10月第3週



 肉体と精神は一蓮托生だ。病は気からという言葉があるように、双方は密接に繋がっている。

 その理屈から、意識改革には新しいことを始めるのが一番らしい。旅に出るとか大それたものではなく、ウォーキングをやってみるだけでも十分な前進なのだとか。


 そんなわけで、いつもはお昼過ぎにセッティングされる滝田先生の打ち合わせだが(それでもよく寝坊されたが)、この日は午前中からお邪魔することにした。

 案の定、彼女はむくれた顔で出迎えてくれた。今にも閉ざされそうな目は陽射しに焼かれているみたいに腫れぼったい。

「なんだなんだ、日本が沈没でもしたのか? いったい今何時だと思ってるんだ」

「午前10時です。というか何度も連絡しましたよね?」

「私が低血圧なのは知ってるだろう。担当編集なら少しは気を遣ってもらいたいものだな」

「朝の通勤ラッシュはとっくに終わってる時間帯なんですがね」

「まさかとは思うがキミ、これから毎回こんな不謹慎な時間に押しかけてくるつもりじゃないだろうね?」

「それは今後の先生次第ですかね。停滞した状況を打開するには、生活サイクルを変えるのが効果的らしいんで」

 リビングは相変わらず、一癖ある芸術家が演出した舞台みたいだった。色々なものが雑然としているが、唯一の救いはゴミ屋敷と化していないところだろう。この女はずぼらだが、綺麗好きではある。もっともその清潔さは汚れや埃だけを対象とし、床に散らばった漫画や雑誌を片付けようとする意欲は備わってないようだが。

 客が部屋の整頓を行い、家主がソファでふんぞり返るという奇妙な構図の中、さも当然といった顔に美顔ローラーを転がしていた先生があくび混じりに言った。

「生活サイクルの変換ねえ。イマイチ信憑性を感じないな」

「前にテレビに出てた学者さんが言ってたから確かかと。そこ、本片付けたいんで足どけて」

「小泉、キミは説得力という言葉を知っているかい? 最近の目立ちたがり屋は、自分が高尚な魔法使いにでもなったと勘違いしてるかのごとく、それらしい言葉を口にしとけば何とかなると思っている。まったく、市民プールで水着を脱いで日焼けしているバカップルより見苦しい連中だね。説得力とはいつだって、その人間が成してきた行いによって備わるものなのに」

「ほうほう」

「テレビをつければいつでも出てくるだろう? お前が言うなよ、って人間が。そういう連中に限って、自分が困ったら普段バカにしてきた脳筋戦士にもっと人様のために筋肉を使えなんて無理難題を掲げるのだよ。そりゃ良識ある若者はみんなテレビなんてつけなくなる」

「ご高説痛み入りますが、何ヶ月も締め切りを守らない人から聞いてもいまいち説得力がないんですが」

「悲しいね、小泉。どうやらキミもこの御時世の毒に侵されているようだ。右向け右の大衆はいつだって、物事の本質を捉えようとしない。その言葉に備わる正否よりも、誰が言ったかの方を重要視してしまう。ホモサピエンスの最前線を行く現生人類として恥ずかしいと思わないかい?」

「舌の根が乾かない、という言葉の最もな事例に直面した気がしますよ」

「あー言えばこー言うなら知ってるが」

「コーヒーもらいますね」


 最初の10分は仕事の話に付き合ってくれた彼女だが、僕がトイレから戻った時にはゲームのコントローラーを握っていたので、危うくズッコケそうになった。何が腹立たしいかって、小説の打ち合わせよりも画面に目を向ける眼差しの方がやる気に満ちていることだ。

 前に無断でコンセントを引き抜いたら一ヶ月口を利いてくれなかったので、僕は隣に座ってやんわりと呼びかけることにした。

「お願いしますよ滝田先生。もう何ヶ月休載してるんですか」

「お堅いこと言うなよ小泉。世の中、誰の代わりもいくらでもいるものだ。私がサボったからって誰も困らんし、世の不景気は改善しないよ」

「担当の僕が困るし、『爽籟』の売上にも関わるんですが」

「そういえば私の穴埋めに載ってた今月号の短編、なかなか良かったな。一夜にして進化した鶏や豚さんたちが、厩舎の脱走を企てるってお話。どんなに知能が発達しても、人とコミュニケーションをとれないってところがツボだった」

「代わりに書いてくれる作家先生が見つからなかったから、出版社ウチで運営してる小説投稿サイトに掲載されてるアマチュアの方にお願いしたんですよ。快くご協力いただけて助かりましたが」

「便利な世の中になったものだ。供給と生産の比率が人と魚の出産数ぐらい差があるところが滑稽だよ」

「仕事中にゲームのレベル上げを始める人は滑稽を通り過ぎてドン引きするんですが」

「自社で飼ってるアマチュアに本誌掲載という餌をちらつかせ作品を提供させた、か……供給側キミらからすれば、そこらの石ころを拾うみたいな感覚なんだろう。こんな楽な商売他に無いな」

 いくらか意地悪な物言いだったが、事実として間違ってはいないので僕は返答に困った。

 先生はまつ毛をキッと伸ばし、僕に横目を向けた。

「小泉クン、キミはそれでいいのかい?」

「こういうのは正しいやり方ではないって思ってますよ。僕も会社もね。席に座ってる人が相応しい仕事をしてくれないと、たくさんの人にしわ寄せが行く」

 先生はおもむろに立ち上がるや、窓を開け、粛々とした顔で禁煙パイプをくわえた。流れてきた微風が、ふんわりとシャンプーの香りを泳がせる。

 彼女をよく知らない人だったら、その横顔に心惹かれたりするのかもしれない。化粧気のない唇から放たれる、普段のひょうきんな軽口とは一線を画すおごそかな声色に、胸を打たれるのかもしれない。

「なあ、小泉……私はね、現在のエンターテインメントの在り方に疑問を抱かずにはいられないのだよ。たしかに稀に本物も出回るが、大半は知名度や宣伝力に脚色メッキされた紛い物ばかり。キミが見つけてきたあの短編みたいに、カットすれば宝石にもなり得る原石があちこち落ちてるにも関わらず、現実問題、声の大きな人間が拾った石ばかりが世に放たれる」

「それは今の時代や出版業界に限った話ではないと思いますがね」

「どれだけ情報伝達が発達しても、それを使いこなすのは人だろう? 結局のところ、科学がどれだけ進歩しようと、人は何一つ進化しちゃいないんだ。家畜がいつまでたっても酪農家に反抗できないようにね。私はね、そういうことを考えてると、夜も眠れなくなるんだ。仕事なんかしてる場合じゃないと思っちゃうんだよ」

「それが、新作RPGを徹夜でやり込んだ言い訳ですか?」

 驚愕に振り返ったその顔は、みるみると赤くなった。

「き、貴様! なぜそれを知ってるのだ!?」

「あんたがSNSに載せたからだよ」




 何とか早寝早起きのサイクルに矯正したかったが、トイレに行くと言われて目を離した隙に寝室にこもられたとなってはどうしようもなかった。僕はリビングを執筆に相応しい環境に整え、腹いせに戸棚から妻の好きそうなお菓子を2,3コ頂戴して、出版社に戻った。


 僕が金曜日に早く帰るようになったことは、狭い社内ではすでに周知だった。妻がどういう人なのかも知られていたので、同僚たちは夕方が近づくにつれ僕を平和的にからかうようになった。厄介な職場だ。これでラブレターを書かされてる事実まで知れ渡ったら、金曜日は休暇申請書を出すかもしれない。

「先輩先輩──」

 広末がポケットに収まる程の小箱を差し出しながら楽しそうに囁いてきた。栄養サプリのようだ。

「シジミって、とっても健康に良いらしいですよ」

「そう」

「今夜のために、充電チャーンス!」

「しまえ」


 帰り支度をしていると、取引先から戻った部長が声をかけてきた。

「小泉くん、どうだった? 先生の方は」

「寝室に立て篭もられました」

「ああ……それは、あの人の十八番だね……」

 直属の上司である部長は、人によって印象や評価が異なるタイプだ。横髪がいつも変な方向に飛び跳ねてる七三分けは、お茶目ともだらしないとも受け取られ、アイロンをびしっとかけたシャツに締めるネクタイがいつも微妙に曲がっているので、独身なのか既婚者なのかは一目では断言できない。やつれたアラフォーと言う人もいれば、のどかな聖人と称する人もいる。温厚な言動に虫も殺せないような微笑は、あらゆるトラブルを穏便に済ませてくれるが、見る人によっては弱々しく映ったりするらしい。

 僕はどちらかというと好意的に感じている。責務さえこなしていれば自由にやらせてくれるし、滝田先生の件も僕だけに責任を押し付けず、一緒に専務のお叱りを受け止めてくれる。端的に表せば、適切な能力を備えた無害な人で、幼稚な言い方をすれば、幸せになってほしいと思うタイプの人だ。

 そう思うのは、彼が滝田先生の担当だったことも関係しているのかもしれない。僕も散々な目にあわされてきたが、当事者二人の口から聞いた前担当への仕打ちは、僕なんかの比ではなかったから。

「──彼女、何か恥ずかしい失敗をすると、すぐ部屋に閉じこもっちゃうんだ。それだけなら可愛げがあるけど、中で何やら良からぬことを企んでたりするから恐ろしくて。そして一晩寝たら次の日にはコロッとしてるからタチが悪い」

「何やってるんですかね」

「あの人昔、呪術だか黒魔術だかにハマってた時期があってね、扉の向こうでこの世のものとは思えないおぞましい呪文を聞いたことがあるよ」

 彼の口にした昔という単語は、いったいいつのことを指すのだろう。

 僕は気になって仕方なかった。

「前から思ってたんですけど、部長って先生と付き合い長いんですか?」

 部長は目を泳がせながら「さあ、どうだろう……」と声を震わせた。それから僕の二の句から逃げるように、慌ててどこかへ消えた。




 今週の妻の料理は、恐ろしい程ビールに合うものばかりだった。彼女お手製タルタルソースをふんだんにかけたカキフライ。一口サイズに切ったマグロとアボカドのごま油ポン酢和え。オクラと納豆の梅和え。砕いたアーモンドを散らせたシーザーサラダ。そして極めつけは、たっぷりのガーリックチップを添えた鴨肉のロースト……これは危険なメニューだ。色んな意味で美味しすぎて、ぺろりと平らげてしまった。


 食事を終えると、ビールをちょびちょび飲みながら互いの仕事の話をした。その流れで、『爽籟』に掲載された短編の話題になった。

「──進化のベクトルは常に前向きだと思う?」

「そう願いたいけど、滝田先生を見てると疑問符を拭えないかな」

「ふふふ。前に翻訳した本に、寄り道は創作家の修練というセリフがあった。どんな物事からでも何かを吸収し、それをアウトプットできる人を創作家と呼ぶのかもね」

「成功者の性質に似てるね。憎たらしいけど、あの人も成功者の一人か」

「人はモチベーションに左右されがちだけど、動物はどうなんだろう」

「脳のつくりが異なるから何とも言えないけど、欲望や生存本能に従順なんじゃないかな。キリンが首を長くしたり、ウニが殻にトゲをつくったみたいに」

 滑らすように目線をそらした妻は、物憂げにまぶたを下ろし、こう言った。

「いずれ殺されると知った家畜は、どんな進化を望むのだろう」

 ふっ、と人の声を際立たせる静寂が立ち込めた。キッチンのテーブルの上から僕らを見下ろしながら、もくもくと、男と女を隔てていく。

 彼女はどうか知らないが、僕はこの静けさが嫌いだった。ずっと、前から。

 淀んだ空気を払うみたいに、妻はニコッと笑って立ち上がった。

「先にお風呂もらっていい?」

「できれば一緒に入りたいかな」

「お先いただきまーす」


 一人で飲むビールはあまり美味しくなかった。たぶん、頭に浮かんでいた言葉が味覚を阻害していたんだと思う。

 進化のベクトル……。

 俺たちは、絶対に、正しい方向に進んでる。きっと……──。


「ゲンちゃんゲンちゃん──」

 妻に肩を揺すられハッとした。いつの間にかウトウトしていたようだ。前髪をヘアバンドで持ち上げた妻の素顔を見つけるや、僕は無意識に唇を近づけた。

 前後の記憶がおぼろげだったが、優しく受け止めてくれたそのあたたかさは、疲労も何もかもすべてを吹き飛ばしてくれた。

「私にもビールちょうだい」

「ぬるくなってる」

「もう一本開けちゃう?」

「いいね」


 4,5人が難なく囲めるこのキッチンテーブルは、結婚前に妻の要望でオーダーしたものだが、正直僕は、このサイズがあまり好きではなかった。大きければそれだけ、対面に座る妻と離れてしまうから。

 だから、今みたいに隣に座ってくれると、とても嬉しくなる。

 なんだか十代の頃に戻った気分だ。こうして片手を繋いでいるだけで、幸せに満ちてくる。

「ねえ、ゲンちゃん──」

 妻は頬杖をついて僕を覗き込んだ。

「私が最近朝遅い理由、知ってる?」

 長いまつ毛が魅惑的に揺れるまばたきに、たまらず音を立てて唾を飲み込んでしまった。

 僕はごまかすように咳払いを挟んでから答えた。

「翻訳の仕事をしてるものだと思ってたけど」

「そうじゃないんだなあ」と妻はもったいぶった声色を用いた。

「……徹夜でゲームとかしてないよね?」

 妻は昔から僕を試すようなところがあって、通知表を眺める母親のような顔でよく「ふふん」と吹き出して笑う。その楽しげな微笑に、得もしれぬ快感というか、生きた心地を感じてしまう僕は変態なのだろうか……いや、正常のはずだ。ニンニクや牡蠣のせいだろう。

 こんな精のつくものばかり食べさせたのは、ひょっとしてひょっとするのだろうか。なんだか今夜はいけそうな気がしてきた僕は、妻に催促される前にラブレターを差し出した。

 封筒は爽やかなライトブルーで、便箋は横書きのアンティーク調のものにした。毎度のごとく妻は当たり前のように僕の目の前で便箋を広げたが、先週に比べたら何てことはなかった。




『 親愛なるハルさんへ



 この前、夢をみた。

 僕があなたを探しに行く夢。


 温水プールに浮かんだ心地で、薄闇の中をふわふわと宛もなく漂いながら、何度も何度も、あなたの名を呼んだ。


 僕が僕であることを証明する、そのうららかな名詞を唱えるたびに、僕の体と意識は、シャボン玉のように弾けて、寿命間近の蛍光灯みたいに、いくつもの明暗をさまよった。


 手の感覚が無くなったと思えば、足の裏をハンマーで叩かれてるみたいに激しく駆けて

 腰から下が泥のように溶けたと思ったら、片翼が傷ついたツバメのように、ふらふらと、雲をかき分けていた。


 色んな景色があった。


 二人で行った場所、見たこともない場所、僕だけが知っている場所、二人で行きたいと語った場所……。

 あたたかい空気、凍えそうな風、目眩のするような音、ゴムまりの中にでも閉じ込められたかのような圧迫感……。


 だけど、そのどこにも、あなたはいないんだ。

 僕がこんなにも、その名を繰り返しているのに。


 ハルさん、知ってる?

 夢からさめたことに気づかず、うつらうつらに部屋を飛び出し、暗い廊下からあなたの部屋を盗み見た僕が、どれだけ安心したか。

 その寝息に、どれだけ胸をなでおろしたかを。


 ハルさんは、知らなかったよね。

 それが、この前僕があなたの寝室の床でパンツ一丁で眠りこけていた、一部始終だってことを。決して酔っ払って……いや、うん、たしかにあの夜はほろ酔いのままベッドに入っちゃったけどさ。


 ハルさんはルール違反だと笑ったけれど、僕はそうは思わない。異論がおありなら、いつでも受け入れよう。聞き入れた後にはもちろん、論理的な反論をさせてもらうつもりだ。


 それはおそらく、熾烈を極めた論争になることだろう。

 すぐに結論が出ることも、まずないと思う。

 日を跨ぐ議論になるかもしれない。

 肌寒くなってきた近頃の夜、また床で寝てしまうなんてことがあったら、風をひいてしまうかもしれない。それは一大事だ。

 眠気を吹き飛ばす栄養ドリンクに頼るのもいいけど、それは健康的とは言いがたい。何より文学に携わる者としての美意識に欠ける。


 よって、ここは一つ、二人で同じベッドに潜りながら、徹底的に意見を交わす必要があるのではないだろうか。


 僕は断言できる。これ以上の代替案など、この世のどこにも存在しないということを。


 ハルさん、あなたは気づいてないかもしれないけど(もしかしたら気づいてないフリをしてるのかもしれないけど)


 これだけは覚えておいてほしい。


 僕は、大真面目です。



 小泉源 』



 一通り目を通した妻は、顔を背けるように下を向いた。

「ハルさん」

 華やかな香りのするつむじが、グラグラと揺れている。

「笑ってない?」

「……笑ってない」

「笑ってるよね」

「笑ってません……くく」

「怒らないから、ほら」

 そそくさと便箋を封筒に戻した妻は、大きく息を吸ってから顔を上げた。

「じゃ、また来週ね。おやすみ……プクク」

 寝室へ足早に去っていくその肩は、陽気に震えていた。

「やっぱ笑ってんじゃねーか!」


 最近の妻は魅惑的サディスティックだ。





 来週に続く。



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