前のこと嫌いだったし。」

「容赦ないな。でも、そうだから話したかった。昔からお前は唯一俺の事が嫌いで、俺も…俺が嫌いだったから。」

春斗がそう言うと、健吾は目の色を変えた。その言葉をきっと、心の奥底が待っていたのだろう。途端、彼の中に申し訳ない思いが込み上げ、立ち上がる。

「よしてくれ、きっと謝ろうと思ってるんだろ?それが勘違いなら、それでもいい。勘違い野郎だって今なら悪くないさ。だけど、謝られるのは違うんだ。」

そう言って春斗は健吾を制した。図星を突かれた健吾は、益々目の前の男に、これまで無視を続けていた男に、俄然興味が湧いた。「俺は、面白くない人間だった。お前ほど尖った目標もない。普通の人間だった。俺の周りもそう、似たような考えの奴ばかりで…だからこそ、ちょっと飛び出た俺なんかに憧れたんだろう。いや、このざまだ。或いは皆も…。」

「それは大丈夫だろ。良くも悪くも人気者だったよ、お前は。」

空っぽの自分に疑心暗鬼な春斗を健吾は慮り宥めた。

「そっか。」

「そうだよ。それに、年相応のことだろ。華やかな人に気が向くのは。」

「ふふっ…、じゃあ健吾はいくつなんだよ。」

「さあな。それに関しては本の読みすぎかもしれん。」

健吾がそう言うと春斗は腑に落ちた様子だった。

その後、二人は近況に関するいくつかの話題で話し、会話が一段落したところで、外から面会時間の終わりを看護師が伝えに来た。

丁度いい頃合だった。

「さて…、んじゃ帰るわ。」

「ああ。」

春斗は残念そうに応えた。

「また明日、か?」

健吾は遠回しに問うた。

「ああ!看護師さんにも伝えとくから来てくれよ、退屈なんだ。でもこんな姿じゃ、健吾以外とはまだ会いたくないし。」

春斗は子供のように喜んで応える。

「任せろって、学校フケんのは得意だからな。」

健吾もまた笑っていた。身体が痛むのか、春斗は少し歪んだ笑顔をこさえて、物音が収まるのを待った。やがて静かになるととても穏やかな様子で、眠りにつくのだった。

健吾が春斗の病室に通い始めたお陰なのか、その日から春斗はみるみる回復していった。医者も驚く程のスピードで、看護師も笑顔が増えたと喜んでいた。晩秋のとある日、健吾が病室を訪れると、暗い表情をした春斗が体を起こして待っていた。自分が入ると春斗は決まって嬉しそうにしていたから、健吾は少し動揺した。

「何かあった…んだよな?」

「ああ、まあ…。」

「そっか、つらいなら、まあ、聞かないけど。」

健吾はそう言うと、持ってきた荷物を順番に置いて座った。

「いや、話すよ。」

そう言うと春斗は、健吾に向き直った。いや、正しくは向き直ろうと体を動かした。静かに口を開く春斗に、健吾は嫌な予感がして少し待ってくれと言おうとしたが、言えなかった。

「俺、見えないんだ、目。…これからも。」

その告白に健吾は肩を落とした。

「俺の身体、あの時はギリギリだったから母さんも言えなかったらしい。確かに聞いた瞬間は頭がおかしくなりそうで、暴れそうになった。それこそ直ぐに聞いてたら、暴れて、体を痛めつけて、ショック死してたろうな。」

「そっか…、でも、悪いけど、なんて言えばいいのか…わからん。」

「俺が健吾でも分からねえよ。ただ、話したい、聞いてくれるだろ?」

「ああ。勿論だ。」

そう言うと健吾はベッドの脇に置かれた椅子へ腰掛けた。

「最近よく考えるんだ。自分は何がしたかったのかを。健吾のお陰で退屈は凌げたけど…話すと整理がつくもんでさ。一人でいると湧き上がって来るんだよ。もう二ヶ月くらい過ぎたもんな。」

春斗は言葉を探して、一息。

「組体操さ。皆、危ないって言ってたよ。自分だって分かってたのにな…、多分、俺はずっと何かになりたくて、それで立候補したんだ。」

健吾は静かに相槌を打った。

「本当、何やってんだろう。…結局は失明して、麗華のことだって、自分から告白したのに、そこまで大切にできなくて。見舞いに来ない理由は分かるから、怒ってもないけど…。このまま学校も変わるだろうし。…俺は…馬鹿だったな。」

事故以前、春斗は学力も上位だった。そんな彼が自分を馬鹿と貶す様を見て、健吾はつくづく人間の複雑さを感じていた。

「なんだろう。…確かにお前がやった事、僕は馬鹿だと思う。」

「容赦ないねぇ。嬉しいよ。」

「でも、本当は馬鹿じゃないとも思うんだ。寧ろずっと先の悩みと確り向き合ってたんだなって。何の先なのか、上手く言えないけど。…うーん。人間…かな?」

「なんだよ、それ。」

春斗は笑った。今日も、それは健吾のお陰だった。

「あ、そうか。…そうだ!」

「何?どうした健吾?」

「書けよ。書くんだよ、今を!絶対そうだ。…小説!それを今、書くんだ。お前も今日から。時間なんて沢山ある!」

健吾は興奮した。その様子がおかしくて春斗は一層笑う。

「いや書くっつったって、どうすんだよ。この目なんだぞ?」

「分かってるって。だから明日は図書館に寄ってくる。…そっか、簡単なことだったんだよな。明日からは一人の時も退屈しないと思うぜ。」

健吾はそう言うと、未来に向けて目を輝かせた。春斗は何となくそれを気取って、穏やかなため息をつく。

「なら、お願いするよ。」

そして、会話は一段落ついた。健吾は春斗にお茶を汲んで席を立ち、最早意味があるのか分からない見舞いの花を入れ替えながら、病室を見回した。春斗の声に振り替えると二人はなんの気ない言葉を交わして、いつもと変わらない時を過ごした。春斗にとっては、受け入れ難い事実を聴いた日だったが、健吾と話せたお陰で、心はいつもと変わらなかった。彼の去り際には、いつも決まった扉の閉まる音がする。

「悪いこと…ばかりじゃないな。」

春斗は今日もそれを聞いて、静かにそう零した。

翌日、健吾は図書館で借りた点字の教科書と、何十冊もの点字翻訳された小説、それと点字盤を揃えて春斗の見舞いに訪れた。成程、これなら暫く退屈できそうもない。受け取ったそれらの説明を受けながら春斗はそう思ったという。長いプロローグだった。こうして春斗と健吾、二人の執筆生活が始まったのだった。


結局、春斗は約半年の入院生活を送った。加えて、退院したといっても、それは寮のある盲学校への引越しだった。健吾は彼のクラスを横切る度、少し切ない気分になって、もう戻らないことを理解しているのに、どこかでそれを不思議に感じながら学校に通っていた。

この頃の春斗は、人生の殆どをリハビリと読書に費やしていた。偶に書きたい事をメモに取りながら、沢山の本を読んだ。きっかけが失明であることに奇縁を感じながら、出会うことがなったかもしれない本を沢山読んでいだのだ。寮に健吾が来ると感想を述べ、作品に対する意見を交換し合った。時を重ねる毎に、二人の読解力は鍛えられていった。こうして逞しく育まれた健吾の文は文芸同人の界隈で注目を集めるようになっていった。


更に時が過ぎた。素行はさておいても頭は良かった健吾にとって、高校受験は片手間に済むことだった。そして、蒼野春斗が健常者でなくなって二年経つかという頃に、それまでなりを潜めていた「七色求夢」の運命が、動いた。

「健吾、この前点字翻訳してくれた…文芸同人?読んだよ。」

「ん、ああ、なんだか気恥しいな。」

「いや、凄いよ。これ売ってるんだろ?世の中に物を出すなんて、クラスの人気者なんかの百倍は凄いね。」

 春斗はかつての自分を皮肉ってそう言った。

「そうかい。ま、そこまで言われて悪い気はしないな。」

「だろ?…でさ、俺刺激受けちゃって、書いたんだよ。寄稿を想定した短めの話だけど…。」

春斗はそう言ってクリアファイルを健吾に渡す。

「帰ったら読んでくれよ。感想も、な。」

「分かった。楽しみにしておくよ。」何気ない気持ちでファイルを受け取った健吾は、その後、いつものように他愛ない話をして帰っていった。

次の日、健吾は走っていた。点字を翻訳して読み終えるのに、少々時間を要したが、読み終えた瞬間、或いはその前から、心は既に春斗の元へ走りたがっていた。その短編は、紛うことなき名文だった。

寮に着き、面会の了承を得た健吾は、彼の部屋へ階段を駆け上がった。新鮮な気持ちを、直接伝えたかったのだ。部屋の前に辿り着くと無許可で扉を開け、春斗の部屋に上がり込んだ。そして、叫ぶ。「春斗!」

春斗が健吾の視界に入ると、その大きな声に驚いて固まっていた。息を切らして、春斗の前に歩み寄る健吾。春斗が確かめるように口を開いた。

「健吾か?」

「あ…ああ。すまん、驚かせたな。」

「そりゃそうだよ…全く。しかし珍しいな、健吾が慌てるなんて。」

「慌ててたんじゃない。急いでただけだ。」

「っはは!そりゃ同じだろ。…で?」

春斗は用件を問うた。健吾は息を整えながら床に座り込んで応えた。

「読んだよ。お前の短編。」

「早いな。点字で書いたんだぞ?」

「この日が来るのは分かってたからな。僕も勉強させてもらったよ。」

春斗は思わず口角を上げた。

「短編、凄く面白かったよ。懸命に頑張る人間とそれを嘲笑う運命。って言うのが必要な言葉だけで的確に書かれていたと思う。」

「本当か?…それは良かった。」

「ああ、文芸同人に載せるのが寧ろ勿体ないくらいだよ。あと、皮肉っぽい話になるけど風景が良い。差し込まれる量、描写のために使う言葉に無駄がなくてくどくない。」

「光栄だよ。うーん、もしかしたら…見えないからこそ、見えて欲しい時に狙って入れられてるのかもな。」

早速、春斗は健吾の感想を冷静に分析を始めた。その姿は成績優秀、運動神経抜群の神童だった頃を思わせた。

「今度からは僕も点字の原稿を作るよ。僕の作品は誰よりも先にお前…いや、春斗に見せる。見せたいんだ。そんで意見を交換し合ってさ、切磋琢磨するんだ!」

健吾がそう言うと、春斗は首肯した。新しいざわめきが、寮の一室を巡る。

「あと、もう一つ決めたぞ!僕と春斗、一冊ずつ長編小説を書こう。そんで賞に投稿するんだ。期限は互いが高三になるまでだから…まる一年と半年程度。な?面白そうだろ?」

また一人で興奮しているのか、うわずり、捲し立てるような健吾の声。春斗にとってそれはとても愉快だった。

「そんなに早口になんなくても何処にも行かねえよ。しかし長編小説か…いい話だと思うぜ。今日のことも自信になったし、頑張ってみるよ。」

余裕をもって微笑み返す春斗に、健吾は脱力して大きく息を吐いた。

「よし!じゃあ約束な。指切りをしよう。」

「おう。」

二人は指切りをした。丁度その瞬間、太陽の前を雲がひとつ横切って、部屋の中をその影が撫でた。その後はいつも通り他愛ない雑談をして、そのまま、日が暮れていった。

「おっと、もうこんな時間か。…そろそろお暇するよ。」

「ああ。」

「あと今日は、不躾に上がって悪かったな。」

「全くだ。見えないと怖いもんだから。」

「はは、悪かったって。それじゃ、次は…土曜かな。」

「おう、じゃあな。」

玄関先、春斗は健吾を送り出して施錠した。

春斗の部屋を出ると、健吾は足早に寮を離れた。少し、走っていたかもしれない。とにかく、その日は夕焼け空が綺麗だった。

「少し、悔しいな…。」

力なく呟いた健吾が空を見上げると一番星と目が合った。それが何となく、たまらなく嫌で健吾は目を背ける。やがて、空に星が増えると、彼は安堵して頬を手で擦った。


その週から二人の長編小説制作が始まった。これまでの人生経験からアイデアを出し合って、伝えたい普遍的なテーマを模索した。このとき交わした哲学レベルのやり取りが二人の絆をより強固なものへ昇華させたことは言うまでもない。ただ、それが創作において互いの妥協を生むことはなかった。無論、それも彼等の良い所だった。

「あ?なんだ?この文章のどこが変なんだよ?」

「変ってわけじゃない。でも凝りすぎなんだよ。正直ここは殆どの人が読み過ごす箇所。無駄な文章になると思う。」

「いや、でもこれは必要だ。春斗なら分かるだろ?」

「俺が分かるだけなら、要らない可能性もあるって言いたいんだ。」

「そんなこと言ったら表現なんて意味ねえじゃん!」

忌憚なく意見を言い合う二人は、時に言い争うこともあった。特に健吾は拘りが強く、声を荒らげることが多かった。

「まあ、好きにしなよ。これ以上は討議じゃなくなる。だろ?」

そう言うと春斗は右手を差し出した。

「おう…そうだな…。」

 健吾はその手を取った。

二人はそうした諍いも、巧みに乗り越える術を生み出していた。互いに表現者だ。完全に行き違うこともあるとは、初めから分かっていた。

「笑顔で握手。」

「仲直りの合図。」

そう言うと、二人は何事も無かったかのように原稿を見つめ直し作業に戻った。傍から見ると滑稽なやり取りだが、おそらくこれが無ければ彼らの創作は行き詰まっていただろう。こういった冷静さも、彼らが持つ一種の武器だった。こうして彼らの充実した創作の日々は、あっという間に過ぎていった。

健吾は時に文芸同人の締切に追われたり、夏課題の作文で最優秀賞を狙ったりしながらも、長編小説の制作に打ち込んだ。春斗も、文芸同人に寄稿したり、自らと同じ盲人の詩集を読んで、感性を育くみながら同様に努めた。その生活ゆえ、互いに恋なき青春時代になったが、彼らが人間的成長を遅らせることは無かった。健吾は課外に身を置き、沢山の大人に触れ、価値観や立ち振る舞いを成熟させていたし、春斗も孤独の中、自らを襲った悲劇に相対し、因果を精査することで、人間と人間の間にある理不尽を理解していったのだ。

長い長い、旅をするような経験、盲学校に付属した寮の一室、何気ない風景の一部で、彼等にとって重要な冒険は進んで行った。

そして、とうとう約束の時が来た。

「うん。いいんじゃない?」

「こっちもだな。」

そう言うと二人は顔を見合わせた。見合わせるといっても、例によって春斗は少しズレてしまう。健吾は、そういう所に表情を緩ませた。

「制作完了だ。」

健吾は春斗の手を取って握った。同時に高揚感、達成感が身体中を駆け巡って、緩めのハグをした。

「お疲れ様。」

「お疲れ様だね。」

暫くの間は静かだった。彼らは創作の余韻に浸っていたのだ。充実感でいっぱいで、寧ろ言葉を紡ぐ余裕が無かったのかもしれない。だが、時は既に未来へと向かっていた。

「しかし、寂しくなるな…。」

「なんだよ、急に。」

「これから先のことだよ。受験だろ?」

「ああ、まあ。」

「…頑張れよ。」

寂寞の心を露わにする春斗。彼の言う通り、健吾は立派な受験生だ。

「頻度は下がるかもしれないけど。ここには来るよ。どうしても辛いってなったら、また何か創り始めればいい。」

健吾は前向きな言葉で応えた。

「ありがとな。」

この言葉の後、まだ何か言いたげな春斗のことを、健吾は察しながらも、強引に話題を変えた。辛気臭いのはこの時に、勿体ない気がしたからだ。こうして創作活動の悦びを噛み締めた二人は、初めて小説賞へと作品を提出したのだった。


それから何月が経った頃だったか、季節を一つか二つ跨いで、汗ばむ陽射しの街中を急ぐ少年の姿があった。健吾だ。彼がこの二年半で通い慣れたのは高校だけではない。慣れた足取りで辿り着いたのは、案の定、春斗の暮らす部屋だった。

「…春斗。長編の件、結果が出た。」

「本当か!?楽しみだよ。どんな結果でも…受け入れないとな。」

少し雑談を挟んでから、健吾が本題として伝えた言葉に、春斗は身を強ばらせた。じっとりとした静けさが、部屋を包んだ。

「僕と春斗の作品は無事、候補作に残って…。」

健吾がそう言うと、緊張が高まる。

「春斗の作品が…大賞だった。」

健吾がそう言うと、暫くの間、室内はしんとした。処女作で大賞は大変喜ばしい事だったが、二人の関係性がそれを咎めていた。だが、こうもなると、沈黙を破るのは健吾の役割だ。

「おめでとう、春斗。」

「あ、ああ、ありがとう。」

「もっと、大喜びしていいんだぜ?変に気を回すなよ。」

「おう…。」

気まずかった。春斗は健吾の方がずっと先にいると思っていた。だが、結果は違ったのだ。健吾は追い討ちをかけるように衝撃的な言葉を続けた。それは春斗への怒りではなく。才能という言葉に抵抗したかったからかもしれない。

「僕は、筆を置くよ。」

「え?な…。」

激しい動揺が春斗を襲った。

「実はずっと前から決めてたんだ。春斗が最初に書いた短編を読んだ時からな。」

「そんな…じゃあ!」

「そもそも、僕は切磋琢磨等と言いながら、素直に春斗のアドバイスを組み入れなかっただろう?素直に取り入れた春斗と違ってね。」

思い返せば、そうだ。つまり始めから健吾の目的は一つだったといえる。

「講評も読んだよ。春斗の作品に比べて、俗人の書き込みが浅く、無駄に凝った表現が多かったらしい。言われ通りだったってことさ。僕は人を子馬鹿にしてしまうし、誰にでもというよりは独りよがりな表現をする。つまり、春斗の言う事が正しかったんだ。ずっとね。」

取り繕っても滲み出る健吾の悔しさが春斗には伝わって、やるせなかった。

「だからってやめる事ないだろ…そもそも健吾言ってたじゃないか!ダメで元々、候補作にでも残れば最高だ。って。」

春斗は必死で引き止めた。しかし、大賞という事実が皮肉にも障壁となった。

「確かに候補には残った。でも、やっぱり選ばれなかったんだ。…なんて言えば伝わるかな。僕はこの結果で…野球で言うと甲子園に出られるような一握りではあったけど、プロじゃない自分も分かってしまったんだ。分かるか?」

「…よくわからないな。」

春斗の声は苛立っていた。

「健吾、自分が言っていることの意味、自分で分かってるか?」どうしても確かめたいことだった。分かってないなら力づくで引き留められる。そう考えていた。

「…すまないな。と思ってるよ。それに、ちゃんと分かってる。勝手に小説書かせて、勝手に楽しんで、勝手な予想を立てて、勝手に落胆して、勝手にやめようとしてる。ってことは。」

「そうか…。」

やはり、一筋縄では行かなかった。それくらいの事は分かっていたようだ。だが、春斗は決して諦めたくなかった。彼は自分を孤独から救ってくれた健吾と、肩を並べて小説を書くことが、残りの人生における使命だと考えていたからだ。しかし、健吾が突きつける現実は非情なものだった。

「辞めて、どうするんだ?」

「東京にある大学に行くよ。出版に関わる仕事がしたいんだ。春斗を見出したことだけが、僕の誇れることだから。良い作家を見つけて世に出す仕事をするつもりだ。」

春斗は思案を巡らせながら、会話を続ける。東京、出版社、どうしたら健吾はまた書くだろうかと、まだ考えていた。健吾の将来設計は的確だと感じたが筆を置く理由にはならない。そんな事を考えているうちに、案外単純な答えに行き着いた。

「じゃあ、俺も書かない。」

春斗がそう言うと、健吾は焦った様子で言葉を返した。

「それはダメだ!」

「どうしてだい?それは俺の自由だろ。」

少し怒っていたからか、春斗は煽るように言う。

「春斗には!…才能がある。…本物の。」

目が見えなくても、健吾が涙を零さぬよう必死なことが伝わった。だが、ここぞとばかりに春斗は詰める。

「健吾と袂を分かったら、楽しくないんだよ。やる意味がない。」

それは怒りだけじゃなく、ただの本音だった。

「そんな事…言うな。」

健吾は、とうとう観念して泣いた。

「筆を置くなんて、格好つけたけどな。…書けないんだ。どんな物語を思いついても、春斗ならもっと面白くできるって、なって…。」

伝えたくなかった。春斗にはもう、自分の才能を忌む事なく生きて欲しかった。でも、仕方の無いことだった。聞いてしまった春斗は、憤懣やるかたない様子で、しかし何を恨めばいいのか分からなかった。健吾が筆をおくのは、春斗のせいでもあったのだ。

「春斗、強いやつには義務が…果たすべき責任がある。たとえ孤独な作業だとしても、書け。」

そう言われると、仕方なかった。全ては運命が決めたことだった。春斗はもう溜息しか出なかった。健吾はじっと返事を待つ。目の前の男が観念して、書くと答えることを期待しながら、言葉の世界で、膝をついてくれと祈った。しかし、起死回生、闇しかない春斗の世界に閃光が走った。そして彼は最後の望みを述べ出した。

「分かった。俺は書く、でも簡単なことだったな。」

何故か笑い出す春斗に、健吾は怪訝な表情を浮かべた。返事の内容は満足いくものだったが、首を傾げた。

「だから着いてくよ、東京。…それに、協力してくれ。今回のように。」

「は?…な。」

健吾は少し話の整理が追いつかない。

「これから俺が書く時、隣でアドバイスをくれ。いや、うん、…そうだ、二人で、チームでデビューするんだ。」

「あ、いや…でも。」

乗り気じゃない健吾に春斗は押しの一手を打った。

「それにやっぱ一人じゃ書けねえよ、俺は、点字しか使えないから!…な?健吾が必要なんだよ。それに出版社への就職、楽になると思うぜ?」

「ううむ、そうか…。」

揺らいでいる健吾の前に、春斗は手を差し出した。いきなりだったから、きょとんとしてしまったが、少し考えるとその意味がわかって、溜息が出た。

「ははっ…お前のそういうとこ、昔から大っ嫌いだよ。」

そう言いながらも手を取られた春斗は全力で口角を上げた。それでも絵になるのが春斗という男だ。

「笑顔で握手。」

「仲直りの合図。」

こうして二人は、一人の小説家になった。名前は「七色求夢」。それは光と夢を追い求める二人の思いが込められた名だった。


「ふぅ、まあこんな所かな。」

時は今、自らの過去を語り終えた春斗は、健吾の方に顔を向けた。午後四時、春斗の知りうることと、健吾が言いたくなったこと、そして思い出話等に花が咲き、いつの間にか晩秋の太陽は、赤い光で部屋を照らし始めていた。

二人がなんてこと無かったかのように話したためか、場の空気は重たい内容に比さずして存外和んでおり、深く差す陽の温かさも相まって居心地の良いものととなっていた。

「その、ありがとうございました。」

光子は話の余韻に浸りながら礼を述べた。間柄に対して丁寧なものだ。

「なにか、今後の付き合い方に活かしていける所はあったかな?…もし、結局のところ気を遣う点が増えた。って思うなら。それは違うからね。」

光子の態度を聞いて、春斗は答えた。それを受けて健吾が連なる。

「そうだぞ、こう見えて春斗は小説が上手い以外はただの寂しん坊だからな。」

「ふふっ、やめろよ。」

そう言いながら春斗は健吾をはたいた。簡単に避けられそうだったが、当たってあげたのは、健吾の優しさだった。

「わかりました。じゃあ、つらかったこと話してくれたわけだし。もっと電話入れたりするね。…まあ講義とかバイト中は難しいけど…。」

そんな二人のやり取りを汲んで、少し砕けた言葉で光子は答えた。それは今朝までよりもずっと親しみ深く。それでもどこか力の抜けきらない真面目さを感じさせる言動は、ただの彼女らしさだ。

「えー?すればいいじゃん。講義中は。」

莉奈がそう言うと、それは四人の笑いを誘った。そして、彼らが笑みを湛えたお互いの顔を見合わせると、不思議と心が温かくなっていた。

笑顔、その力はきっと魔法なのだろう。この日、この時、より深まった相互理解と、なにより季節外れの温かい笑顔に包まれて、春斗と光子の間にあった遠慮の壁は、ゆっくり、溶けていったのだった。

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