光の中へ消えた~Left into lights~⑥

千世が迷子になってから一週間、光子は大学と施設とを東奔西走する生活にも慣れ始めていた。幸か不幸か、後期の始まりという時期に利用者との接近禁止を受けたことで、施設での業務負荷を抑えられたことが一助となっている。秋風の中を走るバスに揺られ、光子は今日も施設へと向かっていた。

「ねえみっち、彼氏とは最近どうなの?イイ感じ?」

莉奈は、浮かれた声で光子に訊ねた。

「彼氏じゃないって、…お話する頻度が増えたくらいであれからは何も無いよ。」

「ふーん。そうなんだぁ。」

「そうだよ。」

ぶっきらぼうに光子は言葉を投げ捨てた。現状に慣れたとはいえ忙しい身、恋の話に現を抜かしている状況ではなかった。唇を尖らせている莉奈を邪険に扱いながら、光子は今時珍しい紙の手帳に書かれた午後の予定を確認していた。

「みっちさん、みっちさん、休み明けてから付き合い悪くねえですかい?」

莉奈は冷たくされてもめげなかった。その手でつんつんと光子の腕をつついて、かまってもらおうとしていた。

「もう、…仕方ないじゃない。ミスもしちゃって、余裕ないんだもん。」

 その手を払いのけ、光子は応えた

「えー?私は実習増えたのにこうして遠回りして帰るんだぞぉ?レポートだって溜まってるんだぞぉー。もう少し気合い入れて人付き合いしてくださいよ。」

 やり方こそ鬱陶しいものだが、これは実際、莉奈なりの気遣いでもあった。彼女は光子がインターンシップの失敗で気落ちしていないか心配しているのだ。

「ふふっ…ありがとね。」

光子がそれを察して言うと、バスのアナウンスが施設の最寄り駅を告げた。

「あ、私次だからあの人の話はまた今度ね。」

「あらま、彼氏の話は撮れ高無しかぁ。…じゃ、頑張ってね。」

「莉奈ちゃんこそ、レポート頑張ってね。」

「うっ、現実の話はやめてよぉ!」

莉奈の嘆きが聞こえると、光子はバスを降りた。

久しぶりに莉奈と話したおかげで、光子は気持ちがうまく切り替わったようだ。この日の午後、彼女は利用者との接近禁止が解かれた初日の業務を集中してこなし、無事、終えることが出来たのだった。


帰り際、光子に話しかける声があった。

「光子ちゃん!私ももう上がりだから、ちょっと待ってくれるかな?」

飯山だ。

「珍しいですね。現場に復帰してやる気満々だろうと思ってました。」

「ああ、まあ…ね。」

「もしかして、豊田さんのせいですか?」

「いや、まあそれは…半分半分かなっ。」

後で話すと言い残し、飯山はロッカールームへと入っていったため、光子は廊下で待つこととなった。壁にもたれて一息つくと、少し不思議な気持ちになる。それはおそらく施設で緊張を解くことが殆どないからだろう。いざリラックスしてみると、その風景は新鮮に映った。

「お待たせ。」

「あっ!はい。」

飯山の声に少しびくりとしてしまい、光子はからかうように笑われてしまった。

「何、びっくりした?」

「ええ、少しぼうっとしてました。」

「あらそう、じゃあ光子ちゃんだって珍しいじゃない。」

「だって…?」

そう言って、少し前の会話に思い当たった光子は、合点のいった表情を見せた。

「そうですね。」

光子がそう言うと同時に、二人は施設を出た。

「なんだか新鮮ですね。こうして、施設の人と外に出るの。ふふっ、こんな短い間に珍しいことばかりです。」

「えっ、そうなんだ。他のインターン生とはないの?」

「そうですね。担当の人が違うと、フロアや棟が違うこともあるじゃないですか、だから帰る時間もバラバラで、連絡先交換もしてませんし。そもそも施設の人に括ってませんよ。」

「確かにそうよね。…じゃあちょうど良かった。」

飯山がそう言うと、光子は不思議そうな顔をした。

「実はね、今週の金曜日、インターンシップ最終日じゃない。まあ正直言ってさ、私達も人出が増えて色々と助かったからお別れパーティーをやるつもりなのよ。段取りがギリギリになっちゃって今日まで言えなかったけど、何とかなりそうになったし。」

「本当ですか!ありがとうございます。」

そう言って光子は丁寧なお辞儀をした。

「…光子ちゃんのそういう所、感心するなあ。私なんかへぇーで済ませちゃうかもしれないもの。」

「あはは、えと、ありがとう…ございます。」

光子が、照れのせいかぎこちなく応えると、ふと頭をよぎる顔があった。豊田だ。

「えっと、その…パーティーには豊田さんも出るんですよね?」

「ああ、安心して…って言うのも変だけど、出ないわよ。プレミアムフライデーだから帰るぞ。って言ってたもの。」

思わず吹き出す光子に、飯山は続けた。

「笑っちゃうよね、で、私がとうとうウチもですか!って言ったらね。ちょっと説教されちゃった。人を束ねる立場のお前が率先してやらなきゃ下っ端に浸透しないだろ。ってね。いや、それはそうだけど、じゃあ業務減らせよってね。導入に前向きなことすら知らなかったわよ。」

光子は適度に相槌を打っていた。そのおかげか飯山の語りはてか段々とヒートアップしていく。

「その後もさあ…。」

ここから暫くは、飯山の独擅場となった。

先週一週間、飯山は豊田の補佐をしていたのだが、その業務は屋外歩行演習の資料見直しだけに留まらなかった。意外なことに、豊田は飯山のリーダーとしての資質不足を認識していたのだ。例えば、飯山は他のスタッフを一方的に信用しないで仕事を奪い、それで自身の業務が詰まってくるとヒステリーを起こすことがあった。豊田はそれを指摘し続けてきたのだが、飯山は長い残業時間を理由に、ただの不当評価だと論点をすり替え、聞く耳を持たずにいた。この点を改善するにあたり、飯山を補佐につける一週間は、豊田にとってチャンスだった。迷子事件を止められなかった反省の念がある今なら、飯山が話を聞くかもしれない。そう考えた豊田は、追加の罰としてリーダー教育を施していたのだ。飯山が現場を離れた時、誰がどのように動くのか、何を教えないといけないのか等をまとめたり、リーダーは必ずしも現場第一ではないという考え方を身につけさせていたのだ。飯山からはこうした一週間の内容がひっきりなしに語られた。その語り口は総じて愚痴っぽかったが、教育の内容には概ね納得しているらしく。ひとしきり話した飯山は一息つくと、思い出したように口を開いた。

「だから、今日の定時上がりはそういうことなのよ。」

「…ああ!それでですか、安心しました。こっぴどくやられて骨抜きになってたらどうしようかと、まあ飯山さんに限ってそれはないと思ってもいましたけど。」

「んー?なんか、それはなんか失礼じゃない?まあいいけど。」

光子はこれに苦笑いで応えた。

「まあでも、私も不器用だったなって思うんだ。リーダーになって立場が変わったのに、やり方を変えないで…やる気ばかりではまかりならないのね。」

飯山は、これまでの自分を恥じるように言った。光子はどこまでもこの仕事に、真摯な飯山に感銘を受ける。

「難しいですよね。…でも。」

「でも?」

「凄いです。社会人って、トラブルが起きても超えていくんだなあ、変わっていくんだなあって思いました。」

光子の言葉に思わず笑い出す飯山、急な笑いに動揺し光子は慌てて問いかける。

「え、私何かおかしなことを言いました!?失礼があったらすみません。」

「いや、失礼なんてないよ…でも、あの会議でそう思ったんだって思うと笑えちゃって。」

「あ、あー…。」

そう言いながら光子が微笑むと、飯山もまたつられて表情を崩した。そうして朗らかな空気になった頃合に、二人は目的の駅へに着いた。電車が一本通る音が聴こえて、ふと飯山は疑問に思っていたことを口にした。

「そう言えば光子ちゃん。最近は施設にバスで来てるよね。電車じゃなかったっけ?」

「ああ、大学からはバスが楽なんですよ。家からだと電車なんですけど。」

「そっか、大学!もう今月から始まってるんだもんねえ、大変だ。」

 飯山は感心して言った。

「そんなことなかったですよ。特にこの一週間は。」

光子は含みを込め、笑顔で答えた。

「なんだ、やっぱり光子ちゃんも凄いじゃない。トラブル、ちゃっかり乗り越えちゃってるんだもの。」

飯山は冗談も言えるほどの光子に尚更感心する。不意の誉め言葉が照れ臭かった光子はすぐさま誤魔化しの言葉を返す。

「もう、からかわないでくださいよ!」

そうして、二人は笑い合った。その後は、何気ない雑談を交わしつつ、二人は帰宅する人でごった返した駅構内に溶け込んでいく。そして暫く歩くと、飯山が乗る電車の改札に辿り着いた。

「現場復帰初日にして、インターンシップ最終週初日、お疲れ様!」改札を通った後に、飯山は光子に向き直って言った。

「はい、お疲れ様です。」

光子は笑顔で応え、小さく手を振った。飯山と別れ、一人になると、駅の喧騒が光子を包んだ。

「お別れ会かぁ…。」

家路を急ぐ人達の中で一人、光子は感慨深そうにひとりごちる。彼女にとって沢山の貴重な経験を与えてくれたインターンシップ、その終わりは刻一刻と近づいているのだった。


どんなに願っても、時間は過去へと進まないものだ。

とうとう金曜日の朝が光子にやってきた。

「おはようございます。」

光子達インターンシップ生は初日に集められた部屋で最終日の説明を受けていた。光子は説明をメモに取りながら、時折窓の外に目をやって、今日で見納めの風景を心に留めていた。説明が終わり、各インターンシップ生はお世話になったスタッフに挨拶するため部屋を出る。合わせるように光子も部屋を出て、豊田の執務室へと向かった。

その扉の前に立つと、やはり緊張してしまうものだ。光子は胸に手を当て、深呼吸してからドアをノックした。

「おう、お前か。」

時間に余裕があったのだろうか、豊田は態々扉を開けて彼女を迎え入れた。

「はい、あ、えーっとですね。」

「最終日の挨拶だろ?別に構わねぇよ、なんもしてねえからな。」

そう言いながら席に着いて、豊田は電子タバコを咥えた。

「いえ、豊田さんのお陰で色々と教えて貰えました。ありがとうございました。」

 光子はそう言って、深く丁寧にお辞儀をした。

「はっ、なんだそりゃ嫌味か?…言っとくが、最終日だけ優しくなってお別れムードなんてやらねえぞ。」

「私が伝えたいだけですからそれで充分です。ただの自己満足ですよ。」

光子は努めて冷静に述べ、足早に部屋を出ようと踵を返した。

しかし、次の瞬間、予想外の行動に出たのは豊田だった。

「待て。」

光子はびくりとして体を止めた。ただ言葉の整理が間に合わなかったのか、豊田の方は呼び止めたにもかかわらず、電子タバコを置き、眉間に手を当て暫し考え込んだ。けれども、そう長い間を置くことなく、その口を開いた。

「なあ、お前はどうしてこの仕事にそこまで意欲的なんだ?女の子なら菓子職人とかパン屋とか花屋とか…後は服屋か。もっと他にあんだろ?」

光子は戸惑った。質問の内容が光子にとってばつの悪いものだったからだ。今度は、長い沈黙があった。いや、本当はそれも数十秒程度だったのかもしれない。光子は何度も小首を傾げて悩んだ後、覚悟を決めた様子で応えた。

「正直に言うと、目の見える人に悪く扱われてきたからです。」

これを聞いた豊田は刹那、静止した。光子の不美人な顔を思えば、言葉の真意など察するに余りあった。だが、悪手を打ったような様子は見せない。真意は、まだ先にあった。

「そうか。」

豊田は椅子を回しながら応え、改めて光子に向き直った。その表情は真剣さを湛えていた。

「お前…いや、下柳君、君にもう一つだけ質問がある。答えてくれ。」

鋭い目で豊田は光子を睨んだ。

「なんでしょう。」

怖気付くことなく、光子は返す。

「君の本当の夢は、この仕事に就くことだったか?」

 光子の答えは直ぐ出たが、真意を探って暫し間を挟む。

「…違います。」

結局、彼女は正直な答えを返すしかなかった。

その答えを聞き、豊田は強ばった雰囲気を解いて、背もたれに身を任せる。そして彼はどこか満足げな表情をして、電子タバコを咥え直した。そして暫くの間、何かを思い出すような表情で窓の外か、或いは窓に移る自分の顔か、そのいずれかを見ていた。

「言い難い事を訊いて悪かったな。もう行っていいぞ。…それと、人生頑張れよ。」

彼は咥えていた電子タバコを外し、穏やかな口調で言った。その雰囲気に光子も少しだけ緊張を解く。

「はい、ありがとうございます。」

光子は明るくそう応えると、今度は惜しむような速さで扉に向かい豊田の執務室を後にした。南から差す陽の光がまだ暖かい一室に残された豊田は一服を再開する。

「夢か。」

彼はそう呟くと、一つ大きく伸びをして、自分の仕事へと戻っていった。

太陽も沈み始めた頃、仕事を終えた光子は食堂の壁にもたれながらお別れパーティーの開始を待っていた。夕暮れを眺めながら、準備に奔走するスタッフを見ていると、明日もここで、或いは、この先もずっとここで働く人の事が、何か不思議なもののように感じられた。

申し出た手伝いは当然のように断られ、やることも無い時間、光子はそれをよほど無駄にしたくなかったのか、忘れ物はないかと鞄の中を確認していた。

「わっ!」

突然の大声に、びくっとして固まる光子。

「もぉ~、驚かさないでくださいよ。飯山さん。」

振り向くと豪快に笑う飯山がいた。

「まぁいいじゃない。それよりも退屈でしょ?話し相手連れてきたわよ。」

そう言うと、飯山は繋いでいる手を引いて千世を導いた。そして二人は並び立つ格好となった。

「千世ちゃん、今日も訓練と勉強お疲れ様。」

光子は、つい先程まで仕事を通じて一緒にいた千世に労いの言葉をかけた。

「それじゃ、私は行くから、また後でね。」

千世の返事よりも先に、飯山がそう告げると、彼女は忙しそうにこの場を去って行く。千世はタイミングを奪われてしまったこともあり、次に出す言葉を探すことになった。千世と光子の間には、暫くぎこちない空気が流れた。

「みつこさん、インターンシップ?お疲れ様でした。」

「ふふっ、ありがとうございます。」

「それと、ご迷惑、お掛けしました…。」

「いいえ。」

最終週、光子は千世の担当に戻っていた。会話も迷子事件以前と変わらないように行っていたのだが、光子には勘づいていることがあった。それは千世が、態とそういう風に話しているということだ。

「…千世ちゃんさ。最近無理してない?」

光子がそう言うと、千世はため息をついて応えた。

「なんでもお見通しなんだね、みつこさんって。」

「そんなことないよ。」

「あるって、あれから私頑張ってるもん。早く自立しなきゃって。」

千世はふくれっ面をした。

「やっぱりバレてるんだなって、思った。」

「ふふっ、…千世ちゃんは大丈夫。焦ることないよ。」

光子はそういいながら微笑んで、千世の頭を優しく撫でた。千世は口角を上げてこれに応じ、二人は暖かく穏やかな雰囲気に包まれていく、筈だった。

「そうだよ。焦らなくていい。」

突然割り込んできた声は、強大なインパクトを伴って二人の醸す雰囲気を吹き飛ばした。二人は整理もつかないまま、声の主の方へ振り向く。

「春斗さん!びっくりするじゃないですか。」

「先生…。」

「あっはっはっ、ごめんごめん、驚かせちゃったかな。何分声しかわからないもので。」

優しく微笑む春斗がそこには佇んでいた。

「二人とも仲良くなったんだね。」

「はい。」

光子は笑顔で答えた。

「まあ、仲良くなり過ぎて問題を起こしたこともありましたけど…。」

「また、そんなこと言って。」

千世と光子のことを慮りながら、春斗は言葉を探した。

「ちよちゃんは一週間前のこと、考えちゃってるんだ。何でかな?」

如何せん春斗には情報が足りず、彼は千世に問いかけた。思えば態々踏み込む必要はなかったと直ぐに気付いたが、出した言葉はもう引っ込まなかった。

「うーん。あの後ね、顛末書ってやつ書いてる時に言われたの。大人の仕事は遊びじゃないんだって。」

「あはは、私も痛感したなあ。」

「確かにそうだなあって思ったよ。で、それと同時に気づいたの。私がこれから関わる人、仕事成分ゼロの人居ないじゃん、って。だって、目が見えないとどうしても、それをケアする労力がかかっちゃうから。…悲しいけど。多分本当にさ。」

千世の言葉を聞いた二人は表情を真剣なものへと変えた。二人とも何かを言わなければと思ったのだが、千世の言葉が早く続いたことで、それは制されてしまった。

「でも、それならそれで、私も大人になるしかないなって思ったの。チャンスにしていくしかないことくらいは、解り始めているつもりだし。」

それは想像よりも遥かに逞しい言葉だった。安心する二人、千世はさらに言葉を続けた。

「でもそう考えると私の成長は遅いなあって思って、…それがもどかしいって言うのかな。とりあえず、一生懸命やってみるしかないと思って頑張ってみてるけど、そうそうやることは変わらないし…。」

不満げな千世の表情とは対照的に、二人は微笑みを称えながら、その言葉を聞いていた。

「千世ちゃんって、凄いよね。ね、春斗さん。」

「うん。なんだろう、乗り越えてきた事の数や質のせいかな、年齢よりもずっと逞しくて考え方が確りしてると思うよ。」

二人がそう言うと、千世の耳は真っ赤になった。そんな照れを隠すためか、少し慌てた様子で言葉を放つ。

「そんなことないですって、すぐ調子に乗ってみつこさんにだって迷惑かけたばかりですし。」

「そこだよ。もう原因が解ってる。根にある考え方が凄いんだ。いくつになっても、そういう考え方が身につかない人も居る。自分に悪い所があるって心の奥底から思って、自分を変えようとしてみるっていう、ね。」

千世は何か言いたいところなのだが、言葉が見つからない様子でいた。

「それにね、僕は視力を失ったのが今のちよちゃんより一つ歳をとった頃だし。そう考えたらやっぱり充分早く成長してると思うよ。」

「それはただ、失明したのが早いだけじゃないですか?私は人に迷惑をかけたくないんです。」

千世は漸く言葉を返した。

「人に迷惑をかけたくない、か。気持ちはわかる…つもりでいるよ。僕の話になるけどさ…自分の不幸を受け入れた強さ、それを信じ過ぎて自分の成長スピードをもどかしく思うこともあったからさ。」

春斗が恥ずかしそうに言うと、千世は自身の中で解れていくものがあるのを感じた。

「先生にもそんな頃があったんですね…。」

「あるに決まってるさ。…多分、誰にでもある。皆が皆、弱い自分を受け入れて成長しようとする限りは。それとね、ちよちゃん…人は少しずつ成長していくものだよ。忘れないで。」

千世は、春斗の言葉に力強く頷いた。

「あとね千世ちゃん。私はもうインターンシップ生じゃないから、一学生として言うけど、私達は友達だよ。もうお仕事は関係ないし、こうして話してたいのは千世ちゃんが好きだから。」

光子はそう言って、千世の空いた手を握った。

「ありがとう、みつこさん。」

千世はその手を握り返した。

「あ!そうそう。」

千世はそう言うと、もう一方の手から下げていた紙袋を光子に差し出した。

「これ点字盤です。正直、やっぱりみつこさん居なくなるのは寂しいから、文通したいなって。買ってもらったんですけど…いいですか?」

「勿論だよ、…でも点字かぁ、間違っちゃわないかちょっと不安かも。」

光子はそう言って、紙袋を受け取った。

「あー。そうだよね…。」

千世は少し残念そうにした後、少し考えニヤリと笑った。

「折角だから先生に確認してもらいなよ、連絡取りあってるんでしょお?送る前に添削してもらうの。」

「いやいや!それは流石に…。迷惑でしょ。」

「そんなこと言ってぇ、これからも光子さんは先生と会うんだから、ついでじゃない。先生もそれくらいの余裕はあるでしょ、ねえ先生?」

楽しくなってきた千世は、悪戯な笑顔で春斗に訊ねた。

「そうだね。みつこさんが良いなら。僕は大歓迎かな。」

 春斗は思いの外慌てずに応えた。

「ほんとですか?」

「嬉しいくらいです。」

春斗はそう言って微笑んだ。

「はーい、みなさーん!」

そんなやり取りをしていると、いつの間にか準備が整った食堂の一角から、飯山の声がした。

「…っと、もう始まるみたいだね。席につこうか。」

「二人とも、席に案内しますね。」

光子はさりげなく交わしたこれからも会えるという約束に気をよくしながら、二人を案内した後、自分の席についたのだった。


開会の挨拶が終わり、いよいよお別れパーティが始まった。光子はそれほど多くないインターンシップの関係者、そして一部の利用者と乾杯をし、挨拶を交わす。華やかというには物足りない、ホームパーティの様な会場ではあったが、光子の表情は笑顔に充ちていた。

彼女にとって何より嬉しかったのは、インターンシップ中の細やかな気配りに対する利用者からの感謝の言葉だった。光子はこれまでその外見から華やかな活躍をする機会に乏しく、また縁の下で確実な働きをしたとて、評価されないことが多かった。しかし今、それは確りと評価され、感謝の言葉となって伝わってくる。彼女はそのことに、大きな喜びを感じていた。

それと同時に、光子は千世の言葉を思い出していた。それは自らの醜い容姿を千世にカミングアウトした時のことだ。あの時言われた「強い。」「逃げていない。」の言葉、その意味を今、痛感していたからだ。そして、自分が探していた在るべき場所、在り方を見つけ出すことが出来たと彼女は確信していた。至福と呼べるその時間は、やはりあっという間に過ぎ去っていった。パーティも終盤に差し掛かろうかという頃、どことなく優しい雰囲気を纏った白髪の男が光子に話しかけてきた。

施設長の村中だ。

「どうだね、質素なもんだけども…楽しんでくれてるかね?」

村中は目を細めながら光子へ訊ねた。

「あ…はい!えと、とても充実しています。ありがとうございます。」

光子はそう応えながら、丁寧にお辞儀をした。

「そうか、それは良かった。」

村中はそう言うと、優しい笑顔を見せる。

「下柳君には一つ、伝えておきたいことがあってね。パーティも終盤で悪いけど時間を貰えないかな?」

「はい、大丈夫ですけど…。」

打って変わって真剣な顔つきをした村中に、光子は少し不安になった。

「大丈夫、君を責める話じゃないよ、…それというのは、豊田君のことだ。」

その名前を聞いたと同時に、光子の表情は強ばった。

「君と豊田君を組み合わせたのは他でもない私でね。随分と性格面で苦労したと思うから、まずは君に謝りたい。すまなかった。」

「そんなそんな、施設長が謝ることじゃないですよ。」

「それはそうでもないよ。なにか波乱が起きることは分かっていたからね。…君はこの仕事に情熱を持っていたから。」

そう言う村中の目は、遠くを見ていた。

「どういうことですか?」

「…そうだな、この話をする前に豊田君の夢が何か、当てずっぽうでいいから言ってみてくれないかい?」

突然の質問に光子は戸惑った。刹那、豊田に昼間、本当の夢を聞かれたことが頭をよぎる。そこに何かを感じながらも、結局光子はイメージ通りの答えを返した。

「弁護士とか…何かこう、スーツを着てビシッとした仕事ですかね。」

光子の答えを聞き、深く頷く村中。

「今の彼は、やはりそう映るか…。」

村中は寂しそうにそう言って、一つため息をついた。

「彼はね。画家を目指していたんだ。」

光子は予想外も予想外の答えに目を丸くした。少し笑いがこみ上げそうになるが、必死でそれを隠していた。

「才能だってあってね。何せ東都芸術大学に入ったんだから間違いない。」

「えっ、でも確か豊田さんって…。」

「そう、彼は東都芸術大学を卒業することは無かった。…バブル崩壊で豊田家は再建を余儀なくされてね。その結果、彼は愛敬大学経済学部に強制転入させられ、父上の先見によってIT事業を立ち上げるため、奔走させられたんだ。」

光子は言葉を返せなかった。やり甲斐を見い出せる、充実した仕事をすることの大切さは、今まさにこの場で思い知らされたことだからだ。そんな光子にとって、かつて豊田が感じた想いは察するに余りあるものだった。

「まあ、彼は才能という才能を持っていてね。IT部門の立ち上げは上手くいったよ。…でも、彼が久しぶりに描いた絵を観て哀しくなった。共感と独創の比率がもう一流芸術家のそれでは無くなっていたからね…。」

光子は何も言えなかった。才能と望みが合致していたのに、妨害の道を歩まされる苦しみに胸が痛んだからだ。村中は光子の様子を見ながら言葉を続けた。

「その後、彼はすっかり絵を止めて父上が決めた介護事業の立ち上げに関わることになった。この施設なんてのは父上殿の恣意的な親孝行でね…。彼の祖母が、晩年緑内障を患ったから建てたものなんだよ。」

村中はそう言ってため息をついたが、それはパーティの明るい声の中へ溶け込んで行った。

「…そうだったんですね。」

そう零した光子が肩を落とすと、村中はその優しさに感心しながら話を続けた。

「なんだか同情を引こうって話になってしまったね。…別に彼を許せというわけではないんだ。現に彼は横暴であり、それが跳ねっ返りからくる八つ当たりであるということに変わりはないのだから。」

そうだろう、と確認するように目線を送る村中に、光子はぎこちない首肯を返す。

「私が伝えたいのはね。君が大学を出て、どこかで仕事をする。するとね、大抵豊田君のような人が居るものなんだということだよ。」

光子は何となく納得して相槌を打った。

「いやまあ、確かに余程恵まれていればその限りではないのかもしれないが…うん。それは、本質じゃないな。」

「…つまりね、そういう人に会った時、ただ目の前に現れた人、それだけを見ないで欲しいってことだ。」

村中の真剣な言葉に、光子は力強い眼差しで返し頷く。

「人間には歴史がある。誰であっても、例外なく。彼のことだって歴史を知れば、少しは見方が変わったろう?…そういう事を知っておいてほしいんだ。」

「わかりました。」

光子は迷いなく応えた。

「いい返事だね。とかく人間関係は、表層を簡単に判断して終わりにしていいことじゃない。今回はたった三ヶ月だったかもしれないが、今後会う仕事相手とは、特にだよ。」

村中はそう言うと、もう言いきったという様子で脱力し傍にあった机に片手をつき体重を預けた。

「村中さん、ありがとうございました。」

光子は最後にもう一度、村中に綺麗なお辞儀をして、楽しい雰囲気の方へ溶け込んで行った。その背を見送る村中は、微笑みを称えながら机に置かれた枝豆に手を伸ばす。

「本当に、良い子だ。」

村中が放った言葉もまた、誰にも聞かれることなくパーティ会場の暖かい雰囲気の中へと消えてしまったのだった。


楽しかったパーティも終わり、光子は家路についていた。月が照らす人影は二人、もう一人は春斗だ。充実したパーティの帰りに好きな人と一緒など、本来ならば至れり尽くせりと言えるシチュエーションだが、光子にとっては気の置けない状況の延長戦とも言えた。

夜風が二人の間を抜けて、木々の枝葉を揺らすと、どこからともなく秋の香りがしたように思えて、光子は懐かしい気持ちになった。そんな中を雑談を交わしながら駅に向かっていると、春斗は急に立ち止り、言った。

「月が綺麗ですね。」

「へっ!?ああ…えっと、そうですね。」

突然何を言うのかと光子は激しく動揺したが、頭上の月を見て落ち着きを取り戻し、そう答えた。

「本当に綺麗なんだ。」

返ってきた春斗の言葉は、確認するような声色だった。

「えっ?」

「だって見えてないもん。わからないよ。」

春斗は悪戯な笑みを浮かべて言った。光子はハッとして、改めて言葉の意味を理解する。もしそうなら、些か唐突すぎる様に思えたが、彼女にはその真意を確認する以外選択肢が無くなっていた。

「その、じゃあ…漱石ですか?」

「うん。」

春斗は躊躇せずに答えた。

「不安だったんだ。これからまた電話とか、お出掛けとか色んなことを一緒にしたいと思ってるのに、こうして区切りがついてしまったことが。」

「だから急だけど、後悔しないように伝えておきたくなった…僕の本当の気持ちを。」

彼はそこまで言うと、光子に向かって軽く微笑んだ。

「にしたって、回りくどいですよ。妙に文学的だし。」

光子は目を泳がせて応えた。

「ははっ、曲がりなりにも本業は小説家だからね。ペンネーム使ってるからわからなかったかな?七色求夢って言うんだけど。」

春斗の言葉に光子は更に目を丸くした。それは電車の中でも、就寝前にも読んでいた小説の作家の名だったのだ。

「えっ?」

光子の動揺が口から漏れた。暫くの静寂、衝撃の事実を受け止めるのには時間が必要なのだなと、もう一人の自分が考え始めた頃に言葉は思考に追いついた。

「ええっ!?それ私読んでますよ!かなりの売れっ子じゃないですか!?」

愛の告白だけならばまだしも、重なる衝撃のカミングアウトに光子の思考回路は直ぐ様ショートしていく。

「いやいや、本当に?えっ?嘘だ。どうしたらいいんですかね?…あ!新作いつですか?というか今、書いてるんですか?」

光子は絵に描いたように慌てふためいた。

「落ち着いて、とりあえず手を繋ぎましょう。リラックスするそうですし。」

そう言って春斗は、右手を差し出した。

「そうですね!そうしましょう。」

 光子はその手を取る。

「はい、じゃあ深呼吸。」

春斗にそう言われ光子は深く呼吸をした。そして秋の匂いが、その両肺を満たすと、段々と気持ちは落ち着いていった。

「…じゃあ、答えてもらおうかな。」

春斗がそう言うと街路樹の梢が一瞬だけざわめき、その後訪れた静けさは、より一層深くなった。

「僕と付き合ってくれるかい?…これからも、できれば恋人として。」

春斗の放った言葉は静寂をつき破り、月光が降り注ぐ夜の空気を揺らした。その振動は、そう長く無いはずの距離を、音速にとってなんのことは無い距離を、可能な限りゆっくりと進んで、今、光子の鼓膜に衝突した。

「あ、えと…。」

先程よりも遥かに明確な愛の告白に、光子は顔を伏せた。逡巡する想いが湧き上がり、彼女は暫く呆然と立ち尽くした。否、これもまた一瞬だったのかもしれない。本当は直ぐに応えたかったが、彼女には迷う理由があった。

光子はこれまでの人生、幸せを何となく避けてきた。そもそも醜女ゆえ幸せが歩み寄ることも多くはなかった。だからこそ、彼女は自分を諦めることが出来ていた。その事はきめ細やかな気配りや、時にいいように利用されてしまうほどの優しさを、自己犠牲を支えていたともいえる。そしてそのお陰で、彼女は平穏を得ていたのだ。

彼女はわからなかった。告白を受けて自分がどう変わってしまうのか、今までにない欲が出て、平穏な日々がどう変わるのか、有り体に言って不安だったのだ。だから曖昧な告白に終始するならば、その答えもうやむやにしてしまうつもりだった。しかしそれは、もうできなかった。鮮明なる愛の言葉と、確り握られた右手によって、不可能になっていたのだから。そして、光子は覚悟をした。幸せになるということをだ。諦観によって支えられていた従来の強さを放棄して、また人生の表側に歩み出すことにしたのだ。

「私でよければ、よろしくお願いします。」

光子は決意に満ちた表情で答えた。

春斗はそれに微笑み返した。

こうして、二人は晴れて恋人同士となった。この出来事は客観的に見れば、短い間に起きた然るべきことかもしれない。しかし、事実は決してそんな単純なものではなかった。人間には、歴史がある。確かに存在するそれが絡み合えば、相思相愛の二人が恋人同士になることが幸せかどうかさえ、本当は分からないものなのだ。とはいえ、二人は恋人同士となった。今この瞬間だけは確かに幸せで、互いの人生においても大きな節目となったことだろう。そしてこの節目が、予期せぬ波乱の幕開けになるということを、この時の二人はまだ知る由もない。

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