光の中へ消えた~Left into lights~⑧

とあるマンションの一室、時刻は朝十時になろうとしている。日当たりの良いリビングルームでは、集まった四人の若人による、テーブルを囲んでの軽い歓談が行われていた。この時分までの話題は概ねインターンシップ中の出来事のことで、莉奈と健吾はその話を興味深そうに聞いていた。

「でも驚きました。これまで何度も会っていたのに、ここまで凄い方だったなんて。」

光子はきょろきょろと一室を見回して語った。

「凄いだなんて、僕にはそんな自覚ないな。」

その対面に座る春斗は、そう答えた。

「いや、実際凄いよね。春斗は、隣で仕事しているとやっぱ才能って必ず結果に出るんだなって思わされるよ。」

隣に座った健吾がそう言うと、その正面、光子の隣に座った莉奈は首を傾げた。

「そうですか?必ずってことはないと思うんですけど。」

彼女はその言葉に含みを込めていたが、真意を述べるより前に光子が椅子を引いて立ち上がった。

「すみません、少し御手洗に行っても…。」

「案内しますよ。」

 光子がそう言うと、春斗も立ち上がる。

「や、でも…。」

「いくらなんでも自室ですよ、案内くらいできます。」

そう言うと春斗は光子の手を取り、歩き出す。彼はまるで目が見えているかのように彼女を導いていった。

莉奈と健吾が残ったリビングルームには、少しだけ空気に張りがあった。初対面の男女であることもそうだが、実はそれだけではない。耐えきれないものがあったのだろう健吾は言い難い言葉を切り出した。

「あの…先程は、どうもすみませんでした。」

「ああ、いえ、私の方は全然。」

莉奈はすぐ、今朝四人が一同に会した時の件だと判断し目を泳がせた。それというのは、健吾が春斗の彼女として、莉奈をアテンドしたことだ。残念ながら美男の春斗に対して、釣り合いの取れた外見をした莉奈を彼女と思い込むことは、客観的に考えると無理もなかった。莉奈自身もそれを分かっていた。

「いえ、なんと言うか…自分的に許せない失礼ですので…。」

それでも重ね重ね頭を下げる健吾、だがそれは本来光子に対してすべきものだ。無論、本当にそうすると、余計に失礼なため、彼女にはただただ複雑な気持ちが募っていった。

「あの、ほんともう良いですよ。彼女はそんなに浅くないですし、健吾さん、上辺だけで謝ってはなさそうですから。」

莉奈は様々なことを勘案し、そう応えると、紅茶を一口飲み、リラックスした様子を表現してみせた。それを見た健吾が、思い出したように紅茶を口元へ運ぶと空気は少し解れていた。そして、少々の雑談を挟むと、二人が戻ってきて、それぞれの席についた。


「それじゃあ、本題に入っちゃおっか。」

四人がテーブルに改めて揃うと、口火を切ったのは莉奈だった。本題というのは昔話のことだ。恋人同士の二人に加え、ここには互いの親友も居る。それを語らうに十分な、役者が揃っていた。

「そうですね、えっと、私からでいいですか?」

光子がそう言うと、居合わせた三人が首肯した。光子は色々なことを思い出すように目を閉じ、そして開いて、語り始めるのだった。


市民会館の一角、文化行事の練習用に設けられたレッスンスタジオ、片面鏡張りの空間には何人もの子供達が集まっていた。それぞれがお芝居の稽古に励む中、一際目立つ才能が目にとまる。その子の服に留められた名札には、下柳光子とあった。

光子の感情表現は時に強く大袈裟で、時にリアリティ溢れる適度な控えめさを見せていた。彼女はその大小を操る本物の表現力を持っていたのだ。また、その師は、日頃の立ち振る舞いも優雅で身体を操る力も優れていると光子を評していた。勿論その通りで、彼女はダンスや日本舞踊等の飲み込みも非常に早かった。下柳光子という人物は、心身に関わる全てを御する才能に恵まれた子供だったのだ。

同じ部屋の隅っこに、膝を抱えて俯く女の子が居た。その名札も、両足に隠れてよく見えない。ただ、顔立ちは端正で、大きくなれば嫌でも男を惹き付けるだろうと思われた。時折、羨ましそうに光子の方を見る女の子、それもそうだろう、光子はその溢れんばかりの才能と、決して奢らぬ姿勢から、沢山の友達に囲われていたのだ。隅っこで俯く女の子にとって、そんな彼女はどこか遠いところにいる人のように感じられた。きっと、自分なんかとは交わることもないとさえ思っていた。しかし、光が生けとし生けるものの全てへ平等に降り注ぐように、光子は隅っこの女の子をも照らし出した。その女の子にとって、憧れと言っても過言ではない光子は、いつも隅っこにいる彼女を見つけ出し慮って声をかけたのだ。

「莉奈ちゃんも。一緒にお話しよ!」

莉奈と呼ばれた女の子にくしゃっと笑いかけた光子。これが光子と莉奈の出会いだった。

春、あれから何度か桜が咲いては散った春のことだった。光子と話すようになった莉奈は、本来の姿がそうであったかのように、明るく話すようになっていた。市民会館からの帰路、傾いた陽を背に莉奈はしゃべり出した。

「ねぇみっちゃん!また受かったんだって?しかも今度はテレビドラマのオーディション。」

「うん。」

「凄い凄い!やっぱり天才だよ!」

この頃、光子は全国に放送されるテレビドラマの仕事を獲得する程になっていた。誰よりも早く、他の役者にはたどり着けない領域に至る才能を遺憾無く発揮していたのだ。後に大きく影響する醜い顔と言うハンデも、幼きゆえの愛嬌が抑えており、彼女はやりがいのある役どころを次々と抑え、役者として成長していた。

「それ程でもないよ。最近は莉奈ちゃんも後の審査に呼ばれたりしてるし、きっと、直ぐに埋まっていく差だよ。」

凛然と前を見て答える光子。莉奈はその隣で恍惚の表情だった。自分を褒めてくれた喜びもあるが、その謙虚さに心の奥底から敬意を評していたのだ。

「本当かな?私、みっちゃんに追いつけるのかな?…もし追いついたら、一緒にハリウッドのレッドカーペットを歩こうね!」

「そうだね!」

天真爛漫な笑顔を携える二人は、希望に満ち溢れていた。莉奈が小指を立てた右手を差し出す。光子はこれに応じて、二人は指切りげんまんをした。この時交わした約束は、二人の運命を結びつける楔になったのだった。


また、幾年かの時が過ぎた。二人は小学校高学年へと進級し、誰でも可愛いと言って貰えるような愛嬌は、光子からのみ段々と失われていっていた。また、先の頃に比べ、状況は少しずつ変わり始めていた。

「みっちゃん、どうしたの?」

「ううん、なんでも…ないよ。」

光子が時々つらそうな表情を見せるようになったのだ。莉奈という人は光子と対照的に、生来鈍感で察しの悪い人間であったが、この頃にもなると親友の顔色が良くない事くらいは分かるようになっていた。帰り道の空にはどんよりとした雲が覆い被さっている。

「うーん、なんでもなくは無さそうだよ?」

莉奈が、光子の顔を覗き込み、問いかける。

「そんなことないから!」

光子は思わず大きな声で否定した。その思いの外、語気の強い答えに、莉奈はたじろいでしまい、その目に少し涙を浮かべた。光子は直ぐに謝って、その場を取り繕った。

実は、この歳になると光子への仕事は目に見えて減っていた。また劇団も、彼女の醜い外見を考慮して回すオーディションを選び始めたため、届く役柄はどれも端役になっていた。勘のいい部分と真面目な部分を併せ持つ光子は、なんとなく仕事が減った本当の原因を察してはいたが、それでもストイックに自分磨きを怠たらなかった。精神を疲弊させてでも芝居作りに取り組んだり、自分に合わないやり方であっても果敢に挑んだりしていた。彼女の純心は、まだ、努力することを信じていたのだ。

しかし、皮肉な事に、光子が努力を重ねても、思う方に状況が転ずることは無かった。醜女という宿命に、彼女の努力に相応しい成果が出なくなった真の原因に対して、為す術などなかったのだ。

また、時間が流れたこと、ただそれだけのことも光子には厳しく襲いかかっていた。光子程は才能に恵まれてないが、その道に進むべき力を与えられた光子より美しい者が、彼女のいた椅子を奪い始めたのだ。

更に悪かったのは、時間をかけて彼女の醜さが増して行ったことだろう。そのために小学校に行くと昔の仕事で弄られ、イジメに等しい扱いを受けることが増えていた。中には、かつて友達だった者から受けたものもあった。この頃、光子の周りは裏切りに充ちており、彼女がこれまで努力の成果として獲得してきた栄光や輝きは、急に有害な放射線のようなものへと変わったようなものだったといえた。

それでも、彼女は努力を信じ続けた。気丈にすべての裏切りを我慢した。それどころか、この世界がそれほど理不尽なものでは無いと自身をもって証明してみせようと研鑽を重ねていったのだ。

光子は人並外れた精神力の持ち主でもあった。だから光子は曇天の帰路の下、莉奈に微笑みかけて言う。

「…莉奈ちゃん。私は大丈夫だよ。これからも頑張ってこ!あの約束を果たせるように、ね!」

「あ、…うん!」

莉奈はつられて笑って返した。少しだけ不穏な行く末を予知しながらも、目の前で明るく振る舞う光子を見ると、やはり頼もしくて安心してしまう。結局、二人は笑った。笑顔で家路を歩いたのだった。


中学校に入ると、二人は同じ学校に通うようになった。校区が広がったからだ。この頃になると劇団内では莉奈の活躍が目立ち始めていた。しかし、それは彼女だけの力によるものでは無い。光子がその経験から沢山のアドバイスを施したからである。当の光子はというと、徐々に自分の「役割」を受け入れ始め、端役を確りこなすようになっていた。

「みっちゃんのクラス、最近ホームルーム長いねえ。」

「えっ?あ、うん。」

茜空の下、共に下校する二人。光子の提言により、校門に集合して帰っているのだが、近頃の光子は莉奈を待たせることが増えていた。

「あっそうそう、これは光子だけにしか言えないことなんだけど…実は私、コクられちゃいましたぁ!」

「えぇっ!?誰に誰に?」

「C組の、一ノ瀬くん。」

「一ノ瀬くん!?イケメンじゃん!それも学年一二を争う程の!…凄いよ莉奈ちゃん。」

光子も莉奈も年頃になり、恋に恋する時期だ。光子は恋愛において一歩先を行った親友に心からの祝辞を述べた。しかし、莉奈の反応は意外なものだった。

「ああ、そうなんだ。…確かに顔は整ってるよね。」

そう言った莉奈の表情は明るいが、声色は少し低かった。

「え、その反応って、もしかして。」

「断ったよ?いきなり好きって言われても、よくわかんないじゃない。」

「ええ…、勿体ない。」

光子の反応を確かめた後、莉奈は遠くを見つめていた。

暫くの間、二人にはぎこちない間が生まれた。もっと他愛のない笑顔になれる話題を、と二人は次の言葉を探したが、これ以上の間を嫌った光子は、それを見つけることなく口を開いた。

「変なこと聞くんだけどさ、莉奈ちゃんはただ綺麗な物が置いてあるのと、汚いものの隣に綺麗なものが置いてあるのとでは、どっちの方が綺麗な物をより綺麗に感じると思う?」

光子の問いは本当に変だった。莉奈は少し違和感を覚えていたが、その正体に気づくことはできない。

「それは、後の方じゃない?でも何それ…なんか洗剤のCMみたい。」

莉奈はそう微笑みかけながら、初めて光子の表情を伺おうと試みた。しかし、光子は莉奈より遥かに上手だった。結局、莉奈はその真意を捉えることは出来なかった。


ある日の夕方、何羽かの烏が不気味に鳴いた後、群れを成して飛んで行った。莉奈はいつも通り光子を校門で待っていたが、この日は所用で早く帰らなければならず、あと少し待ったら帰ろうと考えていた。

「みっちゃん遅いなあ…。そうだ!」

莉奈は思い立った様子で、メモを書き上げた。先に帰る旨を記したものだ。光子は当然のように校則を遵守しているため、携帯電話では連絡できない。莉奈はメモというアイデアを自画自賛するような表情で玄関へと向かった。

そして、光子の下駄箱を開こうと手をかけた、その時だった。

「痛っ!」

突然のことだった。下駄箱に手をかけた人差し指からは鮮血が流れている。それを暫く呆然と見た後、莉奈は全てを理解した。彼女は自分でも驚く程速く、走り出していた。光子の居る教室に向かって、途中、幾人か部活動の生徒とすれ違った。関係のない人だ。ガラリと目的の教室を開くと、そこには制服についたチョークの粉を懸命に落とす光子がいた。他に生徒は、見当たらなかった。

「莉奈…ちゃん。」

莉奈は呆然とした。言葉は、暫く見つからなかった。ただ、怒りだけがあった。一つは、虐めという悪に対して、もう一つは、親友を苦しめるその悪に、今まで気づかなかったことに対してだ。そんな自分の感情に思考が追いついて、漸く言葉になる。

「みっちゃん、…ごめんね。」

莉奈は光子に駆け寄って、その華奢な身体を抱き寄せた。光子は泣いた。これまで、その小さな身体を支えていたものが弾けて飛んだように、莉奈に寄りかかって泣いた。芝居以外で光子が泣くのを見たのは、莉奈も初めてのことだった。暫くの間、二人はそのままでいた。

どのくらい経っただろう、莉奈は光子からこれまで受けた仕打ちについて、その心情を慮りつつも聞いた。中には莉奈が光子を引き立て役にしていると言ったものあった。それは心から光子を尊敬する莉奈にとって、到底許せるものではない。そして、莉奈は虐めの告発を決意した。自らの所用などはとっくに放棄していた。この事態を前に看過など、到底できなかった。

「私、この事を先生に話すよ。」

「それは!やめた方が…。」

「…わかってる。でも、私がそうしたい。その結果が悪いものだとして、それはその時考えるよ。」

莉奈の眼差しは本物だった。光子は莉奈に応える。

「ありがとう。…そうだね。その時は一緒に考えようね。」

こうして、莉奈による虐めの告発が行われた。証拠が残っていたため学校側は即座に、かつ穏便に対応した。効果は想像よりも覿面で、いや、不気味なくらいの方が正しいだろう。次の日から、光子への嫌がらせはすっかりと止んだ。


光子への嫌がらせが止まって、一週間と少しが経っていた。驚く程に何も起こらず、莉奈はすっかり警戒を解いていた。

「んんーっ、今日は青空が広いね。雲一つないよ。」

「そうだね。」

大きな伸びをした莉奈の隣を、光子も歩いていた。朝日は確かに心地よく、一日の始まりとして申し分ない。二人は昨日と同じように校門を通り、いつものように校舎に入った。

だが、いつも通りそれぞれの下駄箱に向かうということはなかった。光子が莉奈から離れなかったのだ。

「みっちゃんどうしたの?」

そう問いかける莉奈を置いて、光子は靴を脱ぎ、下駄箱の陰へと駆け寄った。すると逃げるような足音が聞こえて、莉奈は状況を理解した。

「莉奈ちゃん…。」

光子は莉奈をじっくりと見て言った。重く緊張感のある語り口に、唾を飲み込んで頷く、そして莉奈は慎重に、自らの下駄箱へと手をやった。

少し開けただけで分かった。沢山の便箋が入っているということは、恐らく、床に散らばるよう詰め込んだのだろう。そして、それを見て笑うつもりだったに違いない。これは報復だ。それを確信した莉奈は覚悟の眼差しで下駄箱を睨むが、光子が莉奈に歩み寄り彼女を宥めた。そして努めて冷静に、光子が鞄を受け皿にして、それらを回収した。下駄箱の中が綺麗になると、光子は鞄を閉じて踵を返し、莉奈の手を取った。

この日、二人が上履きを履くことは、無かった。


中学校の近くにある神社。ひとまず二人は便箋の内容を確認していた。「同性愛者」「キモい」「エセ芸能人」「調子に乗るな」等の罵詈雑言が書かれていた。それは二人にとって幼稚なものに思えた。

「ねえ、どうして逃げたの?」

莉奈は光子に問いかけた。彼女は警戒心こそ緩んでいたが、報復に対しては応えるつもりでいた。

「あれから考えたの、結局、学校が対処して嫌がらせが収まっても、普通の生活に戻るわけなんかないって、昨日まで嫌がらせを楽しんだり、見て見ぬふりを決め込んでた人と笑顔で挨拶できるわけないじゃない?それで思ったんだ。普通に中学校に通うことが出来ないなら、無理にしなくてもいいんじゃないかって。だって、ただの格好つけでしょ。勿論、莉奈が私のそれを認めなかったように、私も莉奈に虐められて欲しくなかったこともあるよ。」

光子の返答に、莉奈は深く頷いた。

「やっぱ、みっちゃんは凄いなあ。…そっか、格好つけなんだ。皆と一緒に、学校に通って、普通でいることは。」

瞬間、莉奈の瞳は自由な空を映した。

「確かにね。」

莉奈は、何かが凄く腑に落ちた様子でそう言った。

暫くの間、二人は空を見つめていた。同じ場所から、同じ空を見ていた。穏やかな静寂の遠くに、学校のチャイムが響いた。すると莉奈は良心が見え隠れする口調で切り出した。

「はあーあ。とは言っても、サボっちゃったね。学校。」

「ふふっ、そうだね。…でも、私は楽しいよ?変かもしれないけどワクワクしてる。」

「不思議だね。それは私もだよ。」

二人の間に静かな風が、一つ吹いた。木々の葉音、空には真新しい飛行機雲が一筋。

「明日から、どうしよっか?」

莉奈は、大きく伸びをしながら訊ねる。

「取り敢えず…保健室登校を交渉しようかと思ってる。二人とも虐めの証拠はあるし、先生たちは隠したがるだろうから、出席とかの話は簡単に詰めていけると思うよ。親もまあ、先生が隠すならごまかせると思う。」

そう答えた光子は、莉奈に向き直った。

「ごめんね、私のせいでこんなことになって。莉奈ちゃんは、絶対に充実した青春を送れたのに…。」

光子は深刻な表情だった。神社の雰囲気も相まって、沈黙は重さを増す。このままシリアスな空気で話は進むと思われたが、莉奈のリアクションは、それを覆す意外なものだった。

「あっはははっ!そこまで思ってくれるんだ。やっぱ凄いね、みっちゃんは!」

「えっ何、どうして?」

莉奈の豪快な笑いに、光子は戸惑う。

「私ね、今はただ明日も学校サボってこんな感じがいいなあって思って訊いてた。本当それだけだよ。でもみっちゃんは次の手考えて、その上私の事考えてるんだもん。やっぱ、凄いなあって。」

「もう、莉奈ちゃんったら…。」

「あ!それ!もう莉奈でいいよ。私もこれからみっちにする。」

「そ、そう…。」

「…それとねみっちゃん、一つだけ間違えてる。」

表情を少し真剣にした莉奈は、光子の目を見つめた。

「虐めはみっちじゃなくてやる側のせいだし、私の充実した青春にはみっちが不可欠なの。…だからまだ何一つ終わってないし、寧ろまだまだ始まったばかりだよ!」

莉奈は言い切った。光子は、勿論嬉しかった。しかし、随分と肯定的な言葉を聞いていなかったせいか、少しの間返事を探して黙ってしまう。その沈黙の中で、漸く照れくささが追いついたのか、莉奈は顔を逸らしてしまった。

「莉奈ちゃ…。」

光子は反射的に言葉を走らせた。面と向かって返事をしたかったのだ。その意図を汲み、莉奈がそうっと向き直ると、真剣な雰囲気が漂う。

「…莉奈、それ、私の間違い二つじゃない?」

光子はそう言うと、雰囲気からずれた自らの冷静な指摘に思わず吹き出してしまった。そして、すぐに笑い声は二つになった。莉奈も笑ったからだ。照れくさかった。言った方も、言われた方もまた。

「あーあ、何だかおかしいね。」

「そうだね。」

二人はもうすっかり学校に戻る気をなくしていた。

その後も彼女達は、誰かに咎められるまでと、またなんの気ない世間話を始めていた。随分と長い間、二人で話をしていた気がする。親に持たされた弁当も望外のピクニックに消費されてしまった。だが、太陽はまだまだ高くにあり、二人は今が何時なのか気になり始めていた。

二人はもう神社を出ようと話をまとめ、行く宛を考えたが、結局、帰路につくこととなった。家の近くまで帰っておくほうが下校するほかの生徒に合わなくて済む。それは合理的な判断だった。

帰り道、莉奈はちょっとした事を思い出した。

「ねえ、私からも変なこと聞いていいかな?」

「からも?…ああ、うん、いいよ。」

「みっちはさ、明日世界が滅んだら、嬉しい?」

それは全く唐突で変な質問だった。しかし、光子はその意図をはかることができた。今と明日以降を思う、刹那的な感情の質問だ。彼女は一息ついて応えた。

「嫌だよ。だって別に私達だけがこの世に居るわけじゃないもの。」

光子はそう答えた。莉奈はあまりにも優等生なその答えに、少し呆れた。もう少し我儘でもいいのにと感じていた。

「そうだね。」

昼下がりの歩道をゆっくり歩く二人には、またひとつ、とても穏やかな風が吹いた。


この日以降、二人の保健室登校は卒業まで続くこととなった。虐めの隠蔽を盾に三者面談等では、架空の充実した中学校生活を、二人の両親に伝えさせた。また一方では、芝居の仕事を中心とした生活にシフトすることで、様々な学校行事を誤魔化した。二人が作り上げた結界は、三年間崩れることは無かったのだ。学校にとっては皮肉なことだが、彼女らの成績が普通に授業を受けている者達より良かったのも、この成功を一助した。

この三年間で二人は、一つの結論を出した。それは、同じ高校には行かないというものだ。特殊な生活を経て、二人の思考は大衆のそれより自由なものになっていた。つまり、仲が良く、学力も同程度なら一緒に居ればよい、といった安直なレベルを越えた判断ができたのだ。苛烈な運命の中で、彼女等の人生に対する思考力は、確実に成長を遂げていたのだろう。こうして二人は別々の高校に進学し、女子高生となった。


二人の高校生活は概ね順調に過ぎた。特筆すべきことと言えば、光子が福祉の道を志し始めたことだろう。

そのきっかけは何気ないところからだった。

「ねえねえ、光子ちゃんは決めた?今度の職場体験。」

「うん。ちょっと、考えたけど…。」

手元の紙には県立盲学校の文字。この時は、別段行きたかった訳では無かった。これには別の理由があったのだ。職場体験には、同じ場所を選んだ人達で集まって行く決まりがあった。光子はそれが嫌だったのだ。同級生のことを嫌いな訳でも、虐められている訳でも、コミュニケーション能力に自信が無い訳でもなかったが、彼女は学校文化特有の区分けに関わるのを避けたがったのだ。

「盲学校か…。光子ちゃんって本当変わってるね!」

悪気はなかったのだろう、同級生は無邪気な笑みでそう言った。光子はそれに、愛想笑いで返した。

乗り気でなかった盲学校での職場体験は、予想と裏腹に充実した。

卓越した立ち振る舞いを身につけていた光子は大人気だったのだ。久々の打てば響くといった状況に、光子はとてもやりがいを感じていた。特に彼女の朗読劇は好評で、そのプロレベルの腕前にスタッフ達もこっそり見に来たほどだった。

この経験が鍵となった。長い間、解決しようとしてこなかった外見という問題に答える術として、光子は視覚障害者に対する福祉活動を見出したのだ。そして、全ての日程を終えた日の帰り道、彼女はある覚悟を決めて、所属する劇団と莉奈に連絡を入れた。

「莉奈、あの日の約束覚えてる?」

 それは二人が幼いころにした。壮大な夢、無邪気な約束の事だ。

「覚えてるよ。二人、ハリウッドのレッドカーペットでしょ。」

「懐かしいね…。お陰で随分、頑張れたよ。」

「過去形にしちゃうんだ。どうしてよ?」

莉奈は残念そうに問うた。昔に比べると、遥かに察しの良くなった莉奈に光子は感心した。

「ごめんね。私、他にやりたいことができちゃった。」

「うん。」

「ちゃんと会って話したいから。また週末、市民会館で。」

「…うん。」

 最後の返事をした莉奈は、やはり悲しそうだった。

光子が電話を切ると、空には夜が迫っていた。まるで二人の約束に緞帳が降りるように、けれども、彼女が悲観することは無かった。きっと美しい星空の先には、新しい希望の明日が待っているのだろうと、もう、分かっていたから。

それから後のことは、最早それほど語らずとも検討がつく程度の事だった。同じ大学に通うことだけは様々な話し合いがあったが、それはこれ迄の経緯に比べると瑣末なことだ。結局、彼女達は同じ大学へ進学して光子は春斗と出会ったのだった。


時は今へと帰る。ことのあらまし、ここに書かれたものよりも随分とマイルドにされた光子の歴史が、本人によって語られていた。

余りに控えめな部分には、莉奈の光子自慢が入ったりもした。いつの間にか時刻は昼を少し回っていて、莉奈は懐かしむように、春斗は興味深そうに時折点字を打ちながら、健吾はここに居合わせたことを少し申し訳なさそうに、光子の話を聞いていた。

「あ、もうお昼を少し回ってますね。すみません。つい話し込んでしまって。」

光子は時計を見てそう言った。

「いや、元々そういう話でしたし。」

春斗はそう応えて続ける。

「でも、良かったです。」

「えっと、何がですか?」

「ほら、みつこさん偶に極端な遠慮をすることがあったり、人気の多いところで離れたりするから。なんて言うか、僕もちょっとさ…。」

春斗は目が見えない分、余計にそういうことで壁を感じ、寂しかったのだが、健吾の手前格好をつけてお茶を濁す。

「あっ…ごめんなさい。」

「いや、いいんですよ。その理由が分かったから。それと大々的に昔話なんて、やっぱり少し変かなって思ってたけど。こうして意味が生まれて良かった。」

春斗はそう言って、肩の力を抜いた。そして、お茶を一口飲むと安堵の息をついた。

「…あのう。」

次に口を開いたのは健吾だった。

「光子さん。今朝は、その…失礼しました。いや、話を聞いてからでは、恐縮なのですけども。」

彼はそう言って、光子が春斗の彼女ではないと顔で決めつけたことに対し頭を下げた。確かにそれは、光子の寛容さを知ってからでは卑怯なことだ。だが、彼女を苦しめてきたことで、自分も近しいミスをした。健吾には、その事で苛まれるような、確りした良心があった。

時計の秒針が、コツコツと響く。

「えっと。何かありましたっけ?」

光子がそう言うと、春斗が噴出した。慣れていいものに慣れたのか彼女は本当に思い当たらないようだ。莉奈も、思わず表情を崩して健吾のためにフォローを入れた。

「ほら、席、決める時の。」

結構なヒントだが、それでもなんの事だろうか、と光子は暫く思案を続ける。

「…ああ!えっと、全然気にしてないですよ。気持ちは分かりますので!」

漸く合点がいった様で彼女はそう応えた。しかし、言葉のチョイスが少しおかしく、それは一層の笑いを誘う。

「いや、気持ちわかっちゃっていいの?それは。」

莉奈が反射的にツッコミを入れると、四人揃っての大笑いになった。和やかなムードに包まれる一室、そこには真昼間の陽光が差し、晩秋の寒さなど全く感じさせない暖かさが広がっている。そんな部屋の一角では、フクロウの親鳥の置き物が優しい目をして四人を見守っていたのだった。

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