光の中に消えた~Left into lights~④

光子と春斗のデートから一ヶ月半ほど経ち、インターンシップは残すところ一月となっていた。最近の光子はというと、大学が始まったこともあり半日出勤をすることが増えている。これは珍しいケースなのだが、インターンシップ先の施設と大学は同じ『愛敬会』という社会福祉団体に所属しており、こういった勤め方ができることは、このインターンシップの売りの一つだった。

光子はその意欲的な働きから施設の中でも評判になっており、触発されたスタッフやインターン生も居たため、これを残念がる声も多くあったのだが、殆どのスタッフからは信頼を得ていたため特に文句を言う者はいなかった。ただ一人、豊田を除いてのことだ。

インターンシップが終盤に差し掛かったにも関わらず、豊田と光子の関係は殆ど変わっていなかった。光子の方から何度か指示を仰ぐことはあったが、すぐ他のスタッフに回したり、何枚かの資料を渡されるだけのことが多く、結局疎通ミスによって叱責されることが殆どだった。無論、お世辞にも良い関係とは言えず。豊田の光子に対する仕事は誰が見ても粗末なものだったのだが、豊田に文句を言えるスタッフが居ないため、変わりようがなかったのだ。

加えて、豊田が粗末な仕事をしても強く意見されないのには豊田自身の特殊な事情が背景にあった。実は『愛敬会』発足の際に出資を行った資本家のうち一つが豊田家で、彼はそのコネクションを使い役職付きで施設に入っていたのだ。当然彼は現場スタッフよりも強い立場にある。また『愛敬会』の中で豊田家が強い権力を握れるように、経営者としての実績を上げる目的で改善点の多いこの施設をあてがわれていたため、彼が現場を軽視し経営に関わる仕事を選んですることは、施設長の村中も黙認していることだった。そして、尚更質の悪いことに、経営面での改善は順調だった。そのことが彼の悪い態度を助長していたのだ。こうして、改善のないまま共に働いていた豊田と光子だったが、最近は千世の二度目となる屋外歩行実習を前に打ち合わせが増えており、今日もその事で顔を合わせていた。

「はあ…、で?この打ち合わせ要る?」

豊田は基本的なことを確認するだけの打ち合わせに苛立っている様子だ。「ぜ、前回は日程とルートを確認したら直ぐに終わってしまったので、当日の流れと事前危険予測の内容を確認して頂かないと…。」

光子は威圧的な豊田の態度に萎縮しつつも要点を押さえて応答した。

「まあ、前回の例があるんだ。これ、渡しとくから見直しといて、優秀なインターン生さんならできるでしょ。」

豊田は絵に描いたような嫌味を挟み、光子を睨んだ。

「あ、でも、なんかわからなかったら聞いてね。それじゃ。」

最後は伝家の宝刀を引き抜いて、豊田は忙しそうに会議室を出ていった。

こんなやりとりでは、わからないこと自体が明確になるはずもなかった。しかしながら、反論などできる筈もなかった。故に光子は嫌な人との話し合いが終わったことを良しとして、気持ちを切り替え業務に戻るほかなかった。

光子がとぼとぼと廊下を歩いていると、その様子を察したのか一人のスタッフが声をかけてくれた。

「光子ちゃん大丈夫?…また豊田さんでしょ、あの人の言うことなんか気にしなくていいわ。」

光子の右肩を左手で軽く揉みながら、穏やかな声で語りかけるのは現場リーダーの飯山だ。光子に触発された意欲的になった他のインターン生にある程度業務が任せられるようになったお陰で余裕ができ、先月から光子のことを気にかけてくれている。

「ありがとうございます。」

光子は遠慮がちに言葉を返した。

「いや本当によ、やっぱこの仕事…人気の問題なのかな。どうしても熱意のない人が小銭稼ぎに来てるってやつ多くてさ~!光子さんは働くから、助かる!」

これは飯山定番の愚痴だった。確かに飯山は真摯に視覚障害者と向き合う良いスタッフだが、自分以外は熱意がないと決めつける所があった。部下を従える立場上、それは飯山の欠点だ。彼女は人一倍やる気のある下っ端と、人一倍やる気のあるリーダーでは勝手が違うことを理解できていないのだ。

「まあまあ、それは仕方ないじゃないですか。」

光子は自らの愚痴で勝手に癇癪を起しそうな飯山をなだめた。その言葉に落ち着いた飯山は話題を切り替えた。

「そう言えばもう来週だっけ?千世ちゃんの散歩。」

「犬みたいに言わないで下さいよ。…そうです。まあ流石に豊田さんも付くんで…大丈夫とは思うんですけど…。」

「ぶっ!豊田さん付くんだ!…千世ちゃんと光子ちゃんと豊田さん…。あっははっ!それは大丈夫じゃないでしょ…ふふっ。」

「もう、それは言わないでくださいよ。私だって違う意味では不安です。」

光子は冗談半分で返すと、飯山と共に笑っていた。打ち合わせで張った気も、少しは解れたようだ。この日の午後の業務は難なく片付いた。インターンシップ最終月、初めの一週間は打ち合わせの有無こそあったが、こうした毎日の繰り返しで過ぎていった。


屋外歩行実習当日、光子と千世が豊田の部屋へ訪れると豊田が真っ青な顔で電話を受けていた。

「そんな!…いくらなんでも急すぎます。今日は利用者とその家族に説明をした仕事がありまして…日程の変更は難しいんです。…いや、確かに別のスタッフを同行させれば…まあ…、しかしですねぇ…。」

光子は豊田の焦りに呆然となる一方、千世は何となく事態を把握できたのか、その口角が上がっていた。

「はい、…はい。…仰る通りです、ですから私が向かわせて頂きます。予定の方は…何とかしますので…はい。」

豊田はこちらに気づいたのか、何度か目配せをしつつ電話に応え続ける。光子も漸く電話の相手がとても偉い方のようだと理解し始めていた。

「はい、…いえ!寧ろ申し訳ございません。予定があったのは事実ですが、お待たせすることになりますので…はい!ああ、ありがとうございます。では本日はよろしくお願いします!」

電話をしながらお辞儀する豊田の如何にも日本の社会人である一面を見て、光子の中にいる高圧的な豊田のイメージが緩和されつつあったが、電話を切った豊田の開口一番はそれを元通りにするものだった。

「来たかお前ら。」

電話の時とはうってかわった豊田のぶっきらぼうな態度に、二人は心象を悪くした。

「お前って、私利用者なんですけど~!もっと丁寧に接することは出来ないんですか~?」

すかさず千世が反抗し、煽り返した。

「おうおう、嬢ちゃんは反抗期なのかな?全くどんな育てられ方したのか…親の顔が見てみたいねえ!」

「ああっ!?豊田、アンタねぇ…。」

千世の生い立ちを知っているとは思えない。加えて大人の子供に向けてする発言とも思えない豊田の言葉に怒り心頭の千世、光子が手を握ってなければ声のする方に飛びかかってもおかしくなかった。

「二人とも!…今はそれどころではないんですよね?豊田さん。」

光子は二人を抑えながら、電話の内容とこれからどうすべきかを聞きだそうとする。すると落ち着いたのか、はたまた思い返してまた余裕が無くなったのか豊田は向き直って現状を語り始めた。

「そうだな…。まあ…まず謝るとしよう。すまない。…これは屋外歩行実習へ同行できんことに関してだ。」

「態度でかっ。」

千世がぼやき、豊田は舌打ちをする。

「お電話聞いてました。であれば誰か代わりのスタッフが同行するのでしょうか?」

光子は話を進めようと言葉を選んだ。

「それが問題なんだよ…。客先要件と手続き上の関係でこいつの実習は延期したくないんだが、実は代わりに同行できるスタッフが居ないんだ。」

豊田は流石に参ったという様子で項垂れていた。しかし、膠着という訳にもいかない、判断は急を要していた。この場に居る三人全員がその事は承知していた。すると、簡単なことじゃないといった様子で千世が一つの提案をした。

「私とみつこさんの二人で行くのはダメなの?」

「ダメに決まってるじゃないの!」

豊田が口を開くよりも速く、光子が声を上げた。いくら働きぶりの評判が良いといっても、たった数ヶ月の経験しかない光子だけで訓練中の失明者を連れ歩くのは明らかに危険だ。ましてや千世は年端もいかない女の子、万が一の事を考えれば尚更控えるべきことだった。しかし、次の瞬間、豊田から意外な言葉が飛び出た。

「あくまで私は中止すべきと考えている。…が、利用者様ご本人がそうしたいなら、ありかもしれんね。」

豊田は何か思惑を臭わせながら二人を睨み、暫くして光子に目をやる。「光子くん、勿論強要はしない、飯山くん辺りに声をかけて中止の手続きをしてくれてもいい。…だが場合によってはそうしてやってもらえないだろうか?」

光子は驚き混乱した様子で絶句した。

「いいんじゃない。…とりあえず時間的にも解散しないと不味いのよね?豊田さん?」

千世は頬杖をつきながら話をまとめようとした。

「ああ、もし万が一行くのであれば、くれぐれもトラブルだけは起こさんように頼む。内容は前回と同じだから滅多ないとは思うがね。」

そう言うと豊田は席を立ち、ちらちらと光子の方を見ながらも荷物をまとめ始めていた。光子は気持ちを整えられていなかったが、無情にも時は流れていった。二人は豊田の執務室から廊下へと追い出され、光子は頭を悩ませながらも千世の手を取り、スタッフ休憩室に向けて歩き出した。

「ねえ、なんでダメなの?いいじゃん二人で公園、楽勝だよ。なんなら豊田が居なくてラッキーじゃない。」

暫く歩いた後、千世が正直に言った。

「そういう問題じゃないの、私はアルバイト以下の身分で、ただの大学生だから何かあったら大学が責任を負うことになる。千世ちゃんが思っているより大変なことが起きているのよ?だから飯山さんにフォローして貰って中止。」

そう言いながら歩き休憩室に着くと、光子は千世を置いて一人飯山を探し始めたのだった。暫くして光子は飯山を見つけた。丁度手は空いている様子だったため、すぐに状況説明をした。

「…事情はわかったわ。けどね、聞いてると思うんだけど…延期手続きは時間がかかるの。今は丁度手が空いてるけど資料を揃えるだけでも…。」

頭を抱える飯山は申し訳なさそうに続けた。

「豊田さんも私の仕事量は知ってるはずなんだけどなあ…。それと、簡単に延期や中止はできないことも。利用者を施設外に出すとか、やっぱり出しませんとかは利用者家族への連絡が必要だからね。」

「そうですか…。」

光子は動揺と落胆を隠せない声で応じた。踵を返し、休憩室へ向け廊下を行く光子。通りがかる何名かのスタッフに状況を説明するが良い返答は得られず。結局休憩室へと戻ってきてしまった。

「その様子だと、中止にできなかったみたいね。」

千世は少し嬉しそうに言った。光子は眉間で返事をしながらも、打つ手がない状況に思考は逡巡するばかりで、段々と判断力を鈍らせていった。

そんな中で豊田の言葉が蘇る。

「場合によってはそうしてやってもらえないだろうか?」

絶対に止めるであろうと思っていた豊田の発言だ。光子はこの発言の真意を疑っていた。醜女として虐げられていた青春時代に、自分を謀ろうとした者から感じた気配と同じものが滲み出ていたのだ。だから、必ず中止にするべきだと彼女は考えていた。しかし、差し迫る決断の時に、光子はとうとう連れて行くしかないのかと思い始めてしまう。十月に入っても強めにかかる冷房は、人肌に寒気を感じさせていた。そして冷たい風が当たる中、精一杯の温かい声を繕って光子は口を開いた。

「千世ちゃん、行こっか。」

誰も居なくなった休憩室には、冷房の音だけが静かに呻いていた。


不安に感じていた屋外歩行実習は思いのほか調子よく進み、光子と千世は公園で一息ついていた。十月に入ったとはいえ昼間は少し暑かったここ最近を思うと、曇り空も有難く、心地よい風が二人の間を抜けていった。

「ほら、なんてことないじゃない。」

千世は光子に微笑みかけた。

「こら、調子に乗らないの。施設に戻るまでが実習なんだから…。」

しかし、光子もここまで順調に来れたことから少し気が緩んでいた。

「あははっ!みつこさん先生みたい。遠足に引率してるやつ。」

大笑いする千世。光子もつられて笑った。

「実際そうなんじゃない。」

光子が悪戯にそう言うと千世わざとらしく拗ねて、それがまた可愛らしく二人は一層笑顔になった。そんな穏やかなひと時を過ごしていると、二人に声をかける者が現れた。

「あのぉ、ねぇ、すみません…あっ、こんにちは。」

細い声の主は、手押し車を支えに立つお婆さんだった。

「あ、はい。こんにちは。」

光子は優しい声で応答した。

「あん…の、あの…アレだ。んのぉ…。」

「なんでしょう?」

困った様子を悟った光子は改めて用件を聞き出そうとお婆さんに近づいて問いかけた。

「ああ、優しい子で良かったやい。えっとねぇ…、そう!教えて欲しいんだけどもぉ…。」

「はい、わかりました。お答えしますよ。それで何をお聞きになりたいのでしょう?」

光子がそう言うとお婆さんはしわくちゃのメモ用紙を取り出した。

「ここに行きたいんやの。」

そこには光子の知っている福祉施設の名前が書いてあった。

「ああ、この施設ですか。まず公園の北口を…。」

「あえ?すまねぇんだけどもさ。案内してくれねぇかい?北も南も婆にはわからんからの。」

お婆さんは光子の言葉を遮り強引に頼み込んだ。確かに距離的にも近く、比較的短い時間で案内出来る場所にある施設で普段の光子なら喜んで案内する話だ。だが、今日はそういう訳にもいかなかった。

「あぁ…、えっとですねぇ…案内はちょっと都合が悪くて、申し訳ないんですが。」

「困ったねぇ…そこをなんとかお願いできんかい?他の人はおっかなくてどうも…。」

光子が断ろうとしても、お婆さんは食い下がった。

「そうは言われても…うーん。」

「どうしてもお願いできんかねえ…。」

光子の断り方が弱いのか、この後もしつこくお願いされてしまった。こういったやり取りが暫く続き時間だけが過ぎてしまう。すると、千世が堪りかねた様子で口を開いた。

「ねえ、行ってきたら?みつこさん。私が待っていればいいんでしょ?」

「そうは言っても…。」

光子は、それはできないと続けるつもりだった。

「私は大丈夫よ、みつこさん断れそうもないし…というか…。」

光子を手招きし「断らせるつもりなさそうだよ」と耳打ちする千世。その後、光子が離れたのを確認して声を張り上げた。

「お婆さん!困ってるんだよね。お姉ちゃん案内してくれるってさ!」

それを聞いて光子はなんてことをといった様子で千世を睨んだ。しかし、何を言うことも出来ず。心底参った様子で案内することを決意した。

「あの妹さんもああ言うとるわけじゃし…頼めんかのぉ?」

追い討ちのようにお婆さんが頼むと光子は仕方なく首を縦に振った。

「それじゃあ、このお婆さん案内するから!…うーん、二十分くらいかかると思う!絶対にここで待っててね!」

光子が強い口調で念を押した。

「わかったって!いってらっしゃい。」

千世は光子の何倍か呑気な様子で手を振った。心無しか曇り空は先程よりも深く灰がかって見えた。


光子と別れて暫くした千世は、インターンシップが始まった頃のことを思い出していた。春斗と出会い、我儘放題をやめて訓練と向き合うようになったばかりだった千世にとって、目的意識を明確に持って仕事に取り組む光子はすぐに尊敬できる同性の先輩となっていった。加えて、合縁奇縁と言うべきか春斗と光子は惹かれあっており、それが年頃の千世には面白かった。

彼女にとって光子と会う度にその話題で盛り上がれたことは二ヶ月という短い時間で打ち解けるきっかけになっていた。視力を失った青春の一ページに与えられた鮮やかな色そのものだった。光子と話した色々なことを思い返していると、それはそれは長い時間が経ったように感じられたのだった。

その様にして過ごしていると、少し遠くからこちらに向かって歩いてくる音がした。千世がなんだ、あっという間だったじゃない。などと思っていると足音は隣で止まり、そして座った。

「みつこさんお疲れ様。」

気を使って千世はそう言った。しかし、反応が鈍く首を傾げた。

「はぁ?すまないが、人違いだよ。」少し咳払いをした後にそう言った中年男性と思しき声の主はイライラしているのか、舌打ちをした後に落ち着きのない囁き声を発し始めた。

「すみません…でした。」

千世は刹那、呆然となり、そしてこれまで全く考えずにいた現状の危険性を理解した。見えない。隣の中年男性が次の瞬間何をしてくるのか、その前兆は音以外でわからないのだ。しかし、何か起こした場合、それでは余りにも遅い。勿論、突然襲いかかられたりしたらなす術など全くなかった。

危険であると解った途端に、千世は全てが怖くなった。瞬間、光の差さない自分の目に対する苛立ちや、危険に気づかなかった自分の愚かさへの憤懣が生じた。そして、それを今どうしろとと言う思いが連鎖し、現状を変えなければならないと言う気持ちが湧き上がった。だが、千世は「待っている」と言った約束を思い出す。するとまた、自分の目が見えないことに対する怒りがこみ上げたのだった。

これらの感情が目まぐるしいスピードで変遷し千世はあっという間に混乱していった。不安と恐怖。どうしたらいいのかわからない状態で、ただただ何もしないでいるのが怖くなっていった。そして、気がつくと立ち上がり公園の外へと向かっていた。

白杖を鳴らし暫く歩くと、歩くことに集中したこともあってか段々と千世の頭の中は整理されてきた。公園を出てすぐの車道に沿った歩道を歩いていると、ふと気づいた。

「あ、みつこさん…。」

何も考えずに出てしまった公園、戻ろうにも同じ場所へ戻るのは難しかった。整理が進んだとはいえ、まだ動揺の残る頭でここからどうすれば実習が無事に終わるかを考える千世。そんな矢先、遠くに電車の音が聞こえた。

「帰らなきゃ、施設に…。」

千世は一つの大きな決意をした様子でリュックサックに固く結ばれたパスケースを確認し強く握り、そして歩き始めた。金属音の鳴る方へ、実習が問題なく終わったことにするために、光子に迷惑をかけないように、それは小さな小さな足取りだった。先程よりも雲は更に厚く重なっているが、それは千世に関係の無いことだった。


その頃、公園のベンチに戻った光子は青ざめていた。恐れていた不測の事態が今、眼前に広がっているのだ。すぐ様携帯電話を取り出し、一つ大きな深呼吸を挟んで発信ボタンを押した。

「もしもし、豊田さんですか?」

電話相手は豊田、丁度会議は昼休みの終わり際だったのか、直ぐに出てくれた。いつもの苛立ちを含んだ声色だ。

「すみません、実は屋外歩行実習を強行してしまって…まずそこも申し訳ないのですが…、千世ちゃんが…。」

その後、光子は千世とはぐれてしまったことを第一に伝え、続けて経緯を説明した。焦りはあったが努めて冷静に状況を説明した。豊田は静かにそれを聞き、ややあって口を開いた。

「千世は全盲だ。もし本人が自分の意思で移動したならそう遠くへは行けてないはず。大声で名前を呼んで探せ、公園内を一通り探したら電話しろ。次の指示を出す。」

豊田が存外に冷静な対応をしたため、光子は呆気に取られた。構えていたこともあってか、沈黙が流れてしまう。

「返事は!?」

豊田らしい怒号が聴こえると光子は背筋をぴんと伸ばした。

「はい!!お忙しいところありがとうございました。失礼します!」

そう言って光子は電話を切った。そして、指示の通り大声で千世の名を叫びながら公園内を周り始めたのだった。

その頃、千世は駅に向かって歩いていた。不幸なことに外周の中でも堀を挟んで距離の出る箇所を歩いていて、聴こえるのは道路を走る車の音が殆どだった。それでも偶に遠くから響く電車の音は耳に入った。かつて豊田と来た時よりも鮮明に聴こえるそれを頼りに駅を目指す途中、千世はふと今は亡き両親に聞いた話を思い出していた。

「きっと、もうすぐ雨が降るのね…。」

千世は少しだけ顔を上げて虚空にそうつぶやいた。蘇ったのは、はっきりとした風景のある懐かしい記憶。「遠くの音がよく聞こえるとね、雨が降るの。」と言った母の優しい声が、忘れようとしていた過去が、既に失ってしまった大切なもの達が次々と頭に浮かんでいった。孤独と無力感、そして充実していた過去の思い出が頭の中を巡ると、歩行に必要な集中力が欠けていった。

「全く、何の罰よ…。」

少し立ちどまり、千世は愚痴っぽくつぶやいた。自分のせいかと思いながら自嘲するように笑い、気持ちを整理してまた歩き始める。足はそれほど疲れていないのだが、白杖をつく細い手は確実に疲労を溜めており、ただでさえ遅い歩みは、より一層遅くなっていった。


空を見上げると、今にも雨の降り出しそうな曇り空が不安を煽り立てている。光子はそんな薄暗い景色の中、千世を探して走り回っていた。公園自体は広いが道という道はそれ程多くない。そのため、思いのほか時間をかけることなく、すべての道を網羅しようかという状況になっていた。それでも、千世は姿を見せず。光子には彼女が人さらいにあったのではないかという不安がよぎる。とうとう最後の道に踏み入れたがそこにも千世の姿は無かった。

「わかったって…、待ってるって言ったじゃない…。」

流石の光子も不満げにそう言って、鞄を開け携帯電話を取り出し豊田に電話をかけた。

「もしもし、豊田さん…下柳です…。」

呼吸を整えながら、光子は声を絞り出した。

「おう、見つかったか?」

「まだです…。」

豊田の問い掛けに、光子はまだ息を乱した状態で応えた。

「そうか、わかった。まあ公園から出たとしてもそう遠くへは行けていないはずだ…少し考える。」

豊田がそう言うと、二人の間には沈黙が生じた。考えも呼吸も乱れていた光子にとって、それは有難い間だった。暫くして、沈黙が破られた。

「もしもし、次は外周をさがしてくれ、駅に近い側を優先していい。アイツのことだ、何かあって…それで一人で帰ろうとしてるかもしれんからな。」

「わかりました。…一応警察への連絡は?」

光子は人さらいの可能性を案じていた。

「それはまだいい。探すべきところがまだあるんだからな。もしそれで見つからなくても、まずは俺に連絡してくれ。それじゃあな。」

豊田はそう答えて電話を切った。一つ深呼吸をして、光子は千世の名を呼びながら駅方向の出口へと駆け出して行った。


その頃千世は、未だ独り、音だけを頼りに歩いていた。少しずつ大きくなる電車の音に光明を見出しながら、一歩一歩確実に前進していた。心に隙を見せると現れる不安や寂しさを誤魔化すように集中して、聴覚を研ぎ澄ましていた。

そのためか千世の歩みは先程より速くなっていた。孤独を紛らわすための集中力と慣れが相まってのことだ。慮外の出来事であったが、彼女にとって皮肉なことに、現状は今まで取り組んできたどの訓練よりも全盲による歩行の難しさを実感できる実習となっていた。同時に、物覚えが良いことで見落としていた、本来訓練で意識すべきことに気づき、こなすだけの訓練には意味が無かったということを痛感する。色々な感情を誤魔化してそんなことを考えていると千世の中で道が拓けるような気がしていた。

しかし、次の瞬間鼻先に触れた感覚が、心に迫る。

「雨…。」

何気ない一雫だった。しかし、あどけない少女の弱った心を追い詰めるには充分すぎるものだった。千世の中で、今まで抑えてきた負の感情が爆発する。彼女は押し寄せるそれらに足を止められ、その場にうずくまってしまった。

「あ…、ああっ!…私のせいで、こんなことに…。」

凄惨な事故から一人生きながらえ、視力を失い、絶望に耐えるため作り上げた生への責任感。それは今プレッシャーへと姿を変え、千世へと襲いかかっていた。彼女が全てを諦めかけたその瞬間、光が射し込んだ。

「千世ちゃーん!どこにいるのー!」

光子の声だった。千世は残る力を振り絞って立ち上がり声をあげる。

「みつこさーん!」

幸いにも、まだ大きな声は出た。今度は自分に確かめるようにもう一度振り絞った。

「みつこさぁん!私はここにいます…ここでーす!」

千世の精一杯がこもった叫びは、曇天で重たく感じられる空気の中を必死に泳いで、光子の鼓膜を揺らした。刹那、光子は稲妻に打たれたかのようにビクリと体を震わせ、声のした方へと走り出した。今にも泣き出しそうな空の下、彼女は必死に千世の名前を呼ぶ。時々呼吸に血の味を混じらせながら、それでも千世の名前を叫んでいた。

一方千世は、暫くの間呆然と突っ立っていた。安心できる声が遠くから近づいてくるのをただ聞いていた。もう大丈夫なのだと確信すると、彼女の体の中で何かが解けていった。立つために必要としていたそれがするすると身体から抜けていくと、再び膝から崩れ落ちそうになった。しかしその瞬間、千世の身体は誰かに抱きとめられた。

「みつこさん?」

千世は泣きそうな声で訊ねた。応じるようにより強く抱きしめられると熱くなった体が少し苦しくなった。彼女はまだ呼吸が整わないようだった。

「ごめんね、遅くなっちゃった。」

ややあって返す光子。その声を聞いて千世より脱力し、光子に体を預けた。

「謝るのは私の方です。その、ごめんなさい…ごめんなさい!」

千世は謝りながら、光子を抱きしめ返す。暫くの間そうしていると、光子の目に通行人が映った。

「えっと…、報告とか色々あるし、そろそろ離して貰ってもいいかな?」

「…やだ。」

「もう中学生でしょ?」

「だって…こうしてるとなんだか安心するし、まだ中学校なんて行ったことないもん。」

いつもの癖か千世は何気なく特殊な事情を話してしまった。

「…じゃあ暫くこうしてよっか、私も、安心するから。」

光子はそう言って千世の頭を撫でた。ゆっくり目を閉じると体を預けてくれる千世の気持ちが少し解る気がした。先程までが嘘のように、二人は穏やかな気持ちになる。曇天は行く先を暗示するかのように頭上を覆っていたが、だからこそ二人は、この時ばかりはと安堵の再会をじっくりと堪能するのであった。

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