光の中へ消えた~Left into lights~②

「しかしよく怒らないねぇ!みつこさんは!」

インターンシップが始まって二週間ほど経ち、光子はスタッフと共に一人の失明者を預けられていた。その名は鷹村千世という、中学生の失明者だ。

「うーん、まあ失敗はしてるから…しょうがないのかなって…。」

そう言って、光子は溜息をついた。この日の光子は朝から小言レベルの叱責を沢山受けて消沈気味だった。

「はあ…はこっちだよぉ、あれはねぇ、ミスさせられてるの!」

千世は怒りと呆れが混じった口調で光子に言った。

「みつこさんはよくやってると思うよ、あの人は自分のこと優先してろくに教育せず『わからなかったら聞いて』って言えば済むと思ってるの。教えてもないことでミスをするのは当然なのに叱るときだけは厳しいんだから、それで何人辞めたことか…。人材の墓場って呼ばれてるのよ、あの人。」

光子は勢いよくまくし立てる千世にたじたじと言った様子で、申し訳なさそうにはにかんだ。

「まあまあ、それはいいじゃない…。」

光子がそうなだめると千世は何も言わなくなったが、その表情は不満を絵に描いたようなものだった。

確かに指導係の豊田はいい加減な人だ。おそらく今日も顔を合わせることはないだろう。ここ数日は比較的手のかからない千世を光子に任せ、豊田は溜まっていた事務仕事の処理をするというのがお決まりになってしまっている。 光子が場当たり的な対応以外はスムーズに出来ることも、この体制作りの一因となっていた。彼女は真剣にこの仕事を考えてきたからこそ利用者に何ができて、何ができないのかに詳しく、加えて元々人より気が働くため、有り体に言うと使える人材だったのだ。そして今日は千世が慣れている施設内での歩行訓練のみ。二人がなんのトラブルも起こさないと考えお決まりのやりかたになるのは最早仕方がないと言えた。 そうこうしているうちに、二人は歩行訓練のエリアに着いた。光子が白杖を千世に渡すと手際よくそれを操って歩行訓練のコースを歩き始める。光子はその様子を見守っていた。

「あっ。」

光子がそう言うと、千世は立ち止まって振り返った。

「いいですよ、じっとしてますから、行っても。」

これも割とお決まりの一つになっていることだった。

「ありがとう。」

そう言うと光子はごちゃごちゃとしている同エリア内で、一人立ち上がってどこかへ行こうとしている利用者の元へ向かっていった。

「…仕方ないか。」

最後に声がした方に向け千世が言った。表情は切なげだったが、すぐさま優しいため息をついて近くの壁に持たれかかり光子が戻るのを待つことにした。

「村井さん、どちらへ向かうのですか?」

光子は一人で訓練エリアから離れようとする利用者に声をかけた。大抵の場合はトイレで、それ程問題も起きないのだが、最近数名利用者が増えたためか接触の危険性は高い。この気配りは千世のように熟れた利用者ではなく、不慣れなところがある利用者の意見を聞くことで支援の質を高めようと光子が自主的に行っているものだ。

こういった取り組みから光子は利用者全体からも高い信頼を得ていた。

「ああ、はいトイレへ行こうと思うのですが…」

「では、お付き添い致します。」

こうして光子はトイレへと付き添い、歩行訓練のエリアから離れることになった。 白杖が床を打ち付ける音とスタッフの声だけが響く。そんな中、千世は自分へと近づく白杖の音に気づいた。利用者にはスタッフが付き添うことになっているため、かなり不自然な接近だと言える。千世は施設内とはいえ身構えた。

「どなたですか?」

警戒し強ばった声で問うた。

「ああ、なんだ千世ちゃんか。」

声の主は春斗だった。

「先生?先生じゃないですか!…どうしたんです?今日は授業の日じゃない…はず。今確認できませんけど。」

目が見えない同士でなければ言い難い冗談を交えて世は質問を重ねた。その表情は先程までとうってかわって声色は明るい。

「ふふっ、そうだね。授業じゃないよ、ただ会いたい人が居てね…。仕事の日は難しいから。」

春斗は答えた。

「みつこさんだ。」

にやにやとしながら千世は会いたい人を推理する。

「うん、やっぱりこうなったからにはお礼をしたいなって。」

「あの日の授業、先生凄く嬉しそうだったもんね。みつこさんが来た日もそうだった。本当にお礼だけなんですかぁ?」

千世は、煽るように言った。少しの間を置いてから春斗は答えた。

「さあ、どうだろうね?」

二人の間には、しばしの静寂が生まれた。

静寂の向こう側、トイレへと続く歩行訓練エリアの隅よりも少し手前のあたり、光子は利用者の案内を終え千世のところへ戻ろうとしていたのだが、予想だにしない光景に足踏みをしていた。あの日、インターンシップ初日の再開以来、ずっと話したかった春斗がそこに居たのだから無理もない話だった。光子は足音さえさとられぬ程遠くから、暫しの間様子見していたが、会話が終わったように思えたので、いよいよ二人に声をかける事にした。

「お待たせ、千世ちゃん。それと、お久しぶりです…蒼野春斗さんですよね?」

「はい。」

光子は人違いで無かったことに安堵した。しかし、お互い意識してしまっているのか会話にはならず、三人の空間には妙な緊張感が生まれ始めていった。

「あ、あの。」

「あのっ!」

勇気を出して二人が声を出すとその声は被ってしまった。そして、定番の譲り合いとなり滑稽な空気が漂い始める。

「ふふっ…ちょっと、笑わさないで下さいよ。コケたらどうするんです。」

それを見ていた訓練中の千代は、また半分冗談にならない冗談を言うと、春斗が優しくそれを咎めて場の空気がほだされた。これをきっかけに春斗は言葉を続け、光子と春斗の会話が始まった。

「この間はありがとうございました。実は電車に乗るのはICカード頼みで…本当に危ないところでした。勿論財布も持ってはいたんですけど。」

春斗は真っ先にあの日の感謝を述べた。

「いえいえ、当然のことをしただけです。」

光子は、光子らしい答えを返した。

「あの後ずっと考えていたのですが、やはりお礼をするべきかと思います。折角再開できたわけですから尚更…なので、お食事なんていかがですか?」

春斗の声は心無しか緊張していたが、珍しく光子はそれに気づかなかった。春斗の提案が嬉しかったのだろう。気を回す余裕を失っていたのだ。

「ああ、えっと…。」

光子が答えを探していると、千世が会話に割行った。

「お食事だけじゃ足りないよね!今度の日曜日デートしたらいいよ、デート!」

「お、おい!…すみません。何もそこまでのこととは言ってませんから。」

春斗の声は焦りを含んでおり、光子には少し可笑しく聞こえた。

これもまた、きっかけになった。光子はこれまで一人でごちゃごちゃと考えて遠慮がちになっていたが、思い切ってこれを受けることにした。

「ふふっ、良いですよ。でも…そうですね、デートに関してはお礼として私が要求したという認識でお願いします。」

二人は光子のこの表現に僅かな違和感を覚えたが、春斗はそれをすぐさま疑問を保留にして応えた。

「ありがとうございます!では今度の日曜日で良いですか?あっ…。」

春斗はなにかに気づいた様子で背中のリュックをおろし中身を漁り始め、名刺ケースを見つけると、名刺を一枚取り出して光子の方に差し出した。

「当日、待ち合わせが上手くいくかわからないので連絡先です。何かあったら連絡してください。…なんなら、いつでも。」

春斗が言った。

「わあ!先生ちゃっかりしてる~。」

また千世が茶化すが、春斗は無視をした。

「わかりました。私の連絡先…、私の連絡先はどうしましょう?」

光子は少しズレた方に差し出された名刺を受け取りながら、相応しい手段がない事に気づいた。字で書いて渡しても、春斗はそれを読むことができないのだ。

「口頭で教えて下さい、メモを取ります。」

そう言うと春斗は見慣れない器具を取り出した。小型の点字器具だ。よく見るとリュックの中には点字盤なども覗ける。光子は失明者と点字の密な関係を改めて認識させられ感心し、暫く固まってしまった。

「みつこさん?」

「あっ、ああ…すみません、えと090-〇△✕✕-〇✕△△です。」

「了解です。お店とか当日の諸々打ち合わせるのにこちらから電話することもあると思うので、その時はよろしくお願いします。」

「はい。わかりました。」

光子は気を取り直し、やり取りを終え、すかさず周りに目を配った。浮かれているという自覚があればこそ、気を引き締めたかった。

「そろそろ、仕事に戻らないと。」

光子は名残惜しく感じながらも自らそう告げた。

「今日は会えて嬉しかったよ。本当に。」

春斗の返答は率直なものだったが、故に少し乱暴なくらい光子の胸を射止めてしまう。この言葉に二人には見えない光子の顔は真っ赤になっていた。

「じゃあね。」

春斗はそう言うと白杖を握り直し、床を打ちながら帰っていった。

歩行訓練エリアに響く白杖の音は余韻となって、しばらくの間鳴り続けた。光子はその中で少しの間、人生初デートを取りつけた喜びに浸っていた。

いつの間にか太陽は高く昇っていて、昼食の匂いが鼻をついた。光子は歩行訓練をこなす千代を呼び止め午後からの予定を少し打ち合わせると、その手を取る。そして、微かに聞こえる程度に減った白杖の音に別れを告げ、食堂へと続く廊下へ向かっていった。


日も傾き始めた頃に、光子は千世の部屋で日報を書き始めていた。さらさらとボールペンの走る音だけが部屋に響く中、千世はベッドの上で上体を起こした様子で時間を持て余していた。そこで、彼女はふと疑問に思っていたことを光子へぶつけることにした。

「ねえ、デートのことなんだけど…、デートを取り付ける時どうしてああ言ったの?」

ボールペンの音が消え、心無しか空気が張りつめるような気がした。

「あ、えと、何か不味かったみたいですね。失礼しました。」

千世が年齢差相応に畏まって話題を締めようとすると、光子が口を開いた。

「私と春斗さん、お似合いに思えるかな?」

「そう思うよ!今年の講義の初日に聞いたの、多分、みつこさんとの出会いのこと…。とっても嬉しそうに話してた。きっと運命だと思う!」

千世は即答した。

「運命…か。」

光子は少し頭を悩ませた後、口を開いた。

「ちょっと、暗い話して…いいかな?」

千世は静かに首肯した。

「私ね、顔がちょっと。…良くなくて…。春斗さんとお似合いかというと、違う気がするの。私、この顔のせいで小中高はずっと扱いが悪かったし。一応友達が居たからね…そのおかげで何とか過ごしてこれたけど…。その友達も…私への嫌がらせに巻き込んじゃったりしたんだ。この仕事を探したのも、顔を隠すための逃げで……あ、話を戻すとね、春斗さんはね。その…見たことないかもしれないけど。こんな私には釣り合わないくらい顔がかっこいいんだよ。だから、ああ言わないと自分の中で均衡が取れなかったんだ。私からお願いするべきことだったの。あくまで私の中で、だけどね。」

これを聞いた千世は虚をつかれた様子だった。それというのも彼女は美醜というものが人にあったことを失念していたからだ。ただ、それを完全に知らない訳ではない、だからこそ光子のただならない過去を察することは難しくなかった。考えを整理する間がややあって、今度は千世が話し始めた。

「…みつこさんって凄いなあ。」

「えっ?」

予想だにしない言葉に光子の声が漏れた。

「私は失明した時、自分をこの世の誰よりも不幸だと思ったよ。事故の規模からすると奇跡の生還だったらしいけど、両親は死んでしまったし、そのうえ視力まで失ったんだからさ…どうして生き残ったのかとさえ思った。」

千世は返すように自分の過去を語り出した。口調とは比例しない内容の凄絶さに、光子は自分が語ったことの小ささを恥ずかしく思い、何が強いのかと困惑した。

「それから、親戚の家を経由してここに来た。費用の面から言うとなお、運は良かったみたい。…でもそんなこと関係なかった。何も悪いことしてなかったのに勝手に失ったのよ?だから運命を呪って、悲劇のヒロイン気取って我儘放題してやったわ。ずっとそうするつもりだった。だって運命が悪いんだもの。」

千世は時折呆れ笑いを入れながら語った。話の深刻さに光子は聞き入るほかなかった。

「でも結局…起きたことは変わらなかった。だから…受け入れることにしたの、我儘放題の日々も直ぐに飽きたし、先生に出会ったのが一番大きいかな。うん…、とにかく!だからみつこさん強いなって。」

最後に明るく語りかけるよう千世は言ったが、察しのいい光子ですら要領を得なかった。

「うーんと、どういうこと?」

光子は千世に訊ねる。

「みつこさんは選んで、その…顔が、良くない…で生まれてきた?私は事故に逢いたくなかったし、それは私の選択じゃなかった。だから運命のせいにして、言い訳並べて、我儘に逃げてたの。とっても楽だったし、今でも偶に自己弁護したくなる。いや、してもいいとは思ってる。でも、みつこさんはそれを運命のせいにして逃げてないからこそ、ここに居るんだと思う。きっと、本当の自分が伝わる場所を考えて探してきたんだって…みつこさんはそれを逃げって言ってるけど、私は逃げじゃないなって思う!」

千世は拙い言葉で思いを伝えようと必死だった。光子はその姿と、無論、言葉にも愛おしさを感じ、思わず抱きしめてしまった。

「わぁっ!」

千世は急な衝撃に驚いた。

「だったら、…やっぱり千世ちゃんの方が強くて凄いと思う。乗り越えてる試練だって、うんとね。」

慰めるつもりで、光子はそう言った。

「それは違うよ、幸不幸なんて…結局個人の問題だと思うんだ。珍しいだけなんだよ、私のは。」

千世は光子との出会いに感謝し、抱き返した。ありがとうと心の中で呟きながら、光子の真意を受け止めていた。窓の方を見ると、差し込む光の色が茜に変わっている。光子は暫くこうしていたいと思っていたが名残惜しそうに腕を解いた。

「さてと、もう帰らないと。」

そう言って、ボールペンを手に取り直し日報を書き始めると静かな部屋にはまたそれの音だけが響き始めた。千世もこれ以上邪魔はすまいと、ただ音のなる方に顔を向けていた。

暫くするとその音も消え、筆記具をしまう音がし始める。

「ねえ。」

千世は立ち上がった光子を呼び止めた。

「どうしたの?」

「デート、頑張ってね!結果は先生にも聞くから…イマイチだったらでこぴんだから!…まあ、おでこどこかわかんないけど。」

千世の反応に困るいつもの冗談だった。

「ありがと…。」

光子の返事は少し不安げだった。

「大丈夫!抱き着いてきたときに思ったんだけど…みつこさん、結構いい身体してるから!」

千世がそう言うと、光子の近づく音がして、千世のおでこに衝撃が走った。

「いったぁ!」

「えっちな事言う子には罰です!…でも本当に色々ありがとね。」

光子は痛かっただろうおでこをさすりながら感謝を述べた。

「どういたしまして。」

千世がそう言うと、今度はより短い間隔で光子が部屋を去ろうとする足音がした。

「それじゃあまた明日!」

光子の声はドアの開く音と共に、よく通った声で部屋の空気を振るわせた。

「はーい。」

千世の返事も玄関へと向かうが、先にドアの閉まる音が響き、部屋の外には出られなかった。しかし、今日はいつもと違い千世の口角は上がっていた。彼女は一日の出来事を思い返し、やがて祈るように手を組むと、より一層表情を柔らかくしため息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る