10月第2週



 どんなものにも長所はあると思っている。エレベーターすらない寂れた出版社でも、屋上だけは快適なように。

 晴れた日はベンチで弁当を食べ、遠くの自然を眺めながら紙コップのコーヒーをすする。おじさんの憩いの時間だ。

 隣でコンビニパンをほおばる後輩も、そんな風流を理解できる年齢になってきた……ということではなく、狙いは僕の弁当のおかずのようだ。広末はいつも人差し指を立てて「一つだけ」と言っては好きな具をいくつか横取りしていく。

 僕はこれを強盗の類いではなく、わがままと見なしている。わがままは女のコがつける香水みたいなものだ。人間だから当然、惹かれるものもあれば不快なものもある。

 広末のそれは、もう天性のスキルと思えるくらいの絶妙な加減だった。人たらしというのはこういうやつを言うのだろう。


 この日も広末は、ネギ入りのだし巻き卵をつまみながら、こんなことを聞いてきた。

「前から聞きたかったんですけど」

「ん?」

「先輩、愛人でもできました?」

 たまらず口に含んでいた水を柵の方に噴き出してしまった。

「お弁当のバリエーションもだけど、盛り付け方がこれまでと全然違うから」

「最近は俺が作ってるんだよ」

「岬先生と喧嘩でもしたの?」

「ただの役割分担の交代だよ」

「ふーん。でも先輩の卵焼きも美味しいですね」

 女の人は、男には無い特殊能力を備えている気がする。

 言い換えるなら、ものの見方が違うといったところか。クリエイティブな職場ではプラスになることが多い。

「今日は撮影でしたっけ?」

「うん。杉さんと今月号の表紙を撮りに」

「私も行きたいなー。Webのプログラミングばかりで体が鈍っちゃう」

「広末がパソコン得意で助かってるよ」

「じゃあそのタコさんウインナーもください」

「俺に梅干しだけで白飯食えってか?」




 創作に必要なものはインスピレーションである。だがそのひらめきは、凡人の視点では見つけることができない。

 昔あるカメラマンがそんなことを言った。たしかにプロのクリエイターというのは、一般人とは違った角度からものを見ていると感じる時がある。

 出版社ウチと契約している杉元さんも、そんな独特の視点を持った一人だった。会社のバンを転がす僕の隣でカメラをチェックしていた彼は、世間話の延長でこんな話を始めた。

「──コイちゃん、最近料理始めたらしいね」

「始めたというか、再開したというか」

「僕も料理が好きでね、週末はよく娘と作ったりするんだけど」

「娘さん、いくつになりました?」

「14。来年は受験だよ」

「やっぱりあっという間って感じですか?」

「そうでもないかな。小さい頃から見てきたらそう思うのかもしれないけど」

「そういうもんですか」

「それよりコイちゃん。フライパンの替え時っていつだと思う?」

「フライパン、ですか?」

「僕は表面のコーティングが剥がれて、豚こま肉や焼きそばの麺がこびりつくようになったら買い換えるべきだと思ってるんだ。もともと高価な物は使ってないからね」

「んー、俺も杉さんのタイミングで買い替えたいとは思いますね」

「娘も同じ意見なんだ。でも嫁さんだけは、まったく気にしないんだよ。『あんたら繊細やわー』と笑っては、何がこびりついてもお構いなし。なあ、コイちゃん。これってとても恐ろしいことだと思わないか?」

「おそろしい?」

「考えてもみてよ。娘は紛れもなく嫁さんの子なのに、僕と似た感性を持ってるし関西弁も使わない。孵ったばかりの雛は目の前にいる存在を親と認識するなんて話を聞くけど、娘と出会ったのは3年前だ。たった3年で、血の繋がらない男と性質が似てくるものなのかな?」

「ははは。でも別に悪い気はしないでしょ?」

「もちろん。でも考えちゃうんだよ。娘の繊細さが僕の影響だったとしたら、これからどんどん僕の短所まで似てきちゃう可能性もあるってことでしょ? 鼻毛は切らずに必ず抜くんだって哲学を身に着けたらと思うと、夜も眠れなくてね」

 思春期の子だし、考え過ぎだと思うけど。

 そう言いかけたが、僕は笑うだけにとどめた。親の気苦労は、親にしか分からない。



 裏白川では気管が洗われるような風が吹いていた。昼下がりの水面はキラキラと輝き、伸びたススキが涼しげに袖を振っている。

 澄んだ空の下では、北の県境の方にある花野はなの山がよく映える。ちらほらと紅葉が目立ってきたのがここからでも見える程だ。

 照明のいらない屋外撮影は杉元さんの一人舞台だ。手持ち無沙汰の僕は情景をメモし、雑誌の表紙にあてる宣伝文句キャッチフレーズを考えている。

 色づいてきた山を背景にシャッターを押しながら、杉元さんはしみじみとした口調で言った。

「あっという間と言えば、秋だよね。金木犀の香りがしてきたかと思えばすぐに肌寒くなって、葉が色づいたと思ったらすぐ雪が降ってくる」

「杉さんはここの人でしたよね」

「うん、コイちゃんの奥さんと同じ小学校。今はよそと合併しちゃったみたいだけど」

 迷いのないシャッター音が次々に聞こえてくる。杉元さんは仕事が早い。それでいてとても良い写真を撮るものだから、僕の文案も負けじとアイデアが浮かんでくる。

「去年の11月号は花野山にしたんだっけ」

「去年は紅葉が遅かったですからね。今年は三丁目の並木道にしようかと思ってるんですけど」

「あー、滝田先生のところかあ。あの人まだサボってるの?」

「担当としてはそういう言い方はしたくないですが、まあご想像の通りです」

「あはは。でも僕さ、少し分かるんだよね」

「杉さん真面目じゃないスか」

「じゃなくて、書かないこと。もしかしたら書けないのかもしれないけど」

 あの唯我独尊の女が書けないかもという発想は、担当の僕には寝耳に水だった。

「どうしてそう思うんですか?」

「ある程度価値が認められて自由にできるようになった僕らみたいな人種はさ、自分が納得できるかってところに重点を起きたくなる。雨が降った翌日の川のように、衝動的な表現に身を任せていた若い頃の刹那的な感性と、基礎の大事さを改めて知った経験値らがぶつかる葛藤を抱えがちだ。簡単に言うと、何かしっくり来なくなるんだよね」

 ラブレターを書く前の僕だったら、彼の言うことをあまり理解できなかったかもしれない。

「岬先生には、そういうところあったりする?」

「どうですかね。誰かさんみたいに締め切りを守らなかったことは無いと思うけど」

「まあ、翻訳はまた違うものなのかな。一から生み出す小説だと、もっと複雑なのかもしれない」

「写真だって単純なものではないでしょう?」

「どうだろう、定義は人それぞれだからね。高速の変化球にバットを当てるプロの打者みたいな撮り方をする人もいれば、自然と一体になりたがる人もいる」

「杉さんは?」

「ケースバイケース。穴熊のように閉じこもってじっとその瞬間を待つ時もあれば、棒銀のようにグイグイ切り込んでいく時もある。グラビアなんかでは後者かな」


 若い頃は世界各地に足を運んでいた杉元さん。それこそ貧困地域や紛争地域まで。

 前に一度、脇腹の銃痕を見せてもらったことがある。危険と隣り合わせでよく家を空けるそのワークスタイルが原因で、若い頃に一緒になった最初の伴侶とはお別れしたそうだが、今ではこうして一児の父親として隣の郊外で暮らしている。親しみやすい人間性はもちろん、社会的評価も高いカメラマンだ。

「──よし、今日も良いのが撮れた」

「杉さんは」

「うん?」

「杉さんは、今も戦場を撮りたくなる時がありますか?」

 杉元さんは想いを馳せるみたいに青空を仰いだ後、はぐらかすように笑って、こう言った。

「そこにあるものを、様々な角度から見せるのが僕らの仕事。高速に変化していく一瞬を僕が切り取り、コイちゃんたちがそれを繋ぎ合わせる……今の仕事、好きなんだよね」


 ラブレターの執筆は、正直大変だ。ポップソングに出てくる歌詞を気軽に使えたらどれだけ楽だろうといつも思う。

 でも、僕にはそれができない。僕はそういう人間ではないし、妻もそれを知っているから。

 どうでもいいものならいくらでも作れるが、大切なものだと思えば思うほど、やはり手は抜けないのだ。


 帰りの車の中で、僕はこんなことを聞いてみた。

「杉さん」

「うん?」

「連れ子を育てるって、どういう感覚ですか?」

 杉元さんはおかしそうに僕を見た。

「なんですか?」

「いや、何だか結婚式を控えた新郎みたいなことを聞くからさ」

 その例えはどうなんだろう。今一ピンと来ない顔を隠さないままに、僕は続きを待った。

 杉元さんは、カメラを赤子の肌みたいにさすりながら、答えを探すような口ぶりで言った。

「昔はさ、自分だけにしか撮れない写真ってのを追い求めてたんだ──」

 それは、過去を懐かしむようで、それでいて今を慈しむような優しげな声だった。

「同じものを見て、同じことを思えるのって素敵だけど、違っていたとしても、全然良いんだよね」




 あれは、いつの頃だったか。妻がこんな話をしていたのを思い出した。


 "子供ができたらアキって付けたいな。どっちの性別でもいけるでしょ?"


 秋風町の秋は短い。

 咲いては散りゆく花びらみたいに、避けられない冬を前に、その命を色鮮やかに燃やす。

 戦地を経験した杉元さんは、きっと、名前のつけられることのないそんな一瞬たちを、残してあげたかったのではないだろうか。

 目に見えれば、人は、それらを知ることができる。

 見えない聞こえないものを、人は、知らない。




 夕方、妻からこんなメッセージが届いた。


『今夜は外食しよ。迎えに行くから終わる時間教えて』


 出版社からちょうど出てきたところに、見慣れた車がやって来た。8年前に買った白のSUVだ。

「運転代わる?」

「んーん、私したい。帰りはお願いね」

 妻の要望で中華料理屋に行った。雲白肉ウンパイロウに鶏肉のカシューナッツ炒め、焼売に春巻き、麻婆豆腐から炒飯に玉子入りのコーンスープとすべて小皿で頼み、シメの杏仁豆腐まで僕らは夢中でほおばった。

「麻婆豆腐を食べた受け皿に炒飯をよそうのは邪道だと思う?」

「世界中からダメと言われても、俺たちのセオリーにしよう」




 帰宅早々、ソファに倒れ込んだ妻は、可愛げに膨らんだお腹を満足そうにさすった。

「あー、食べてしまった。中華だといっつも食べすぎちゃう!」

「あれもこれもってなるよね」

「太ってないかなあ? 最近ついたお肉が全然燃えてくれないんだよね」

「まったく分からないけど」

「見えないところがちょっとね」

「たまには見せてもらえませんかね」

 妻がお風呂に逃げてしまったので、僕は週末お決まりのビールを楽しむことにした。冷蔵庫を空けるついでに、弁当箱を流しで洗う。

 しまおうと食器棚を開けた時、二つ折りのメモ用紙を載せた弁当箱を見つけた。妻のものだ。めくってみると、彼女の字でこう書かれていた。


『全部残さず食べました。美味しいお弁当ありがとう。(ニンジンさんが入っていたので、語尾にハートは付けてやらぬでござる)』


 350mlの缶ビールを半分くらい飲んだ頃、前髪をヘアバンドで上げた妻が、美容製品の詰まったメイクボックスを片手に戻ってきた。どうやらフェイスマッサージをご所望らしい。

「やって」

 お願い、ではなく、やって、と言う時の妻が好きだ。そのあたたかみのある声は命令でも依頼でもない、好きな人からのわがままに値する。

「お肌むくんでないかな?」

「できたてのシュウマイみたいにぷにぷにしてる」

「それ褒めてるー?」

 桃の香りがするオイルを肌に塗り込み、中指と人差し指の腹を使って優しくほぐしていく。適度にオイルを残した状態から、ローションマスクで顔をひたひたに覆う。これが妻の好むやり方だ。

 僕はこのシートマスクをかぶせる瞬間が好きだ。膝の上で無防備に目をつむる彼女が、何より愛おしい。

「はい、今から5分ね」

「10分にして」

「はいはい、10分ね」

「やっぱ15分」

「足痺れちゃうからイヤです」


 僕らは結婚して8年になる。カラッと乾いた洗濯物を丁寧に折り畳んで、タンスに一つ一つ綺麗にしまっていくような時間だった。時々雨に濡れたりもしたけれど、今となってはいい思い出だ。

 もちろん、汚れてしまったものもある。

 洗い直せず、捨てることのできなかったものも……。

「──ゲンちゃん」

「……ん?」

「今週の」

 またこの時間がやって来てしまったか、と僕は苦笑いせずにはいられなかった。

「はやくはやく」

「あと5分残ってるよ」

「読んで」

「はい? 俺が?」

「たまにはいーじゃん」

「たまにはって、今日でまだ3回目なんですけど」

「やって」

 数ヶ月に一度、妻が徹底的に甘えたがる日が来る。ちょうど季節の変わり目辺りだ。たくさんの嬉しかったことと、ささやかな感傷が、彼女の中でミルフィーユのように重なって表れる。

 感傷を構築するものが何なのかは、いくらか想像できる。でも僕は聞かないし、妻も話さない。押し入れから引っ張り出した、その縮んでしまった服を、ぬいぐるみみたいに抱えながら僕に寄り添ってくる彼女は、ケーキフィルムで僕ごと巻きつけるみたいに、決まってわがままを言う──。

 童話のお姫様みたいに爛漫に。

 作家が文末に心残りなく打つ、ピリオドみたいに……きっと、その日を笑顔で締めくくるがために……。

 そんな彼女に、僕はため息混じりに笑って従う。夫の特権だ。

「承知しました、お姫様」

 クマ柄のクッションに大切な姫の頭を預け、僕はラブレターを取りに行った。




『 親愛なるハルさんへ



 鳥が風を欲するみたいに、僕は辞書を引く。

 美しい譜面をなぞる演奏者のように、あらゆる言葉をかきわける。


 それでも、散ってしまう花びらみたいに

 ピースの異なるパズルみたいに

 僕はいつも、しっくりくるものを見つけられない。


 どれだけ格式高い言葉を探しても

 文学性に惹かれ、身の丈に合わない表現にすがっても

 僕の想いをあなたの前にありありと映し出せたことは、一度も無いのかもしれない。


 月の美しさで愛を表現した文豪を恨めしく思い

 ギターを持ってあなたの前で歌えない自分を、頼りなく感じる。

 ボディランゲージで想いを陽気に伝えていそうな外国人を妬ましく感じ

 恋愛小説を嗜んで来なかった思春期の頃の自分に、コブラツイストをかけてやりたくなる。


 それでも、今は今の僕しかいない。

 そして、いつだって、今のあなたを求めてる。


 雨が続くと、陽射しに焦がれ

 日照りが続けば、雨音を聴きたくなるけれど

 どんな日でも見たくなるのは、いつだって、その笑顔──。


 あなたの笑顔は、どんな傘よりも、僕を僕でいさせてくれる。


 誰よりも近くで

 さまざまな角度から

 ハルさんの笑うところを、眺めていきたい。



 小泉源 』




 文字で送るのと口にして届けることが、これ程までに違うとは。熱湯に浸したシートマスクでも着けてるみたいだ。逃げ場を求めた胸が激しく暴れている。怖くて下を向けない。

「……い、いかがでしたか?」

 チラリと伺った妻の頭は、微動だにしない。

「たまには感想ちょうだいよ」

 微動だにしない。

「ねえ、ハルさん……」

 仰向けの体は重力に逆らわず、ゆるやかな呼吸に上下している。

「……ハルさん?」

 マスクをめくると、無防備に閉じたまぶたと、ほっこりと浮いた下唇が、柔らかな空気にすやすやと包まれていた。

「寝てんじゃねーよオイ」


 好きな人のわがままは、食後の杏仁豆腐みたいだ。





 来週に続く。



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