03


 *


「ごっはん、ごっはんー」


 るんるん、と歌いながらお味噌汁をちょっとだけ味見。猫舌にそのままは熱いから、ふうふうと冷まして一口飲めば、鰹節と昆布の出汁がふんわり口の中に広がる。

 おやつの煮干しをカリカリかじりながら、ご飯の炊きあがる音にピンと耳を立てて、台所の時計をじっと見つめる。やがてコツコツとコンクリートの上に響く靴音を聞きつけて、玄関まで全力ダッシュ。

 ガチャリ、と。その人が足を踏み入れた瞬間、これまでウズウズと我慢していたのを振り切って、思い切り飛びついた。


「おかえりっ」

「ん……ただいま、ソラ」


 ポンポンと、抱き留めて背中を撫でてくれる優しい手に、ちょっとだけ涙が出そうになる。大丈夫、まだ時間はある。もう少しだけ。


「ほら、そろそろ離してくれ」


 学校で会う時よりも、ずっと柔らかい……先生の仮面をはずした、私の良く知る柔らかい表情で、松永まつながすばるその人が立っている。


「うん、炒めものの味付けだけしちゃうね」

「ああ、俺は着替えてくる」


 スーツのジャケットだけ受け取って、シワにならないようにハンガーにかけておく。パタパタと台所に戻り、最近ようやく把握してきたスバルの好みに合わせた味付けに、ザッと火を通して……出来上がり!


 ツヤツヤした絹豆腐を壊さないように、そーっとお味噌汁をお椀に注いで、フワリと立ち昇った合わせ味噌の独特な香りに目を細める。冷蔵庫から茹でて冷やしたインゲン豆を出して、マヨネーズをちょっぴり。最後にガツンと生姜しょうがきのタレで味付けした、豚肉とナスとピーマンの炒めものにキラキラの白米。

 個人的に完璧な人間の晩ごはん、って感じの食卓に満足しつつ、ゆるい格好になったスバルが席につくのをそわそわと待った。


「お待たせさん……おぉ、豚ナスピーか」


 私が考えても、そのまんま過ぎる名前を口にして、豊田先生いわく『お堅い』『近寄りがたい』そして『ヤクザな』感じらしい顔が、子供みたいに目を輝かせる。ふふん、スバルの胃袋は、しっかり掌握済みなのである。


「「いただきます」」


 今度こそ二人で手を合わせて、本当にお揃いのご飯を食べる。と言っても、私の分はスバルのに比べれば『子猫』のご飯だけど。


「お前、本当に飯作るの上手くなったよな……最初の頃は、食えりゃなんでもいいって感じだったのに。にしても、良く玉ねぎとかニンニク入れないで、毎度『ガッツリ』な感じの飯を考えるもんだ」

「私だって、スバルと同じもの食べたいもん。でも、ネギっぽいので死にたくないし、念のため……スバルはやっぱりニンニク食べたい?男の人は、そういうの好きだって聞いた」


 そう、私が首を傾げると、スバルは苦笑して首を横に振った。


「いや、生徒に『先生ニンニク臭い』とか言われたらショックだしな。不可抗力でもなけりゃ、そもそも自分じゃ食わない。元々、食に対するこだわりもないしな……お前が来てから、むしろ食卓は豊かになった方だ」


 ありがとな、と撫でてくれる手が、ちょっとだけ照れくさくて、モクモクとお味噌汁の中の豆腐を拾い上げて食べる。あまり自炊をしないスバルの、やけに揃った調理器具のレパートリーのことは、考えないようにして。


「ん……うまい」


 本当に思ってることしか言わないスバルの、最大級の褒め言葉を聞く機会が、最近増えて来たのが嬉しい。温かいお家に出来たてのご飯と、それを一緒に食べる人がいて。昼は生徒達に混じって、普通の女子高生みたいに授業を受けて、大好きな人の横顔を盗み見て。


 そんな風に満ち足りた生活だから、失うことを今、こんなにも恐れてる。


 ごちそうさま、と手を合わせて。今日学校であったこと、感じたこと、お互いに一品だけサプライズで詰めているお弁当のおかずのこと。ポツポツと話すスバルの言葉に相槌あいづちを打ちながら、スバルはパソコンに向かってメールの返信、私は洗い物に精を出す。


 いつもの時間を、いつものように……私達の間に沈黙が少ないのは、幸福の隙間からこぼれる現実に、目を背けていたいから。

 そう、例えば伏せられた写真立てみたいに。


「そう言えば、な」


 ふと思い出した風をよそおった声に、呼吸が止まった。次に来る言葉を、知っていたから。


「今日の帰り……こっちの『お前』に会った」

「……そっか。どう、だった?」


 わざとらしく明るすぎないように、それでも気を使わせるほど暗い声にはならないで……いつから私は、こんなに人間らしく出来るようになっていたんだろうと、皮肉に思う。

 こんな、終わりを目前にして、いま。


「お前だって思うと、なおさら家に連れて帰りたくなった」

「っ……」


 それは、今まで『一度も』聞いたことのない返事だった。胸に込み上げる何かに、声が震えてしまわないように抑えつけて。代わりにカチャリと、手の中の食器が音を立てる。


「そんな風に思ってたの?誘拐犯さん?」

「ああ」


 なんてことはないように告げれば、想像していたよりもずっと優しい声が返って来て、どうしようもなく動揺してる自分がいて。


「ソラ」


 振り返ると、どこか困ったように眉を寄せて、それでも腕を広げてくれる姿があった。


「おいで、ソラ」


 その声に、泡だらけの手のままで、なりふり構わず抱きついていた。


「大丈夫だ。俺は、ここにいる……お前が言ってるみたいに、そう簡単に死んだりしない」


 その言葉は、もう『何度も』聞いてる。それでもあなたは、いつだって私を置いていく。


(嘘つき……)


 そう思いながら、ぎゅうぎゅうとしがみつくように抱き締めれば、ぐっとスバルの喉が詰まるように何かを呑み込んだ。


「……ソラ、そろそろその格好、やめてくれないか。俺の精神衛生上、限界が近い」


 スバルが求めていることを読み取った私は、ちょっと不満に思いながら彼の瞳を覗き込んだ。私の青い瞳を真正面から受け止めたスバルは、やがて耳まで赤くして視線を逸らした。


「……後生ごしょうだから」


 かすれたような声に、仕方がないなあと思いながら、目を閉じる。


(まだ、声を聞いていたかった……けど)


 心とは裏腹の願いで胸を満たせば、やがて世界から音が遠ざかり、借り物の姿が白く小さく、無力な生き物へと巻き戻っていく。恐る恐る目を開けば、こちらの世界が当たり前であるはずなのに、鮮やかさを失った色彩とボヤけた視界が、どこか寂しいものに映る。

 ついさっきまでの視界より、ずっと上にある顔を見上げれば、どこかホッとしたような表情が私を見下ろしていた。



 ソラ、と。


 きっと私の名前を呼んだ声が、無音の世界に響く。その瞳に映る一匹の白猫が、優しい手の平にすくい上げられる。あの日の、ように。


 この世界でただ一人、彼だけが知っている。私が猫であることを……そして、彼の命を救いに、未来からやって来たのだと言うことを。


 *


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