05


 *


《どんっ――》


 強く背中を押されて、地面を転がった俺の目の前を、凄まじい速度でトラックが走り抜けていく。ぐわりと揺らぐ視界の中で、見間違えるはずもない姿が空中に投げ出される様を、俺はすべもなく見ていた。



 ドサリ、と。


 呆気なく地に落ちた華奢きゃしゃな体躯は、有り得ない角度に折れ曲がり、完全に沈黙した。

 椎名、じゃない……あれは。


「なん、で」


 タイヤ跡が黒く焦げ付く、けるように熱いアスファルトの上を這って。手を伸ばした身体には、まだ温もりがあった。


「お、い……なんで。なんでだよ、ソラっ!」


 聞き分けのないガキのように叫んで、零れ落ちる命を掻き集めようとしても、どうにもならなくて。瞳から、指先から、馬鹿みたいな痛みと後悔があふれて、彼女の頬を濡らす。

 何度も、忠告されてた。この日だけは、外に出てくれるなと。何度も、言われた。あなたに命を救われたから、その恩返しをしたいのだと。猫が人間になるなんて、そんなファンタジーな現実を見せつけられても、俺はまだ実感が持てずにいたのか?


『スバルがいるなら、なんにもいらないや』

『どこにも行かないで。私の前から、いなくならないでね。どうか、もう二度と……』


 そう願ったアイツが、自分の命をこんなにも簡単に投げ捨ててしまうだろうことを、どうして想像出来なかった?俺の知らない、可能性の未来に死ぬ『俺』のことばかり考えているソラに、みっともない嫉妬なんてして。

 このどうしようもない現実を招いたのは、俺だ。きっと俺は、何度も……何度でも、ソラの心を踏みにじってここまで来た。


「お前がいなかったら、意味ないだろ……」


 吐き出した声を掬い上げるように、そのまぶたかすかに震えた。一雫の奇跡みたいに、覗いた青空の瞳が、彼女が紛れもなく白猫の『ソラ』であることを教えてくる。その唇がそっと開いて、震える息を吐き出した。


『スバル……だいすき、だよ……』


 音にならない音が、世界に溶けて消えて行く。その命の灯火ともしびごと、お前を連れ去って。

 認めるか、そんなクソみたいな、結末。こんな世界、丸めてゴミ箱に捨ててやる。



「っ、あぁ……ソラァぁああああっ……!」



 カチリ、と。


 世界の歯車の、音が聴こえる。背にした俺の職場である学校から、どこか重苦しいような鐘の音が響く。その瞬間、何もかもが逆流するような感覚と共に、世界が遠ざかって。


(連れて行け……俺を、連れて行ってくれっ)


 強い力に押し流されるようにして、時の海を駆けて行く――そうして辿り着いたのは、あまりにも見覚えのある、猫のソラと、そして人の姿のソラと出会った公園だった。人の気配を感じて、思わず物陰に隠れた……その判断が正解だったことは、次の瞬間分かった。


『おいっ、大丈夫か……?』


 そう遠くは離れていない場所から聞こえてきたのは、紛れもない『俺』の声。息を呑んで物陰から様子を窺えば、夜闇を照らす街灯の下、見慣れた制服姿に手を差し伸べる『俺』の姿があった。俺は、この光景を知っている。


『お前……もしかして、椎名か?』

『ソラ、だよ……スバル』


 どうしようもなく大切なものを呼ぶ声で、そっと頬に手を伸ばす指先に、腹の底から叫びたくなる衝動をこらえた。どうして、気付かなかっただろう。お前の手に、俺の名前を呼ぶ声に、あんなにも愛があふれていたことに。


「っく、ぁあ……」


 声を殺して、息を殺して。それでも、後から後から溢れる涙が止まらなくて。



 ゆらり、と。


 ボヤけた視界に映り込んだ真白い尻尾に、手の甲に触れた柔らかな温もりに、ハッと目を見開く。小さくて、あたたかい。


「ソラ……?」


 震える手で触れれば、野良のらなのにふわふわとした毛並みと、その奥で脈打つ鼓動の感覚が、俺の指先に熱を与えた。引き寄せられるようにして、そっと抱き上げれば、音のない鳴き声をあげた白猫は、いたわるように俺の頬を舐めた。あふれた痛みを、拭うように。


 そうだ、あの日も……そうだった。妻を亡くして自棄やけになってた俺を、じっと覗き込んでいた青空の瞳。泣きじゃくる俺に、嫌な顔一つせず抱き締められていてくれた。あの時からお前は俺の特別で、それなのに護り切れもしなかった中途半端な俺を、ずっとああして追いかけて来てくれていたのか。


「ソラ……ソラっ……!」


 瞳の青い白猫の多くは、耳が聞こえない。ソラもそうであることを知っていて、だから何度でもみっともなく名前を呼んだ。いつかこの声が届くと、知っていたから。


 この涙が枯れたら、立ち上がり駆け出そう。お前がそうしてくれたように、この時の海をどこまでも駆けて……辿り着くべき、未来へ。


 *



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