光の中に消えた~Left into lights~

イデぽん

光の中に消えた~Left into lights~①

けたたましい金属音の連鎖と一陣の風が通り過ぎた後、少しの静けさを取り戻したホームには何を伝えるためかわからない時報のような音と取り留めもない話し声が飛び交っていた。行く先と発着時間を示す電光表示の上には、何一つ悩みのなさそうな鳩がつがいを作っている。まだ昇ったばかりの低い日が差し込む中、下柳光子は待合のイスに腰掛けて、買ったばかりの小説に目を落としていた。そして暫く経った後、思い出したかのように顔を上げ電光表示を確認すると周囲の人間に合わせるように立ち上がり電車へと乗り込んだのだった。

電車の中はこれから仕事や学校に向かう人でぎゅうぎゅう詰めだった。どこからが聴こえる音漏れしたイヤホンの音楽、痴漢冤罪を防ぐため両手でつり革を掴むサラリーマンの加齢臭、まだ若いのに背伸びした化粧が不格好な女子高生によって感覚器官は彩られていた。そんな押し合い圧し合いにも慣れきった光子は電車が大学の最寄り駅につくまで、ついさっき読んでいた小説の中身を反芻していた。そして、その余韻も薄れてきた頃に、車内放送が目的地の名を告げた。光子はすかさず動線を探し始める。そしてその途中、光子はとあるものに目を奪われたのだった。

「白杖だ。」

誰に聞こえるでもないほどの小さな声が漏れた。光子は白杖の主が同じ駅で降りることを確認すると何の気なしに後を追っていた。

同じ改札に向かっていたこともあるだろうが、光子はまるでカルガモの行進に似た距離を保って後ろを歩いてしまっていた。周りの人が気を遣うのもあって、男性は白杖を捌きながらスイスイと歩いていく。それでも朝の忙しい時間帯故に人の量は多く、互いがぶつかるのは避けられないことだった。

光子は男のリュックサックに結び付けられているパスケースが乱暴に揺れる様が気になっていた。心配だったのだ。彼女は知っていた。男がそれを失くすことは自分達に比べ何倍も恐ろしいことであることを、そして気づいた。いつの間にか、そのパスケースが彼のリュックサックから落ち自らの足元にあったのだ。光子はすぐさまそれを拾い上げ彼に渡そうとしたが、顔を上げるとその姿はなく、見知らぬ人の群れがいつもの光景を作り出していた。

光子が男を見つけることは、それほど難しくなかった。それというのも、いつもの改札まで歩くと案の定、白杖を持った男性と駅員が話していたからだ。光子は心の中で一呼吸入れた後、二人の話に割って入った。

「あのう…。」

すると白杖を持った男が先に光子へ顔を向け、それを見て駅員もこちらに向いた。

「すみません、先程パスケースを拾ったんですけれど…。」

そう言うと光子は手を胸の高さまであげて見やすいようにパスケースを駅員に向けた。

「ああよかった。お客様、たった今パスケースを拾った方が来られました。」

駅員はそう言って光子に頭を下げ、パスケースを預かり男に向き直る。男は光子と駅員の間、何もない場所に顔を向けながら応えを返した。

「本当ですか?…よかった。あ、でも触らせてもらってもいいですかね?決して盗みはしないので…。」

声色は安堵に満ちていて、光子は少し嬉しくなった。

「いいですよ。」

駅員がそう言ってパスケースを差し出すと、光子が男の手を取ってパスケースに触れられるよう案内した。

「ありがとうございます。」

そう言って男はパスケースを手に取り、包むように持った。

「あ、これです。間違いありません。これは僕のパスケースです。」

男がそう言うと、駅員も安堵した様子だった。光子は親切心が逸ったようでそれに気づかず言葉を続けた。

「私、たまたまなんですけどこのパスケースがその方のリュックサックから落ちるとこ見ました。間違いなく彼のパスケースです。」

その言葉には必死さがあった。

「御協力ありがとうございます。それなら間違いありませんね。当駅としても大変助かりました。」

駅員は光子に礼を述べると、一仕事終えたという様子で改札室に戻っていった。

「あの、ありがとうございました。…ふう本当、永遠に閉じ込められてしまうかと思いましたよ。改札内に。ふふっ、あなたは私の命の恩人です。」

男は感謝を述べた。

「そんなおおげさですよ。」

少々笑いを含んだ声で光子は応えた。

「改札、こっちです。長話になってしまってわからなくなってますよね。」

そう言って光子は男の手を取り改札の外へ出た。

「本当に何から何まで、…失礼ですが、お名前と電話番号を伺ってもよろしいですか。今度お礼がしたいです。」

男が携帯電話を取り出しながらそう申し出ると、光子は引いている手に空いている手を重ねて言った。

「そんな、お礼だなんて、当たり前のことをしたまでです。それじゃあここ、案内板がありますので。」

そして、案内板の点字に彼の手を導いた後、手を離した。駅の風景はいつもの日常に帰ろうとしていた。だがその時、咄嗟に男は光子の腕を掴んだ。

「あのっ…僕は、蒼野春斗って言います。このくらいの時期は近くの障害者施設で点字の指導を偶にしています。居ないこともありますが、また会えたら…。」

ホッとしたような声だった。光子は腕を掴んだ春斗の手を、もう一方の手で優しく握り返し応えた。

「私は下柳光子って言います。近くの大学に通ってます。またお会い出来たらいいですね。」

光子はそう言うと今度はすぐに踵を返した。春斗も少しの間余韻に浸った後、自分の目的地に向けて歩き始めた。急に侘しくなった案内板の前には、まだ沢山の足音が響いていた。


この頃強くなり始めた日差しを浴びながら、小高い丘の上にある大学に向け光子は歩いていた。暑さと勾配のある坂に表情は険しいが、時折、今朝の事を思い出し表情が崩れそうになっていた。その後また暫く歩き、段々と車の音が少なくなってきた辺りで気持ちを切り替え、両手で顔を叩き気合を入れ直す。念の為、時間に余裕を持って出た甲斐はあったようだ。一コマ目の講義時間の十五分前に大学へ着くと、そこはいつもより少し騒がしく人の多い構内、そう今日は前期の期末試験日だった。

光子は至って真面目な学生だ。平均的な学生のことを考えると真面目すぎると言っても過言ではない。いつも一番前の席に座り、講師の言うことをよく聞き必要があればノートに記録をとる。レポート形式の課題は締切の数日前に提出が終わるうえ、評価が優でなかったことはない。光子が早々に講義室の席へ座ると同学年の女学生が話しかけてきた。

「あっ!下柳さん、これノートありがとう。」

「いいえ、どういたしまして。」

光子は笑顔でそれを受け取った。すっかり慣習になってしまったが、優秀な光子のノートは学生内で評判だ。たった今ノートを返した学生と光子は深い仲でもないのだが、彼女が快く貸し出すのも、人気な理由の一つだった。何より他学生にとって有難かったのは試験が始まろうという時にノートを返しても、光子が文句一つ言わないことだろう。彼女は人一倍波風を立てたがらない性格だった。

「下柳さんごめーん、ノートありがと!」

「うん。どういたしまして。」

光子はまた笑顔で自分のノートを受け取った。

光子には優しい性格に加えて、人の役に立ちたいという強い気持ちがあった。無論、他のやり方もあったのだろうが、彼女はこうして出来上がった人間関係を不満に思うこともなかった。今、成立している穏やかな日常を態々変えよう等とは考えもしていなかった。

この後、光子は何度か同じやりとりをして、試験を受け始めるのだった。

終業のチャイムが鳴ると、学生たちが一斉に動き出した。その反応は三者三様だ。友へ近寄りテストの感想を述べる者から、足早に教室を出る者難しそうな顔をして座ったままの者や背もたれに寄りかかって心ここに在らずといった者などが見られた。光子はと言うと、早々に試験を解き終え寝ていたのだろう。小さく欠伸をしながら寝ぼけ眼を擦っていた。

その後、もう一つ試験を受けて中庭に出ると太陽は高く昇っており、足元の影は小さくなっていた。時計を見ると正午過ぎを示している。光子が携帯電話を片手に暫く歩いていると、その耳に聞き慣れた声が聞こえた。

「おはよう、みっち!」

声の主はいかにも女子大生という身なりをしていた。明るい髪色にこなれた化粧、スキニーデニムにオフショルダーのトップスというコーディネートからは年相応な色気を漂わせている。女学生の名は愛咲莉奈といった。光子とは幼稚園来の友人だ。

「おはよう、莉奈ちゃん。」

光子は挨拶を返した。

「やあ~、偶然見つけられて良かったよ、丁度今連絡しよっかなってなってたところだったし!」

「本当?じゃあラッキーだったね。私も連絡しようと思ってたところだもん。」

「おお、おそろじゃん!ふふっ。」

「おそろ、ふふっ、そうだね。」

長い付き合いだけあって、会話はテンポよく進んでいった。

「んー?みっちなんかいいことあった?」

 暫く立ち話をしていると、莉奈は光子の顔を覗き込みながら問うた。

「えっ!?…うん、まあ。」

「そっか、じゃあお昼食べながら聞かせてよ!」

莉奈はそう言うと、大学の外へ向かって歩き出し、光子もそれに続いた。

この日、二人はお互いのテストが午前だけということを事前に確認済みだ。それ故に、二人は近くのレストランで食事の約束をしていた。取り留めもない会話をしながら、蝉の声がする歩道を行く二人、目的のレストランに着くと、お昼時とあってか、少々待つこともあったが、暫くして二人はランチのテーブル席についた。

「さて、いよいよ本題に入るとしますか!」

高揚感を含んだ声で莉奈が言った。本題とは光子に起きた良い事についてだ。瞳をきらきらさせながら話を急かす莉奈に、光子は呆れながら答えた。

「あのねえ、親しき中にもそうだけど、まず注文が先でしょ?」

「むぅ~、わかったよ。」

莉奈は小さい子供がいじけた時にするように唇を尖らせながらもメニューから料理を選ぶ、二人はより多くの味を楽しめるよう、分け合うことを前提に料理を選び、注文を終えた。

「それでそれで、いいことって何?宝くじでも当たった?」

「違うよ、そんなにいい事じゃない。うーんと、パスケースを拾ったの。」

「へ?それだけ?」

「流石にそれだけじゃないよ、で、その人さ白杖を持ってたの。」

それを聞いた莉奈は正直に肩を落とした。

「なんだ、また体の不自由な人に優しくできたから嬉しい!っていう話?もういいよ、お腹いっぱいだもんそういうの。はいはい、聖人君子だねぇ。凄いねぇ。」

莉奈は煽るようにそう言ったが光子は表情を崩さなかった。そういう仲なのだ。

「あのねぇ、聞いたのは莉奈だよ?それにこんな話、いつもしてる訳でもないし。最後まで話聞いてよ、機嫌がいい理由はに他にあるんだから。」

「どういうこと?」

「それがね、…めちゃくちゃイケメンだったの!」

莉奈はこれを聞くと見る見る表情を晴れやかなものへと変えていった。

「やったじゃん!それでご機嫌ってことはあれでしょ?助けたイケメン君に連れられてパラダイスへ行こうみたいな恩返し!」

「ふふっ、何それ。それじゃあ私もうここに居ないじゃん、でも確かにお礼の申し出はあったよ。」

「へえ、じゃあデートだ。ふふ…全く隅に置けないなあ。」

「断ったけど。」

「は?」

ランチの場には少し大きすぎる声が出ると、それを制すように声掛けをしながら店員が料理を運んできた。暫く静かにしてテーブルに料理が並べられるのを待つ。その静寂は、莉奈が光子の意図をはかるのに充分なものだった。

「別に、お礼自体を断ることはなかったんじゃない。」

莉奈はボリュームとトーンを下げた声で話しを再開した。

「それは、…そうかも。でもやっぱり、また会うとなると…ね。」

「自信ないんだ。並んで歩くの。」

「うん。」

「はぁ~、そういうところだぞみっち。お芝居だってそう。勿体ないよ。本当は凄く魅力的なのに、勿体ない。」

二人ともランチに手をつけ始め、自然と少しの間ができた。

「まあ、これだけは莉奈にもわかんないよね。」

光子は俯いて、ボソリと言った。

「ううん、わかんないことないよ。ずっと見てきたんだもん。でも…、だからこそ言うけど、もう外見だけで恋愛って歳でもないようちら。」

莉奈の言葉は真剣だった。

そう、光子は醜女だった。それも化粧をすればと言う程度ではない。その要因は輪郭やパーツの配置、歯並びにまで至っていた。その事をコンプレックスにして、大学生までずっと生きてきた。そして莉奈の外見はその真逆で美人だ。それ故に、傍から見るとこの発言はとても傲慢なものになるのだが、長い付き合いの二人にとっては承知のことだった。だからこそ光子を想い莉奈は言葉を続けた。

「そうやって幸せになるチャンスから逃げてたら、…いつか本当に大事なタイミングで逃げるようになっちゃうよ。」

「…うん。」

光子は言い返すこともなく静かに首肯した。すると、その場には色彩を欠く空気が漂い始めた。だが、二人ともそうはさせまいと思ったのだろう。お互いに明るい声を上げた。

「あ、そうそう~!」

「はぁ~!やめやめ!」

被ってしまった言葉を切って、二人は目を合わせて笑った。目と目で譲り合って莉奈が口を開く。

「そう言えばさ、夏休みはどうするの?」

「実はインターンあって…。」

「やっぱ真面目だね~みっちは。」

お互いそうしたかったのもあるのだろう。あっという間に話は夏休みの予定へと移っていき、その後も戻ることはなかった。間近に迫る自由な日々の楽しい過ごし方について、明るい意見を交換するうちに、二人の空気は彩りを取り戻していった。美味しい料理も会話の背を押して、光子と莉奈の間にはひっきりなしに他愛もない話の花が咲き乱れるのだった。


閑散とした大学の構内に鳴り響く蝉の声、駐車場にはまばらに車が置かれており何名かの男女で構成されるグループが話し合いをしていた。空に浮かぶ雲の背は高く、陽はさらに高く強く照りつけている。夏が始まったのだ。

そんなある日のこと、汗ばむ陽気も収まりかけの夕涼みに光子は電車に揺られていた。彼女は今でこそ小説を読みながらすまし顔で椅子に腰掛けているが、実は乗車時に白杖の彼を探し同車両内を見回してからのことだ。加えて、各駅の昇降時も乗客の中に彼が居ないかと目を配らせてしまっている。そんな癖がついたのは紛れもなく蒼野春斗と出会った一週間ほど前からの事だった。

光子は後悔していた。お礼の申し出を断る事は彼女の本意だったが、春斗との出会いに、その感謝の表情に、ときめきを感じなかったわけではなかった。千載一遇のチャンスを逃したかと思うと、どうしても探したい気持ちを抑えられないでいた。そして、見つけられずに少し切ない気持ちになるのを繰り返しながら、この数日間を悶々と過ごしていた。

「はぁ。」

光子は大きな溜息をついて小説から目を外し、窓の外を見た。そこには郷愁を感じさせる夕焼けが広がっていた。その後、窓に移る自分の顔に気づき、また一つ大きな溜息をつくと、車内アナウンスが下車する駅の名を告げた。光子が名残惜しい気持ちで電車を降りると、蒸し暑い風が一陣吹き抜けていった。

駅を出て家路を暫く歩くと、光子は来るインターンシップに向けて気持ちを切り替えていた。今日もまた彼には会えなかったが、彼女が一度自ら手放したチャンスをこうも惜しむのは、実のところ、少しの希望があるからでもある。彼女の鞄にはあの日彼が告げた施設の名が書かれているインターンシップの資料があった。光子は、また彼に会えたら、恋人とまで言わずとも友達になりたいという希望を持って空を見上げる。既に太陽は沈んでいたが、そこには一際明るく丸い月が昇り始めていた。


インターンシップの始まる日、光子はいつもより早く家を出て十分前に施設付近へと到着した。出入りや周辺を歩く人を見ながら春斗を探し、またもそわそわしているのだが、その姿を見かけることはなく、時間はいたずらに過ぎていった。結局、そのまま案内開始時間になったので、光子は心の中でふくれっ面をしながらも指定された部屋へと向かったのだった。

「聞き間違い…だったのかな。」

光子は小さな溜息と独り言を洩らしながら指定の席に座った。そして、彼女はこれが運命ならばそういうものなのだろうと諦め、インターンシップは遊びではないと切り替え気を引き締め直した。いずれにせよ視覚障害者の生活支援員を志す光子にとってこの経験は貴重なものだ。将来のため、成すべきことを見据える力のある光子は、他大学の学生と思しき数名が雑談をする中、一人静かに説明が始まるのを待っていた。

朝の涼しさを伴う風が窓から差し込むと、インターンシップの事前資料が飛んでいきそうになった。光子は咄嗟の判断でそれを抑える。その手には少しだけ力が入っていた。


太陽が南中に達する頃、一通りの概要説明を受けたインターン生は施設の利用者およびスタッフを集めた一角で、一人ずつ自己紹介をしていた。演劇をしていた光子は人前に慣れており、緊張せず余裕を持って自己紹介をこなす予定だった。だが今は、人間の身体に散りばめられた汗腺の数に感心しながら高鳴る心音を必死に抑え自分の番を待っている。結局、それが治まることはなかった。

「愛敬大学社会福祉学部社会福祉学科より参りました、下柳光子と申します。」

流石の舞台度胸だ。内心緊張していることなどその様子からは微塵も伺えなかった。そして、その声の起こした波紋が一角全体に届いた時、一人の男が驚いて声を上げた。

「えっ?」

声の主は蒼野春斗だった。思いがけない出来事に一瞬静かになったその場には蝉の声がクレッシェンドで響く。それはいつもより暑い夏の到来を予感させるのに充分なものだった。

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