硲志優里についての物語 第5話

 人生で産まれて初めて観た現場は、自殺者の部屋であった。

 22歳女性。自殺。頸動脈に刃物を突き立てて出血多量で死亡。

 死ぬ間際に身悶え苦しんだようで、血が部屋中に付着している。

 血は変色して赤黒くなり、彼女の死に際の凄惨さを物語っていた。

 きちんと片付けられた女の子らしい可愛らしい部屋と、痛々しい血の跡のコントラストを見つめる。

 腐乱は無かった。ただただ血の臭いが立ち込めていた。

 死後直ぐに見付けてくれる人がいたというのに、彼女は死に向かってしまった。

 その時に、静脈を切った時の自分の姿がリンクした。

 

「……硲さんだっけか。今日の仕事はね、楽だよ。腐っちゃってたら、臭いが本当にだめだから」

 

 防護服にガスマスクの細身の男が、穏やかな声で諭すかの様に私に囁く。

 その時になんとなく、この男は私がそちら側の人間である事を察しているのを感じた。

 

「……住職から何か聞きましたか?」

 

 思わず口を付いて出た言葉に、ガスマスク越しの目が優しく笑うのが見える。

 その眼差しがとても穏やかで優しくて、私は謎の安堵感を覚えた。

 

「違いますよ。ただ僕はね、自分とおんなじ様な人はね、ちょっと解るんです」

 

 自分とおんなじ様な人。

 その言葉の真偽をその場では聞き出せることもなく、部屋を片付ける作業を始める。

 今になっては解るが害虫駆除もする必要がなく、腐乱の悪臭があるわけでもないあの部屋の清掃は、初めての特殊清掃にはとても良い現場だったと思う。

 荷物を粗方片付けてから、洗浄機で血を落としてゆく。

 彼女の生きて死んでいった痕を、この手でゆっくりと消す。

 その時にふと、死はもしかしたら本当に「ただ無に還るだけ」なのかもしれないと察した。

 元に戻った綺麗な部屋を見渡して、ふと死んだ彼女の事を考える。

 彼女は確かにこの部屋で懸命に生きて、不幸にも死を選んだ。

 けれど彼女は確かにこの血が黒くなる前には此処にちゃんと、存在していたのだ。

 片付けが終わり、オゾン脱臭器を回す。

 男が立ち上がったその時に、男の動きに軽い違和感を感じた。

 なんとなく、ぎこちない足の動きをするのだ。

 部屋から速やかに出て外に出れば、男が小さく呟く。

 

「まだ、死にたい気持ちは消えませんか」

 

 その質問はとても、私の心の的を射ていた。

 自分と同じ様な事をして死んでしまった人の死の現場を目の当たりにしても、まだ死にたいという気持ちが完全に消えたとは思えない。

 ただ解っているのは頭の中で「自死は良くないもの」というだけの、道徳の教科書の様な知識だけで心の中からそれは消えてはくれなかった。

 黙る私の目の前で、男はまた優しい眼差しで笑う。

 

「僕もね、時間かかりました。ゆっくり、ゆっくりです」

 

 包み込む様な優しい声に、私は救われた気がした。

 まるで何もかもを赦されているかの様な、不思議な感覚がする。

 もしも神様がこの世にいるとしたのなら、きっとこんな優しい声色で話すのだろうとさえ、私は思っていた。

 気がつけばガスマスクの視界が滲み、世界がぼやけてゆくのを感じる。

 私は泣いていた。泣いてしまっていたのだ。

 

「僕はね、妻も子も事故で失いました。交通事故でした。相手方は権力のある方だった様で彼は罪に問われず終わりました」

 

 軽トラックを走らせながら、優しい眼差しの初老の老人が嘆く。

 今日一日一緒に働いた男が、淡々と自らの話をしてくれた。

 

「幾ら戦えど戦えど、握り潰されてきました。そんなある時に私も死を望む様になりました」

 

 車の窓から見える景色が、藍色から暗闇に変わってゆく。

 冬の季節は日が落ちてゆくのが、とてもとても早い。

 空が暗闇にゆっくりと変わるのを眺めながら、男の話に耳を傾ける。

 すると男は、こう云った。

 

「僕は早く妻と子供に逢いたくて、事故に見せかけたフリをして飛びました。脚を折っただけでね……馬鹿なことをしたと思いましたよ」

 

 脚に感じた違和感の理由を悟る。

 余りにも切ない感情が、私の中に雪崩れ込む。

 思わず溢れてしまった涙に、男は多分気付いていないフリをしていた。

 

「僕はこの仕事を始める様になり、良かったと思っています。死の真実が見えましたし、なんとなく生きなければならない理由もわかりました」

 

 とても穏やかな語り口調なのに、優しい眼差しをしているのに、この人からはとても「我武者羅」を感じる。

 この人は全身全霊で、今を生きている。

 

「人は何時か死にます。かならず。それまでに生きて色々な人に出逢うべきです。硲さんに出会えたのもきっと何かの縁です」

 

 軽トラックが事務所に着く頃には、私は涙でぐずぐずだった。

 視界が揺らいで上手く頭は回らない。

 事務所に横付けした軽トラックの中で、男は静かに私に名刺を差し出す。

 けれど、書いてある文字は涙で滲んで上手く読めなかった。

 

「塚本です。もし、此処で働きたいと思った時は住職か僕に連絡をください。何時でもお待ちしています」

 

 パタパタと涙が流れて、視界がクリアになる。そして名刺に書いてあった文字が、視界に飛び込んできた。

 塚本雄一郎。塚本クリーンサービス。代表取締役。

 

「わかりました……」

 

 私は振り絞る様に、涙声で返事を返した。

 その日から、寿雲住職の手伝いを時折しながら、資格を修得する為に必死に必死に生き始めた。

 車の免許証を手に入れて、遺品整理の勉強をする。

 心が壊れてしまうことは度々あれど、直接的な死に向かう行為はしない様に必死に耐えた。

 そして23歳の春に、晴れて塚本さんの元に訪れた。彼は、その時も優しい眼差しをしてくれていた。

 20の冬に私は我武者羅に生きることを知る。私の人生が、180度変わった。

 

***

 

 今流行りの陳腐なメロディを、鼻歌で琉生が歌う。

 夜9時半。そろそろ24時間が終わる。

 人通りの少ない綺麗な公園のベンチで二人、夜景を眺めていた。

 琉生は流石に仕事柄なのか、ロマンチックな景色が観れる場所に詳しい。

 星空が地上に降りている様な、目映い美しい世界の中で夢を魅る。

 この世界には私と琉生の二人しかいない様な、そんな幻想を抱いてしまう。

 けれど、時間は過ぎるのだ。

 もうすぐお別れの時間だと思うと、繋いだ手を離すのが正直名残惜しい。

 今日は素敵な夢を沢山観たし、素敵な宝物も頂いた。

 こんなに幸せを噛み締めた夜は、凄く久しぶりだったかもしれない。

 

「一日ってあっという間だよね」

 

 そう言って琉生が空を仰いで、私の手をきつく握る。

 

「ね、あっという間だった!!また何時かこういうの出来る様に頑張るね」

 

 そう言うと、琉生は嬉しそうに微笑んだ。

 

「うん!待ってるから……!!」

 

 これは夢。幻想でしかない。現実はそんなに上手に回らない。

 けれど琉生は夢を魅せてくれる。

 私の世界を、琉生は美しく彩ってくれるのだ。

 

「シュリーは明日もお休みだよね?明日は何をする予定なの?」

 

 特殊清掃は基本的には土日祝日が、きっちり休みになる。

 そして静かに、寿雲住職と塚本さんの顔を思い浮かべた。

 

「あー、明日大事な仲間が帰ってきてるから……会いに行くつもり……」

 

 すると琉生は一瞬目を丸くしてから、何故か少しだけ不安そうな表情をしておどけてみせる。

 

「シュリー!まさか俺というものがありながら……!他の男に!?」

 

 琉生の言葉に思わず噴き出して、首を横にふる。

 

「大丈夫だよ。会いに行く人は素敵な奥さんと可愛いお子さんのいるおじいちゃんだからさ」

 

 琉生はふふっと笑って見せて、私の身体を抱き寄せる。

 

「じゃあ、お別れの時間迄、沢山沢山キスをしよう」

 

 お別れ迄あと少しの間も、甘ったるい幸せな夢に溺れる。

 偽物の恋に酔いながら、琉生と口付けを交わす。

 最後の最後まできっちり夢を魅せてくれる琉生が、とてもとても愛しく感じた。

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