04


 *


 それが始まった時、何を考えていたのか、何を祈っていたのか、正確には覚えていない。ただ感じたのは、どうしようもない冷たさ。

 私を育てた母猫が、冷たくなって餌を二度とくれなくなった時に、似ていると思ったこと。ただ、それよりもずっと、急速に温もりを失っていく前足に、それが私の頭を撫でてくれることは二度とないのだと、そう直感した瞬間の……全身を駆け抜けたうつろな感覚。


 今ならその感情の名前を知っているけれど、情動だけで生きていた小さな獣は、その冷たさから本能的に逃れたいと思っただけなのかもしれない。目が覚めた時には、その何もかもが『無かったこと』になっていて、優しい前足は変わらず私の頭を撫でてくれて……そうしてしばらくすると、また冷たくなっている。

 何度か繰り返すうちに、ただの猫はこの世界が何かおかしいことに気付き始めた。死と言う概念を覚える頃には、自分を撫でてくれる人間を、本当の意味で失いたくないと願うようになって、それでも彼の死を止めることが出来ずに無為な時を何度も過ごした。


 『彼女』に出会ったのは、本当に偶然で、最高で……最悪のタイミングだった。いつしか人間に化けることが出来るようになった私の、変身の瞬間を捕らえた『彼女』と交わした契約は、この生を繰り返す度に更新される。今日はその、最後の報告に来ていた。


『もうすぐ着くよ』

『了解。開けとくから、そのまま入って』


 彼女の指示通りに、何度となくおとずれた部屋のドアを開けて中に入れば、私と同じ顔をした女の子がこちらを振り返って頷いた。

 椎名ましろ。私が借りている姿の、オリジナルである彼女は、何度出会いを繰り返しても化け猫である私の存在を受け入れ、かつての彼女自身と交わした契約の更新を望んだ。

 いわく、彼女にはやるべきことがあって、学校に行ってる暇なんてない。でも、学校に行かなければ周囲がうるさい。だから、身体を貸す代わりに、学校に通ってその様子を報告することと、最低限の成績を取ること。


「これ、約束の」

「毎度あり。相変わらず、上手くやってるみたいじゃない。猫より人間の方が向いてる?」


 成績と報告書もどきにザッと目を通した彼女が、相変わらずの無表情で淡々と告げる。この『オリジナル』を知っているスバルは、私と彼女の表情筋の落差に複雑な顔をする。


「上手く、出来てたかな?」

「少なくとも、私よりはね」


 肩をすくめて告げる彼女が、表情はとぼしくてもジョークを言ったつもりなのだと、付き合いの長くなった今だからこそ分かる。


「いよいよ、明日ね……その様子だと、覚悟を決めた、ってトコ?」

「うん。今まで、ありがとう」

「それは、過去の私に言って頂戴ちょうだい


 ヒラヒラと適当に手を振る彼女に、何度目でも変わらないなと、苦笑して背を向ける。


「ねえ、不謹慎なのかもしれないけど」


 そんな風に呼び止められるのは『初めて』で、今回は本当に『知らない』ことだらけだと思いながら足を止めた。


「上手く行くことを、願ってる。あなたの旅が、納得の行く終わりになるように」


 言葉が強く、背中を押す。心が、震えた。


「ありがとう」


 ガチャリ、と。後ろ手に閉めたドアで、その瞬間、本当の意味で退路は絶たれた。


 これまでの幾度とない繰り返しの中で、スバルと交わした言葉の全てが走馬灯のように駆け抜ける。最初のうちは、遠くから見守っているだけだった。でも、それだけじゃ守れないと気付いて、彼の生徒として紛れ込むようになって。急変した『私』の性格に怪しんだスバルに、私の正体を初めて明かしたのは何度目のことだったっけ。

 ましろから借りた人間の姿でスバルと会話したことも、私の目的を白状したことも、何度だってある……でも、彼の家に転がりこんで、こんなにも近くで触れ合ったのは初めてのことで。これまで知らなかったこと……誰かと一緒に食べるご飯が美味しいこと、抱き締められた時の心臓の鼓動と温もり。


(そして何より……私は、きっと)


 猫の瞳で見るよりも、ずっと鮮やかに澄み渡っている青空を見上げて、いつかスバルが教えてくれたことを思い出す。


『お前の瞳ってさ、青い訳じゃないらしいぞ』


 そう言ったスバルの瞳には、確かに青い瞳の私が映っていて、思わず首を傾げた。


『レイリー散乱って言うんだと。そういう色素があるんじゃなくて、空が青く見えるのと同じように、青い光だけが吸収されずに散らばって、瞳が青く見えるってことらしい』

『……よく、分かんないな』


 正直にそう零した私に、スバルは苦笑して頭を撫でてくれながら、優しい声で続けた。


『俺が言いたいのは、その話を聞いた時に感動したってことだ。お前の瞳の中には、あの空が広がってるんだ……って、ガキくさいかもしれないけどな。でも、だから……お前はソラなんだって、伝えときたかった』


 あの時の言葉が、今なら分かる気がして。


 だって、そう……どうしようもなく、この瞳に映る空は、青くて、綺麗で。あの時のあなたに、私がこんな風に映っていたのだとしたら。それだけで、良かった。


(だから、これで終わりにするんだ)



 鐘の音が、鳴り響く。がれどきに、世界が染まる――初めての恋に、別れを告げて。


 何度だって、捧げよう。そのために私は、この広い時の海を駆けて来たのだから。


 *



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