光の中へ消えた~Left into lights~③

テレビに映る甲子園球児達が人生で最も重要な局面の一つを迎えていても、野球に興味がない人はいつもと変わらぬ日常を送る。大学受験に人生をかけた少年少女がセンター試験を迎えている時だって、日本人の大多数はこたつに入ってテレビを観ている。サラリーマンの昇進試験、芸能人のオーディション。誰かにとって、人生の中で最高に重要だと思える瞬間達は、当人にとってこそ宝物のような過去に変わるが、別の誰かにとって、呆気ないほど無価値に終わった一日にすぎなかったりするものだ。

下柳光子はいつもより少し長く電車に揺られ、緊張感のない朝寝坊を羨みながら、そんな「人生の中で最高に重要だと思える瞬間」へと向かっていた。少し空いた電車、私服の若者達、今日は日曜日だ。

落ち着かない様子で周りに目を配る光子、手には携帯電話を持ち、いつ連絡が来ても対応できる状態を心掛けていた。二人で決めた待ち合わせ場所には、光子の方が早く着くはずのペースで出ているが、春斗は簡単に時間を確認できない可能性がある。そのため、極端に早く来ることも考えられた。彼女が携帯電話を握るのは、無論、ただ早く話したいという期待もあったのだが、そんな彼が一人の不安から電話をするかもしれないと慮ってのことだった。

そんな少々余計とも取れる心配事を抱えてそわそわしていると、待ち合わせ場所の最寄り駅を知らせるアナウンスが聞こえてきた。光子は一つ深呼吸をして、普段あまり使わないポシェットに携帯電話をしまい、電車を降りる。ホームに足をつくとき、不慣れなヒールの高い靴に感じた戸惑いは、あどけない少女が恋に出会った瞬間のそれとよく似ていた。

光子は駅の外に出ると刹那も迷わず待ち合わせ場所へ歩き始めた。今日着る服を買うついでに、莉奈と予行練習した成果だ。歩道を行く彼女の心には安堵と共に、げんなりした気持ちが蘇っていた。それというのも、莉奈にデートのことを教えた時、案の定ではあるが、根掘り葉掘り聞かれ大変だったからだ。それでも今は助かっているので、顔に呆れ笑いを浮かべながら歩いていると、特に何事もなく待ち合わせ場所に着いた。

辺りを確認すると、春斗らしき人物はまだ来ていなかった。光子はほっと胸を撫で下ろし一息つくと、携帯電話を取り出して春斗へ電話をかけた。二人にとっては待ち合わせることも容易ではない。春斗の状況を把握するのにふさわしい手段は電話くらいしかなかった。

呼び出し音が繰り返されるにつれて、光子の心音は高鳴っていった。

「もしもし、蒼野春斗です。」

その声が聞こえただけで、光子は胸いっぱいになった。

「もしもし、下柳光子です。今着きました。八時三十八分と二十二分早めです。そちらはどの辺にいますか?」

「ありがとうございます。」

春斗は真っ先に一言礼を入れ、そして続けた。

「僕は一応五十分に着く予定です。たった今電車を降りた次第で、お待たせしてすみません。」

春斗は本当に申し訳なさそうな声色でそう言ったが、光子は当然全く気にしていなかった。それよりも電車と春斗を思うと連想してしまうことがあった。

「あ、そうだ。パスケース、大丈夫ですか?」

 光子は悪戯な声で言った。

「ふふっ。」

春斗は笑い声で応答した。

「大丈夫です。今改札を抜けました。北側って聞こえます。」「なら、大丈夫そうですね。」

光子も電話口で微笑みながら応えた。その後は暫く施設の話をして、時に音を聞き、伝えてもらいながら待ち合わせ場所に春斗を案内した。

「今、公園の入り口付近みたいです。電話、切りますね。」

案内のおかげか、春斗は到着予定よりも早く公園に辿り着いた。もう少し電話で話せると思っていた光子は、刹那、残念に思うが、すぐそこまで春斗が来ているという事態に対する喜びと緊張によって感情は直ぐ様塗り替えられた。

「はい!本日はよろしくお願い致します!」

光子が畏まって言うと、優しく笑っている声がして電話が切れた。携帯電話をしまって辺りを見回すが、まだ春斗の姿は見えない。けれども、光子は慌てなかった。何事も起きていない、期待だけがあるこの時間をもう少しだけ楽しみたいとさえ感じていた。念のため目配りを絶やさないでいると、少し遠くにこちらへ向かってくる背の高い男性が見えた。その手には白杖、春斗だ。

「春斗さん!」

光子が声をかけた。

「おはようございます。みつこさん。」

「よかったです。無事合流できて。」

「すみません…。」

合流を喜ぶ光子、春斗は本来簡単であるそれに神経を使わせたことに気後れして謝った。

「取り敢えず、ベンチに座りませんか?一息ついてから動き始めましょう。」

「わかりました。」

光子は春斗の心情を汲み、ベンチに腰掛けさせ、水筒を取り出しお茶を入れた。

「お茶、どうですか?今年の夏は暑いですから…今、水筒の蓋をコップにしていて、持つと少し冷たいです。」

「あ、ありがとうございます。では、貰いますね。」

春斗はそれを受け取って一口飲んだ。冷たいハーブティーだ。お陰で彼も随分と緊張がほどけたようだった。

「それで、今日はこれからどうします?」

光子が訊ねた。

「…歩いてるとき、声の位置がいつもより高かった。それと足音が少し違った…多分、おしゃれしてきてるんだよね。嬉しいな。きっと似合ってるよ。」

春斗は予定を答える前に、思った事を口にした。意味がないかもしれないのに頑張った光子の気持ちを、彼は蔑ろにしたくなかったのだ。

「あ、ありがとうございます…。」

光子は照れながら返した。

「勿論予定はちゃんと立ててきたよ。まず映画からかな。」

「映画?それは…その…。」

 光子は困惑した。春斗は目が見えないはずだ。

「大丈夫だよ、細かいところはどうしても伝わらないものもあるけどさ。プロの演出って凄いから、大体わかる。」

春斗はそう言うと財布をポケットから出して続けた。

「それに今日のことを友達に相談したらさ。チケットを買ってくれたんだ。良い奴でさ、態々目を閉じて観てみたんだって…あ、勿論男友達だよ。」

春斗は財布からチケットを取り出し光子に見せた。

「その映画!私ちょうど観ようと思ってたやつです!午前の上映開始は結構近いので、早速向かいましょう。」

春斗がお茶を飲み終えるのを待ち、水筒を片付けた後、二人はベンチから立ちあがった。

「あの…手を、繋ぎませんか?えっと…目が不自由な方への当然のアレです!その!調子に乗ってるわけでは…っ。」

光子は緊張しながら提案した。

「ありがとう。ふふ、わかってますよ。」

春斗が首肯して手を差し出すと、光子はその手を握った。互いの手が熱いのは夏のせいだろうか、こうして、照れくさい空気と二人は映画館へと向けて歩き出したのだった。


涼しい空気が二人を包み、宙吊りになったいくつかのモニターには、封切られてない映画の宣伝映像が流れている。ここは市内有数の大型映画館だ。日曜日とあって館内は沢山の人でごった返していた。

「ポップコーン食べる?」

「大丈夫です。お昼前ですし。」

光子は春斗の提案を断った。千世に褒められた体型維持のためだ。本当は映画と言えばキャラメルポップコーンだが、仕方がない。

「本当にいい?…まあいいか、じゃあ入場しようか。」

春斗は返事のトーンからうっすら何かを感じたが、指先の感覚から、これ以上は無粋と判断し入場した。それぞれが指定の席につくと、静かに照明が落ちた。二人は映画の世界へと吸い込まれていった。


それから数時間後、二人は昼下がりのオープンテラスカフェに居た。映画の後に人気店というのはプラン的に申し分ないのだが、案の定行列に捕まり、少し遅いランチになっていたのだ。話題は専ら映画の内容についてだ。

「で!私はあの場面で百合奈が振り向かなかったから、話は無駄に長引いたんだと思うの。殆どそんな文脈もないし。」

光子は演劇を嗜んで居た癖か、作中の人物が見せた不可解な動きに唇を尖らせていた。

「でもその場面ってさ、多分中盤のシーンの事だと思うけど、ゆりなの人柄的にプライドがあったんだよ。きっと。」

春斗は振り向いたとか振り向かないが見えないために少し解らない春斗だったが懸命に解釈して意見を返していた。

「うーん…。」

「それにさ、結構ラストは良かったと思うんだよね。思いのほかベタだったけど。僕感動しちゃったよ。」

春斗は光子が泣いていた予想した上で言った。

「…それは、まあ…。」

予想は当たっていたようだ。

「ん?…ふふっ、あはは!」

「な、何?どうしたの?」

春斗は突然笑い出した光子にとまどいながら問うた。

「いや、失礼かもしれないんですけど…春斗さんのご友人、アレを一人で観たんですね。しかも目を閉じて!それが可笑しくって!」

光子の答えを聞いた春斗にも一人恋愛映画の醸すシュールな雰囲気が脳裏に浮かぶ。

「あはは、確かに!…いや良い奴なんだけど、あいつちょっとズレてるから。多分楽しんでたんじゃないかな。ふふっ。」

笑いながら春斗は応えた。光子も余程ツボに入ったのか笑い続けており、暫く二人の間には笑い声だけが流れていた。

「…でも、私まだ春斗さんのこと殆ど知らないんだなあ…。」

光子は春斗の友達がどんな人なのだろうと考え、ふと思ったことを零した。 

「それは僕もだよ、顔だって知らないもの。」

春斗はそう言ってほほ笑んだ。

「…もう、春斗さん。そんな千世ちゃんみたいな…。」

光子は少し複雑な表情で返した。春斗としては笑って欲しかったがのぼせていた様だ。冷静に考えるとそれは難しいことだと直ぐわかった。

「千世ちゃんと言えばさあ、昔ね…。」

春斗は話題を施設の話へと方向転換した。光子も渡りに船とその話題に乗っかった。その後はインターンシップ中の出来事について盛り上がって席を立った。


「そういえば、この後はどうするんですか?」

店を出てすぐに光子が問いかけた。

「ゆっくりと公園の方、戻っていこうよ。途中に雑貨屋があるって聞いてる。今日のこと覚えていたいからさ。そこで何か記念になるもの買おう。二人で。」

春斗が笑顔でそう返すと、光子は工程の意味で手を強く握り返した。

カフェを出て暫くの間、二人が春斗の教えて貰った情報を下に歩いていると、これまでとは一線を画すやけにオシャレな通りへと出た。曰く、最近欧州の街並みに倣って再開発が行われた今の若者に人気のデートスポットらしい。

「わあ…綺麗な街…。」

異国情緒を感じさせながらもどこか懐かしい感じのする通りを見て光子はそう零した。刹那、春斗はそれが共有できないものだと思い知り胸が痛む。しかし一方で、春斗は嬉しくもあった。自分のことで飾らせてばかりいた彼女の心から出た言葉だと感じたからだった。春斗の中には暖色と寒色の感情が混ざり合って、それは彼が未だ経験したことのないものだった。

「何…買おうか?」

春斗は光子に問うた。

「少し、歩いてから決めましょう。」

光子から弾んだ声が返ってきて、春斗は一先ず気持ちの整理をつける。

「そうだね。」

短く答えると二人は歩みを合わせた。人の往来が増えた通りを行く二人の手はよりしっかりと握られている。夏の暑さの中、お互いの手は汗ばんでいるが、それを気にすることもなかった。

「何か特徴的な形のものがいいですね。それか身につけるものでしょうか?」

通りを暫く行ってから光子は春斗に訊ねた。

「うん、そういったものの方が確かでいいね。あ、みつこさんは必ずしも同じものを買わなくていいよ。あったんでしょ。そういう物じゃなくて、気になったもの。」

春斗は気配りのつもりでそう言った。趣味が合うかどうかはわからないものだ。

「確かにありましたが…お揃いがいいです。記念ですもの。私はそう思います。」

光子は少し不機嫌そうに返した。

「あ…ごめんなさい。」

春斗はすかさず謝った。

「いえいえ!私の方こそごめんなさい気をつかって頂いたのに…。」

光子はハッとした様子で応えを返した。しかし、言葉がすぐに続かずいたたまれない沈黙が生じようかという雰囲気が漂ってしまう。

「と、取り敢えずお店入っちゃいましょうか!そこの!」

光子は状況を打開するため、強引に店を決め春斗を引っ張った。

「あ、足元!」

「大丈夫です!段差はないのでそのまま!」

ドタバタとした様子で二人は雑貨屋へと入店した。

冷房が効いて、涼しい店内は色々とお熱くなっていた二人をなだめるには丁度よかった。二人は落ち着きを取り戻し始めていたが、その様子を値踏みするように見ていた店員の一言でそれは吹き飛ばされてしまった。

「あのう…お二人はカップルでいらっしゃいますか?」

怪訝そうに尋ねる店員。その理由を何となく光子だけが察し、何より訊かれた内容に動揺しながら、返事に困っていた。

「あ、えっと…。それは…。」

「そうです。」

春斗が光子を遮って応えた。返事の内容に光子は感情のやり場にも困ってしまった。

「…それで、何か?」

「あ!失礼致しました~。実はですね!当店はペア雑貨の専門店なんですけど…日曜日にカップルで御来店のお客様にはこちらのミサンガをプレゼントしております~。」

店員はそう言って、簡単な袋に包装されたミサンガを一つずつ、春斗と光子に渡した。

「よかったね。」

春斗が光子に微笑みかけた。

「あ、はい。そうですね。」

光子はまだ少し動揺を残した様子で返した。

「ち、丁度よかったですし…このお店で探しますか、記念品。」

光子は春斗に問うた。

「そうですね。貰うだけ貰って帰るのも悪いし。」

春斗が明るい調子でそう言うと空気はほだされ、二人はカップル然とした様子で店内を回り始めた。

光子は目をつけた雑貨品を春斗に手渡し、ときに用途を説明した。そんなことを繰り返して、お互いに納得のいくものを探していった。雑貨品の点数は多く、それでいて光子も春斗も妥協を許さなかった。否、ただ単に夢中になっていたのだろう。いつの間か時間は過ぎていたようで、店内には茜色の西陽が差し始めていた。

「えっ?」

光子は思いの外時間が過ぎていたことに驚いて声を漏らした。

「ん?…何?」

「いや、もう…夕方みたいです。一通り気になるものは見てきたのですが…。なかなか良い物は見つかりませんね、あ。」

春斗に応えながら窓から目線を下に落とすと可愛らしいフクロウの置き物が目に入った。直感と言うべきだろうか、光子はこれだと思った。すかさず窓辺へ春斗を案内した。

「これなんでどうですか?」

光子はそう言ってフクロウの置き物を一つ手に取り春斗に渡した。

「これは…鳥?」

「そうです。」

「もしかして…フクロウかな?」

春斗はその形から推理した。

「当たりです!」

その瞬間、春斗もなんとなく自分達がこれを買うんだと直感した。

「知ってますか?フクロウって幸運の使いなんですよ。」

光子は説明を兼ね春斗に訊ねた。

「うん。知ってる。ふふっ。二人の幸せの使いになってくれるといいね。」

光子の言葉に春斗は微笑みながら返事をした。冷房の効いた店内に差す茜色の夕陽は二人の空気を温め、郷愁的な雰囲気が二人を包む。

「…これに…しようか?」

 春斗が言った。

「うん。」

光子は応えた。

これまでじっくり吟味していたことが嘘のように二人の記念品は決まった。互いの掌に収まる親子と思しき二匹のフクロウの置き物は、どこか二人に微笑みかけているようだった。


二人が穏やかな表情で通りへ戻ると、街は再開発の狙いもあって、さながらゴッホの夜のカフェテラスを彷彿とさせる様相となっていた。光子はそんな美しい街並みに後ろ髪を引かれて、帰ろうとは言い出せなくなっていた。しかし、刺すような陽の光と熱を感じなくなった春斗が無情な問いかけをしてしまう。

「きっと、もう夜なのかな?」

「うん。」

光子は正直に答えた。

「それじゃあ、帰らないとね。…もう公園に戻るのも無駄だと思うし駅に行きたいです。」

「わかりました。駅、ですね。」

そう言うと光子は先程よりも強く手を握った。

「行きましょう。」

そして二人は駅へ向けて歩き出した。東の空に月が昇るスピードに似たゆっくりと確かな足取りだった。

暫くの間、二人の間に会話という会話は生じなかった。二人とも今日一日の出来事を反芻していたのだろう。響くのは白杖が地面を突く音と時折段差などに注意する声くらいで静かなものだ。そんな状態で歩き続けていると、駅まであと少しという交差点に差し掛かった。とうとうお別れが近づいてきた事を光子は春斗に告げる。信号待ち、春斗は握っている手の力を強めて口を開いた。

「僕さ、赤信号が今は好きだな…。今は色とかわかんないし昔は煩わしかったけど…。今はこうしてみつこさんと長く居られるから。」

光子は不意打ちのキザなセリフに恥ずかしくなったのか、言葉は言葉にならず、ただただ赤面していた。手汗だけはハッキリと応えているようで、その反応から春斗自身も気恥ずかしくなってしまった。照れを隠すように言葉を続ける。

「帰り道…昼間のこと思い出してた。何気なく途切れちゃったけど、確かにまだ僕達はお互いのこと全然知らないんですよね。」

春斗は平静を装い、話題を切り替えた。

「はい、なんだか…不思議ですね。よく知らないはずなのにこうして手まで繋いで…。」

光子は感慨深そうに言った。

「あの、これからも、時々電話したりしてもいいですか?例えば用事がなくても。」

 春斗は内心緊張ながら提案した。

「勿論いいですよ。」

光子がそう答えると、同時に信号が青に変わった。

二人は段差を確認しながら再びゆっくりと歩き出す。暫くすると、駅の灯りと喧騒が二人を包んだ。

名残惜しいがいよいよ別れの時だ。

「そういえば帰りはタクシーなんですね。」

ちょっとおかしくて、光子は微笑みながらそう言った。

「ああ、だってあの公園、住所わかりませんし。」

春斗は当たり前の事のように返した。

「いやいや、あれくらい大きい公園だったら名前を言うだけで連れてってくれますよ。ふふっ。」

「あっ、そうかぁ。」

春斗は参ったと言う様子で頭を搔いた。本当は事前に公園の規模を知る事さえできないからだったが、それを伝えるのは野暮だと思い、何も言わなかった。

「改札まで送れなくてすみません。」

「いえいえ、気にしなくていいです。そんなことは。」

光子が応えると、ややあって二人は繋いでいた手を離した。

「みつこさん、今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました。」

 春斗はお辞儀をして、言葉を続ける。

「…実は寂しかったんです。目が見えないと、関わる人って相当限られてしまいますから。別に悪い人と遭うなんてことも無かったけど。やっぱり、退屈で。だから、あの日の偶然は本当に嬉しかった。」

そんな春斗の言葉に、光子の方が嬉しくなった。

「私…自分に自信が持てなくて、それに当然の事をしたまででしたから、お礼なんて別にと思っていたんですけど…今の言葉を聞いたら、あの時そんな理由で断ったことを申し訳ないなって思いました。」

光子がそう言うと、春斗は顔を空に向け一つ息を吐いた。

「じゃあ、インターンシップとちよちゃんには感謝だね。あの子が言わなければ、今日はなかったかもしれないし。うん、あの子と、施設の利用者さんのためにも、明日からまた頑張ろうね。」

春斗はそう、優しく声をかけた。

「はい、そうですね頑張ります。今日は本当にありがとうございました。楽しかったです。とっても。」

 光子がそう言うと春斗は笑顔を返した。そして何度か白杖を鳴らし、タクシーの方へ進むと、気の利いた運転手に案内され、それに乗り込んだ。

タクシーに乗り込む春斗を見送り、見えるはずもないのに手を振る光子、その表情は充実感に満ちていた。こうして二人のデートは、長い一日は、終わった。

他の誰かにとって、平穏に過ぎ去っていった普通の一日。或いは別の誰かにとって、プレッシャーのかかる試験のあった嫌な一日。結婚をしたり、死別をしたり、沢山の人それぞれに、色々な一日があったことだろう。そんな今日という一日は、光子と春斗にとって、紛うことなく特別で大切な一日となったのだった。

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