02


 *


「せーんせいっ」

「どっひゃああっっ!」


 つん、と肩をつつけば、何か考え事でもしていたのか、彼は『かわいくない』悲鳴をあげて椅子から飛び上がった。そんな光景に慣れっこの国語科職員室に、クスクスと小さなさざめきが起きて消えた。


「お前なぁ……あんまり驚かせるなよ」

「失礼しますーって、ちゃんと言ったよ?生返事したのは、先生でしょ。あと、職員室では静かに、ね?」

「――っ!」


 何かを言い返そうとして、ハッとしたように口を閉じて撃沈する先生に、同じ国語科で先生と同期の豊田とよだ先生がニヤリと振り返る。


松永まつなが先生、早速尻に敷かれてますね!」

「勘弁してくれ……曲がりなりにも生徒だぞ」


 先生らしくとがめる声にも、クスクス笑いが広がるばかりで、味方がいないことを悟った彼は、ゲンナリした表情で私を見上げた。


「……それで、何の用だ」

「用がないと、会いに来ちゃいけないの?」


 このやり取り、何度目だったっけ。それとも『今回』は、初めてだったかな、なんて。


「面倒くさい彼女みたいな返しするなよ……」

「えへへ、彼女だって豊田先生!」

「良かったね、椎名しいなさん。君は着実に階段を登ってるよ。松永先生は、身持ちかたそうな顔して案外とチョロいから、押せばイケる!」


 その後頭部が、スパァンっと気持ちよく出席簿で叩かれて、涙目の豊田先生に冷えた声とギリギリと肩をつかむ追い討ちがかかる。


「あんまり、コイツをき付けないでやってくれますかねぇ……」

「っちょ、松永ギブギブ!肩ミシミシ言ってるから、あと生徒に見せるのはマズいヤクザ顔になってるから!あっ、ごめん悪気はない」


 その余計な一言で、もう一発出席簿を喰らうことになった豊田先生は、完全に撃沈してフラフラと去って行った。


「ったく、いい年こいて……まぁ、豊田がどっか行ったことだし、そこ座って良いぞ。どうせ、飯食いに来たんだろ」

「はぁい」


 素直に頷いて、先生の隣の席を占領。お弁当を広げると、くぅと腹の虫が鳴いた。そんな私の頭に、ポンとひんやりした何かが置かれて、反射的にキャッチする。


「ほれ」

「ありがと、先生」


 いつもの牛乳を、ホクホク顔で受け取れば、豊田先生が言うところのヤクザ顔が、心無しか優しくなったように見える。中等部の給食の余りだけど、先生がくれたってだけで特別になるのは、何度この時間を繰り返したって変わらない。ありきたりで、特別な時間。


「いただきまぁす」

「……ん、いただきます」


 手を合わせて、中身が分かっていても『ワクワク』の詰まったお弁当をパカリと開ける。


「やった、タコさんウインナー!」

「お、今日は出汁巻だしまき卵か……」


 その一品だけはサプライズ……いつもの『特別』に、自然と視線が合って笑ってしまう。良く見れば『おそろい』のお弁当に、ほんのり甘い秘密の味が口の中に広がった。

 ご機嫌で足をゆらゆらさせながら、肩を並べて食べるお昼ごはんの時間。かつての私のままだったら、永遠に受け取ることの出来なかったギフトがここにある。ありとあらゆるものを犠牲と代償にした、仮初かりそめの幸福。

 その刹那と切なさを噛み締めながら、次の瞬間には『おかかのおにぎり』でご機嫌になってしまう自分は、本当にどうしようもない。


「……いつも、ありがとさん」


 ボソリ、と落とされた声に目を見開いて見れば、何事もなかったような表情で出汁巻き玉子を口に運ぶ横顔があった。


「ん、うまい」


 その一言で、でれでれとダラシなく表情を緩めさせた私に、デスクの向こう側のおばあちゃん先生、みっちゃんがニコニコ笑う。


「今日も仲良しさんねえ」

「うん!」


 ニコニコと頷きを返せば、今度は隣の先生も否定することはなく、気付かないフリで黙々とホウレン草のお浸しを口に運んだ。


「ごちそうさま。おいしかったー!」

「相変わらず早いな。オッサンは、もう少し食うのに時間かかるよ」

「先生とは量が違うの!私は授業の予習するから、教室戻るね」


 先生は、私の顔を見て目をまたたかせると、どこか複雑そうな表情で頬をいた。


「お前、そういうトコは真面目なんだがな」

「どういうトコも、真面目です!それじゃぁ」


 耳元に唇を、そっと寄せて。


「いい子で待ってるね。お仕事、頑張って」

「……わーったよ」


 ひらひらと降参したように手を振る先生に、くすりと笑って職員室を後にする。私を見送るあなたが、どんな表情をしてるのか、分からない今がもどかしい。


「失礼しましたー」



 ガラリ、と。


 職員室から出た途端、学校の昼休みらしい雑多な感じが押し寄せて来る。中等部の給食の匂い。賑やかな教室。静かな自習室。思い思いに時間を過ごす高等部の生徒達。世界にはこんなにも音があふれているんだと、思う。

 当たり前のように明日が来ることを、信じていられる『未来ある』人間達の姿が、少しだけまぶしい。私はちゃんと、女子高生やれてるかな、とその場でくるりと回ってみる。


 ひらりと揺れたスカートか、私の奇行に対してか、廊下の向こう側から来た男子生徒がギョッとした表情で通り過ぎて行った。そう言えば、もっとパンツを気にしろとか、猫背をどうにかしろとか、所構わず無防備に寝るなとか、昔は先生に散々怒られてたっけ。


(そう、だね……いつかのあなたは)


 目を閉じて、考える。今ほど満ち足りてはいなくて、それでも失う痛みを知らなかった、あの頃のことを。どちらが幸せなのか、なんてバカみたいな比べっこをしながら。


 優しく寂しい昼下がり、時告げの鐘が鳴る。


 死期はもう、すぐそこまで来ていた。


 *



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