靴磨きと蝶々結び。

兎禾

靴磨きと蝶々結び。

 ──蝶々結び。


 それはきっと今日を飛ぶ為のおまじない。


 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 ある日、とある街に住む女性の靴磨き職人の元にやって来た一人の客人。


 その手には使い込まれた茶色い革靴が大切そうに持たれていました。


「……お願い……出来ますか?」


 客人は小さく言います。


「──はい。喜んで」


 すると女性は優しく微笑み革靴を受け取ると木製のシューキーパーを靴底へ入れたのでした──


 そして、そこにあったのは音のない世界です。


 靴紐をそっと解けばそこに残った跡に女性はその目を静かに細めます。


「お前はこんなに結ばれて幸せだったね」


 靴磨きはそこに長い年月ねんげつを見つけて微笑みました。

 

 紐の無い革靴を左手に、右手に黒毛のブラシを持って。

 

 黒毛のブラシは彼女のかける言葉の代わりです。


「……今まで、辛い事も沢山あっただろう……?」


 静かに落ちる埃に尋ねてみれば、浮かんだ傷は誇らしげに笑ってみせます。


「そうだね……歩いて来たお前はそれで良い……」


 革の硬さが二人の時間なら。


 そこにる歴史のいくつ、私は感じてやれるだろう?


 女性はただ静かにその手を動かします。



 そして音の無い空間ばしょに響く所作の音。


 靴磨きと革靴。二人を繋いだことばの先に。


 蘇るのは何処までも真っ直ぐ心に染み入る客人と革靴ふたりの思い出です。



 それから女性は指に白いクロスを被せると手の甲側でねじってぐるっと一周。


 流れる様な鮮やかな手捌きで白いクロスを指に巻いていきます。


 少し濡らして、今必要なのは力じゃなくて、誰かの心に触れる配慮の気持ちです。


「……痛くはしないから……」

 

 革靴に着いた汚れ、クリーム、ワックス、その身についた全てを落とせば。


 光沢を失くした革靴は少し恥ずかしそうに微笑わらっています。

 

 白いクロスを指から外し、同じ色のクリームを指先にほんの少し付けたら円を描いて伸ばす先。


「傷跡はずっと失くならないけど、私はそれで良いと思うから。だからせめてその跡だけは、消させておくれ」


 想いを感じて。

 なぞる指先……靴磨き。


 想いを乗せて。

 なぞる指先……靴磨き。


 豚毛のブラシで擦り込んでこする度に馴染む色。


「……その傷跡にはちょっと滲みるかい?」


 手の中で少し柔らかくなった革の感触。


 それはまるで誰かの心の様でした──


 女性は再び白いクロスを指に巻くと余分なクリームを拭き取ります。


 白いクロスに付いた色の跡。


 鮮やかな色を取り戻した革靴は嬉しそうに笑っています。


 そして、最後に女性は指先から一滴の雫を溢します。


 それは靴磨きから願いを込めた贈り物。


 未来という名の『言葉』なのでした。


「どうかあなたの歩く道に光あれ──」


 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 結び目。


 私はそっと摘んで輪を作る。


 靴紐に最初に付けた紐の跡。


 これからいくつの跡を此処に残して。


 ──蝶々結び。


 それはきっと今日を飛ぶ為のおまじない。

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