10月第4週



 その日は冬が山から顔を出したみたいだった。秋を置き去りにする北風が、葉に黄を滲ませたばかりの街路樹ソメイヨシノをバサバサと揺らしていた。

 僕は冬があまり好きではない。その理由は寒さだけに絞られる。動くのも億劫になるし、それは僕に限られたものではないから。

 案の定、滝田先生はインターホンを押した僕を出迎えなかった。スマホに『入室を許可する』とメッセージを受け取った僕がリビングで目にしたのは、こたつと一体化した彼女の姿だった。隅に寄せられたぶら下がり器具の下では、みかんのダンボールが山積みになっている。やはり冬は嫌いだ。ずぼらな女がさらに動かなくなる。

「鍵閉めないのは不用心ですよ」

 僕がそう言うと、先生はフェイシャル加湿器の水蒸気を顔に浴びながら、眠そうに答えた。

「悲しいね、小泉。世の物事はすべからく起点をもって始まっているのだよ。キミが午前中から私の城に押しかけるなんて不作法な行いさえ自重してくれれば、こうやって爪を黄色くさせる必要も無いだろうに」

「相変わらずみかんお好きなんですね。一ついただきますよ」

「別に好きで食べてるわけではないよ。人間、食べないと脳が回らないだろう? でも朝食を作る時間も手間も作家には惜しいものでね。だから私は効率的に考えて、昼過ぎに起きるようにしてるのだよ」

「ゲームに懸ける意欲と時間をほんの僅かでも割いてくれれば、豪勢な朝食と小説の執筆は可能だと思いますが。それよりみかん美味しいスね。まだ少し酸っぱいけど、このくらいのが一番好きかも」

「疑問だったんだが、どうやって私のSNSを突き止めたんだい? 裏アカだから辿り着けるはずがないんだが」

「編集者というのは、悲しいことに法規的強制力を何一つ持たない人種でしてね、仕事をサボる人間をルールに害しない範疇でいかに働かせるかということに神経を注ぐんですよ。ネットをチェックしたりするのも、その手段の一つです。先生の作品の掲示板で普通に特定されてましたよ」

 先生は上唇が鼻につくほどに顔をしかめた。

「ネットの掲示板か……それは盲点だった。私はまったく見ないからな」

「興味ないんですか?」

「大トロも霜降りステーキも毎日食卓に出されたらうんざりするだろう? 称賛はもう聞き飽きてるのだよ」

「その性格ホント羨ましいですよ」


 こたつというのは人類の進化と怠惰を象徴する発明品なのかもしれない。少し足を伸ばそうと横になったら起き上がれず、先生がゲームを始めても止める気力が湧いてこない。

 やかましい音をまき散らすテレビ画面は、次々と撃たれるゾンビの絵でいっぱいだ。巧みに射撃を続ける先生は、あくび混じりにこんな話を始めた。

「──ときに小泉。キミ、走るゾンビってどう思う?」

「はい?」

「最近のゾンビは俊敏性に優れてるものが珍しくないんだが、私はこれに疑問を禁じ得なくてね。それはもはやゾンビと呼ぶに相応しい存在なのだろうか」

 どうでもいいわそんなん、と言いたくなったが、みかんを貰った手前もあるため僕は黙って耳を傾けた。

「名詞というものは、その存在を象徴する記号だ。皇族という記号が税金で飯を食う価値のある一族として相応しいべきであるようにね。ゾンビが走ったら、それはもうゾンビではないのではなかろうか」

「考えすぎじゃないですかね。世の中には中華そばなんていう紛らわしい食べ物もありますし」

「むむむ、キミがラーメンの話をするから食べたくなってきたじゃないか。少し早いが出前でも取るとするかな」

「仕事の話は?」

「腹が減っては戦はできぬと言うだろう」

「テーブルに数え切れない程みかんの皮が散らばってるんですが」

「キミもラーメン食べたいだろう? せっかくだから私がご馳走してあげよう。こんな編集思いの作家は他にいないな」

「結構です。会社に弁当あるんで」

「なあ小泉、キミも社会で働く一員ならコミュニケーションの重要性くらい理解しているだろう? 優れた仕事には円滑な意思伝達が欠かせないのだよ。それを可能にするには、同じ釜の飯を食うのが最も効果的だ」

「……滝田先生」

「なんだい?」

「あんた、こたつから出たくないがために俺に出前の対応させたいだけでしょ」

「ちっ、バレたか」

 玄関を開けっ放しにして出てってやろうかとも思ったが、そこはいい大人なので、無断で袋詰めしたみかんを頂戴するだけにとどめた。冬は嫌いだが、みかんに困らないことだけは利点だ。



 午後からは取材の仕事だ。撮影も兼ねていたので、僕は社の車で杉元さんを迎えに行った。ブルーデニムと焦茶色のレザージャケット姿の杉元さんは、駅から出てくるなり思い出したように黒ニット帽をかぶり、僕に気づくやショルダータイプのカメラバッグを抱えるようにして小走りで来た。

「今日が屋内撮影で良かったよ」と助手席に乗り込んだ彼は、擦り合わせた両手に息を吐いた。

「お店の外観は撮ってもらいますけどね」

 買ったばかりの缶コーヒーと先程のみかんをお裾分けすると、杉元さんは幸せそうにゴクゴクと飲み干し、みかんは一つ一つ丁寧に白い筋を剝きながら口に入れた。

「あの店知ってるからイメージはもうできてる。コイちゃんは食べに行ったことある?」

「ないんですよ。杉さんは?」

「学生の頃に何度かね。デートの日はお世話になった。それよりこのみかん美味しいね。コイちゃんちで買ったの?」

「山程あるんでいくらでも持ってきますよ」


 取材場所は、秋風町の外れにある洋食店『du repos(デュ・ルポ)』。来月号の『爽籟』のグルメページに載る予定だ。

 郊外方面のいくらか込み入った立地に建つので駐車スペースは限られているが、大通りや大型デパートに近いこともあってか集客環境は悪くないようだ。僕らはランチタイム終了から夕方までの合間を縫って撮影許可をいただいた。仕込みの忙しい時間でありながら、老夫婦が笑顔で出迎えてくれたのは嬉しかった。コックコートを着たのがご主人、カジュアルな普段着に赤いエプロンをかけたのが奥さん。

「いらっしゃい」とご主人。

「今日は冷えますねえ」と奥さん。

「寒いですね。本日はお時間を作っていただきありがとうございます」

 簡単な挨拶を済ませると、杉元さんは店頭にパシャパシャとカメラを向けながら「懐かしいなあ」とため息をついた。

「変わってないでしょう?」と奥さんはにっこり笑った。

「青春を思い出しますね」

 入店すると、デミグラスソースの良い香りが真っ先に飛び込んできた。店内は奥行きのある造りで、道に面した窓側や壁際にテーブル席が並び、L字カウンターの奥に厨房が見える。建物自体は年数を感じさせるが、白を基調とした壁床は小綺麗で、テーブルクロスは汚れ一つない。

 入口そばに立て掛けられた黒板には、本日ディナーのおすすめメニューがチョークで記入されていた。カレードリアにミックスフライ定食、奥さんお手製のプリンなどなど。

 僕の目に止まったのは『変わらない味』と冠の打たれたハンバーグ。何を隠そう、これが今回の取材対象だ。

 いつの間にか腕をまくっていた店主は、おいしょと腰にエプロンをかけ、職人気質の気持ちの良い笑みを向けながら言った。

「作るのはハンバーグでよかったんだっけ?」

「はい。よろしくお願いいたします」


 『du repos』は今年で開店40年になる。東京のレストランで副料理長を務めたご主人と、そこでウェイトレスをしていた奥さんが始めた店だ。

 従業員は料理学校を卒業した正社員の男女が二人。ディナータイムには女子高生のアルバイトが一人加わるらしい。

 ご主人の調理工程を撮る杉元さんの邪魔にならないよう、僕は従業員二人に簡単な経歴と店の特徴を伺い、それからカウンターで奥さんにインタビューした。もうじき70歳になる彼女だが、ハキハキとした受け答えはとても若々しく、他意のない親しげな笑みが魅力的だ。

 そして、とても気さくなお人柄でもあった。

「──色々大変でしたのよ。開業するまでもしてからも。あちこちビラ配ったり、不当な立ち退きと戦ったり。ようやく軌道に乗った時でさえ、落ち込むことも少なくなかった。でもね、そんな私を救ってくれたのが、これ──」

 奥さんがエプロンのポケットから取り出した小箱は、栄養サプリだった。見覚えがあるのは、前に広末にオススメされたものと瓜二つだからだろう。

 呆然とまばたきを繰り返していると、奥さんはおかしそうに笑いながら僕の肩をはたいた。

「やだもう。ベタに青汁の方が良かったかしら?」

「そういう番組ではないです」と僕も釣られて笑ってしまった。

「ホントはね、一番大変だったのはこっちに越してくる前だったの。元々私も主人も東京の人間でね、こんな田舎……と言ったら怒られるかしら、アハハ」

 こういう仕事をしていると、言葉の呼吸というか、行間の狭間で生まれる息継ぎに、自然と目がいくようになる。彼女の愉快な言い回しから、それを言葉にできるようになるまでの年月の重み、いまだ言葉にはしづらい葛藤のようなものが、所々で感じられた。

 それから幾度と冗談を挟んだ彼女だったが、そのターニングポイントを口にする時だけは、しんみりとした口調に変え、それでも辛いことばかりではなかったと言わんばかりに、なごやかに目尻を下げた。

「結婚してすぐの頃だったかしらね。悲しいことがあった。あったというか、分かったというべきかな」

 彼女は、ぴんと伸ばした左の薬指をじっと見つめた。

「物心ついた頃から当たり前のように抱いていた夢が、一つ消えてしまったの。それは、今後の人生のどんなことでさえも埋められない、かけがえのない夢だった」

 きよらかに細められた目が、厨房へと向けられる。

「それからですかね。俺たちの店を持たないかって主人が言い出したのは。自分たちの居場所を作るんだ、って……当時は何を言ってるか分からなかったけど、今は、とても感謝してる」



 肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。

 杉元さんは、奥さんに並べてもらった食器を実物に見立て、照明をセットし、三脚に乗せた固定カメラの位置を合わせ、首にさげた一眼レフカメラを向けて様々な角度を確かめた。僕は彼の指示を仰ぎながら、レフ板を傾ける。子供でもできる仕事だが、欠かせない役割だ。

 ご主人が料理を持ってくると、そこからはあっという間だった。まばたきを忘れた杉元さんの瞳が、被写体の隅から隅までを忙しく見渡し、まさに焼き付けるような熱を帯びていく。

 料理を撮るのは短距離走に似ていると杉元さんは言う。限られた時間に息づく湯気も、熱の煌めきも、すべてを的確なやり方をもって、一瞬で枠の中に収めなければならない──。

「うん、いい感じ。コイちゃん、一口切って持ち上げて」

 そんな杉元さんとの仕事は好きだ。素人の僕にも分かりやすく指示してくれるし、何より、一つのものに懸けるそのプロの姿勢が、僕をより良い方向へと感化させてくれる。

 そして、驚くほどに早い。料理が来てものの一分足らずで終わってしまった。

「うん、オッケー。ご主人、いただいていいですか?」

「どうぞどうぞ」

 撮影を終えた僕らは冷めないうちにハンバーグを賞味した。杉元さんの仕事が早いのはそのためなのかもと思うこともあるが、彼の写真の出来栄えを見れば誰も文句は言えなくなる。

 杉元さんは思い出と照らし合わせるみたいに頷きながら、舌鼓を打った。

「美味いなあ。全然変わってないですね味」

「でしょう? それが自慢だからねえ」



 ご主人のインタビューは、僕にとって忘れられないものになった。

「──こちらでお店を開かれたのは、ご主人のご提案だと伺いました」

「人間というのは、何かを残したくなる生き物だ。だから皆、絵を描いたり、物語をつくったり、新記録を目指して練習に打ち込んだりする。私らの場合は、この店だったってことだね」

「今後の抱負や展望をお聞かせください」

「んー、もう歳だからねえ。旅行行ったり、小さな土地買って畑にしたいとかなんてのはあるけど、それは家内との楽しみであって、店の展望ではないやね。あと何年できるか分かんないし」

「具体的な構想というものはお持ちでしょうか?」

「……ここだけの話なんだけどね──」

 店主が口元を手で隠したので、僕は慌ててボイスレコーダーを停めた。

従業員二人あいつら、イイ感じなんだよ。余程のことが無い限りこのまま籍入れるんじゃないかってくらい」

「へえ。それはそれは」

「もしあの二人が一緒になって、この店の味を継いでくれるなんて嬉しいことを言ってくれたら、そっくりそのまま明け渡しちゃってもいいかなと思ってるんだ。ただ、その時は看板だけ変えてもらうけどね。名前なんてのは多くの人にとってただの記号だけど、命名者からすればちょっとした想いがあるもんだから」

 中華そばを作ってきた人からすれば、それは中華そばであって、ラーメンではないのだろう。

 僕がそんなことを考えていると、店主はニヤニヤした顔を近づけて囁いた。

「何よりさ、面白くない?」

「おもしろい?」

「二人の名前聞いたでしょ? 西山くんと東浜さん。西と東だよ? 対極にある名前の二人がくっついて、未来に羽ばたいていくなんて、とっても新時代的でしょう。ドイツが東西に分かれてた時代を生きてた人間からすると、そういうの、何だか嬉しくってねえ」

 僕はそういう考え方をする彼に面白さと好感を抱いていた。何かを作って売る人というのは、やはり、ものの見方が独特だ。

 僕のそんな視線に照れたように笑った彼は、いくらかはぐらかした口調で続けた。

「まあ、別に店の味は継がなくてもいいんだけどね。それにここじゃなくてもいいんだ。好きにやってくれたらいい。いつか家内とね、彼らの店にお客として行くんだ。そこで彼らの子供が、すくすくと大きくなっていくのを眺めながら、美味しいものを食べさせてもらう……そうだな、うん、そういう展望というか、そんな夢みたいなものは、たまにみてるよ」

 僕は公私を分けるように務めている。でもこの時はなぜか、無意識に、自分をさらけ出してしまった。

「……個人的な質問をしてもいいですか?」

「ん? どうぞどうぞ」

 僕はボイスレコーダーをかばんにしまい、姿勢を正してから続けた。

「お子さんができなかったという現実は、お二人の人生にどのような選択肢を与えたのでしょうか」

 ぼんやりとしたまばたきを挟んだ店主は、僕の左手から顔へと目線を移しながら、無防備に垂れていた下唇を閉じ、そっと、その両端をやわらかく持ち上げた。

 ほっこりとした微笑を浮かべた彼に、目の前の男はどう映っていたのだろう。分からなかったけど、彼は終始、思いやりにあふれた声をもって答えてくれた。

「いろんな葛藤があったよ。うん、いろんなことを考えたのをよく覚えてる」

 カウンターの方で杉元さんと談笑する奥さんにたおやかな横目を向けながら、彼は続けた。

「それは私なんかよりも、家内のほうが大きかったと思う。差別するわけじゃないけど、やっぱりこういうのって、女の人の方が直接的だからね」

 今、目の前にあるものを、あたためるように、労うかのように、そっとまぶたを閉じてから、彼はもう一度僕を見つめて、こう言った。

「求めていたものが手に入らないと分かったら、誰もが途方に暮れる。だから人には、いつだって代わりとなるものが必要なんだ。高級店のハンバーグは難しくても、ウチのならいつでも食べられるだろ? そんで少しは満足してもらえたら、こんなに嬉しいことはないよ」

 あたたかいなにかが、血に溶けたみたいに僕の中を駆け巡った。

 たぶん、その時だったのだと思う。

 妻がどうして僕にラブレターを書かせるのか……その理由の輪郭に、初めて触れられた気がしたのは。

「──小泉さん、でしたね」

「はい」

 背筋を伸ばした僕に、人生の先輩は明るさに努めた声で続けた。

「何事も楽しむことが一番だと人は言う。でも本当はね、楽しまなくちゃやっていけないんだ。長い人生だから、幸せなことよりも苦しいことの方が多い。それでもね、どんなに大変でも、辛くて周りが見えなくなっても、良いことや明るい道ってのはあるんだ。見えづらくなってるだけで、必ず、あるんだよ。いくらかカッコつけた言い方をするなら、そういうのを、前を向いて生きる、って言うんじゃないかな。ははは、腹の下が痒くなっちまったや」



 最後に店頭で集合写真を撮らせてもらった。男たちが遠慮なく肩を組み、女たちが腕を組み合ったその絵は、家族写真にしか見えなかった。西山くんは、インタビューでご夫妻のことを「第二の父と母です」と誇らしげに語った。そんな彼に東浜さんは「いやいや、第二のおじいちゃんおばあちゃんでしょ」と笑っていた。

 du repos(デュ・ルポ)……日本語で、憩い・休息。気取らない外観とのどかな店内、そして庶民価格の変わらない味は、誰もが気軽に立ち寄れ、それでいて次の活力を与えてくれるこたつみたいに思えた。

 取材のお礼ついでに、僕は聞いてみた。

「今度、妻と一緒に食べに来てもいいですか?」

「もちろん。楽しみにしてるよ」と老夫婦はまっすぐ前を向いて、笑顔をくれた。




『そこには熟練の味があった。

 真っ白なお皿に乗せられたハンバーグは、何一つ奇をてらうことなく、悠然と湯気に包まれていた。何十年も継ぎ足しされた黒いデミグラスソースが、その澄み切った肌を宝石のごとくきらめかせる。付け合わせは人参グラッセと彩りに飾った一本のクレソンのみ。自信のある証拠だ。

 出来たてのパンみたいにふっくらやわらかに仕上がった表面に対し、ナイフを入れた断面は肉がびっしりと詰まっている。牛:7 豚:3 の黄金比率。上から押してようやく肉汁が垂れてくる程の肉質だ。

 しなやかな弾力で、噛むたびにほろほろとした心地よさに包まれる。実にクセになる舌ざわりだ。その食感を生む秘訣を知ろうと調理過程を見せてもらったが、特別な作業や調味料は見当たらなかった。「そこはもうね、感覚だよね」と控えめに話すご主人。だが迷いのない手付きでタネを丸めていくその横顔には、彼が身につけてきた技量の表れがたしかに浮かんでいた。


 開店から40年。目まぐるしく移る時代の中、度重なる困難や食材高騰に見舞われた。それでも、この味だけは変わらない。匂いも、見栄えも、口に入れた時に広がる肉汁の甘さも、鼻腔をさわやかに抜けていく赤ワインの香りも。

 真新しさはない、けれど、ここにしかないハンバーグ……頬をほっこりと緩めてくれるこの旨みとあたたかさを、ぜひ体感してほしい。


 秋風出版編集者 小泉源 』




 僕はよく妻に文章の相談をする。この日も夕食の後に、ハンバーグの写真と一緒に見てもらっていた。

「──どうかな?」

「ところどころ主観が出過ぎてるかな」

「それ部長にも言われる」

「でも、よく書けてる。食べに行きたくなるもの」

「今度一緒に食べに行こう」

「うん。楽しみ」


 それから世間話を挟んだ後、恒例の時間がやって来た。まるで賞状でも受け取るかのように差し出された両手に、僕も仰々しくラブレターを乗せてみる。

 今週の封筒はエレガントに深紫色ダークパープル、便箋は白地の縁をロートアイアン調で彩った横書きのものを選んだ。




『 親愛なるハルさんへ



 夕焼けが見えてくると、あなたの声が聞きたくなって

 薄暗くなると、あなたのぬくもりが恋しくなる。


 玄関を開けてくれるハルさん

 ソファで小猫みたいにもぞもぞとだらけるハルさん

 犯罪に走らせそうな美しい微笑で、わがままを言うハルさん

 頭を撫でて僕を送り出してくれる、ハルさん


 そんないくつものあなたを思い浮かべ、日に日に夕暮れの早まる家路を急ぐ。


 最近、めっきり寒くなってきた。

 寒いのは苦手で、暗いのは、怖い。


 それでも、あなたがいてくれるから、僕は一人で帰れる。

 あなたが待っていてくれるから、僕は一人で、仕事に行ける。


 あなたが笑ってくれるから、僕は弱くなれる。

 添え木にすがる苗木みたいに、あなたを求めてる。


 ねえ、ハルさん。

 僕はたぶん、昔の僕には戻れない。

 だって僕は、そんな自分を、とても気に入っているのだから。


 弱い自分を、あなたに預け

 曇らぬ意志で、あなたを支える。


 情けないなんて、言わないで。

 頼りなくとも、どこにも行ったりしないから。


 お日様の出てくる方へ、二人で一緒に、手を伸ばそう。




 小泉源 』




 吹き出しながら手紙を読む妻を眺めながら、僕はご主人の言葉を思い出していた。ラブレターを書くというのはいまだに慣れないけれど、僕にはこれが暗い道とは思えなかった。

 北風が、殴りつけてきたみたいにガラス窓を揺らした。

 寒さと暗闇が、僕らを狙っている気がした。

 僕はカーテンを貫くほどの眼差しを向け、心に誓った──。

 この人を、お前たちに渡したりなんかしない。


 妻はクスクス笑いながら、丁寧に戻した手紙を両手の親指に挟み、神社で拝むみたいにお辞儀した。

「今週も堪能させていただきました。ごちそうさまです」

「はい、お粗末さま」

 今夜も冷えるみたいだ。押入れから毛布を出そうかと考えていたら、寝室の前で立っていた妻があでやかな声で僕を呼んだ。

「ゲンちゃん」

「んー?」

「お風呂から上がったら、おいで」


 その夜の入浴時間は、カラスに負けず劣らずのタイムだった。





 来週に続く。



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週末のラブレター 跳ね馬 @haneuma1228

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