10月第1週



 僕らの暮らす秋風あきかぜ町は、緑の多い地域だ。郊外と田舎に挟まれた場所にあり、駅前を少しでも離れたら豊かな自然が顔を出す。近年インフラ整備が進められ、交通の利便性向上に伴いオシャレな建物が増えたが、風の匂いは変わらない。県を跨いで海へと続く二級河川の裏白うらじろ川は、今日も流れが穏やかだ。

 自然景観を保全するまちづくりは、ここに生まれ育った多くの住民からの要望だった。妻もその一人に含まれる。だからと言うわけではないが、僕がこの町を気に入るのに時間はかからなかった。

 そんな秋風町を紹介する月刊誌『爽籟そうらい』のページを埋めることが、僕の仕事だ。自治体の地域振興課と提携し、個人経営店や地区のイベントなどを取材しては広報の記事を書く。人手の少なさもあってか照明係も兼ねたりする。

 そしてもう一つ。『爽籟』には小説枠があるのだが、その連載作家の担当編集も任されている。その先生というのが、まあ、なかなかの問題児でいつも苦労させられているのだ。


 この日も僕は、諦観と一抹の期待を胸にバスに乗った。出版社のある駅前から南へ10分も揺られると、なだらかな並木道の走る閑静な住宅地に着く。ついこの前まで新緑に輝いていたブナも、いつのまにか落ち着いた色を肌にまとまわせていた。涼しげなそよ風にざわめく葉々が、少し傾いた日差しに黄色く光っている。

 並木道を歩いていくと、小山を切り取った斜面に建ち並ぶ低層集合住宅タウンハウスが見えてきた。秋風町ではこういった分譲住宅が増えている。先生や僕らみたいに、独身貴族や子供のいない夫婦には適した住まいだ。

 玄関を気だるそうに開けた先生は、赤の混じった長い茶髪を邪魔くさそうにかき上げながら、いつもの言い回しで僕を歓迎してくれた。

「光栄に思いたまえ、小泉。私の城に上がれる男は、現在、キミだけになった」

「また別れたんですか?」

「別れたという言い方はそぐわしくない。互いの利害が噛み合わなくなっただけだよ」

「方向性の違いってやつですか」

「その表現もあまり好きじゃないな。視点の異なるパートナーの在り方も尊重されるべきだし、何より文学的じゃない」

「コーヒーもらっていいですか?」と僕は返事を待たずにコーヒーメーカーのスイッチを押した。


 滝田先生は我が出版社お抱え作家だ。この町に来るまでは鳴かず飛ばずの小説家だったらしいが、『爽籟』で連載した恋愛小説の大ヒットをきっかけに、大作家らしい振る舞いをするようになった。

 一言で言えば、仕事をサボるようになった。

 この日の室内も、およそ執筆とは縁遠い光景だった。モダン様式のリビングに似つかわしくないトレーニング器具の数々、ガラステーブルには人気漫画が全巻散らばり、ふかふかのL字ソファにはゲームのコントローラーが気まずさ一つ見せずに転がっている。

 毎度感じることだが、この人は書く気がないのではなかろうか。せめて書きかけの文章を表示したパソコンを開いておくとかしてほしいのに、そういう気遣いは一切ない。ボサボサの髪やキャミソールにショートパンツという格好も、今起きたと言わんばかり。公共の場ではバリバリのキャリアウーマンに見られそうな容姿を持ちながら、自宅内や気を許した相手の前では平気で紐の緩んだ下着を隠さない……まさに典型的な干物女だ。それでいて引き締まった素肌は若々しく、田舎に左遷された伯爵みたいな言動をするから、僕は分からなくなる。四十代の部長にタメ口を利いていたのを見てから年上だろうと認識していたが、実際のところは不明だ。別れた男の話はよく聞くが、プライバシーのほとんどは謎に包まれている。

 数年前から担当を引き継いだ僕は、それからずっとこの人に弄ばれている。何が腹立たしいかって、そんな彼女のことを嫌いになれない僕自身の性格だ。凡人が持たざるおかしみとも言えるなにかが、このずぼらな女にはある。

 前に大手出版社の人から、こんな話を聞いた。家に閉じこもるのが好きな女というのは、得てして、自分だけの世界を持っている。思春期の中学生男子ばりの野望やら欲情やらに負けないくらいの、ひどく個性的で独善的な世界観を。

 そんなおぞましい思想を言語化させて、世に伝えることは、ある意味、編集冥利でもあるけどね──そう言っていた彼は、数年前に出版業界から足を洗い、田舎でのどかな農ライフを満喫しているらしい……なんだそれ。


「ふふん、小泉──」

 くだらないことを考えながらコーヒーをすすっていると、先生は悪巧みを企てる子供みたいに鼻を鳴らしながら、僕の顔を覗き込んだ。

「キミ、あれだな。最近なにか問題事を抱えているというか、人生のターニングポイントにおける出来事にでも直面したんじゃないか?」

 勘の鋭い女性は苦手だ。魅惑的ではあるけども。

「図星か」と先生は得意げに笑った。

「転換点なんて世の中にいくらでもありますよ。締切も守らずに自宅で自由を謳歌してる人は初めて知ることかもしれませんが」

「刺々しいねえ。キミは昔からかってた近所の幼なじみによく似てる。口がお堅いところとか、歯を見せないように笑うところとか、無茶振りには小憎らしい言い回しでかわそうとするところなんかそっくりだ」

「ちなみに無茶振りに応じなかったらどうしてたんですか?」

「無茶振りとは、文字通り不可能なことを頼むことだ。ゆえに叶えてもらえなくても理不尽に怒ったりすることはないよ。ただ、キミもいい歳だからある程度理解してることだとは思うが、女というのは、なかなか諦めが悪いんだ。イイ女ってのは特にね。好きなコにちょっかいを出す男子みたいに、どうにかして願望を叶えてもらおうとあらゆる魅惑わがままに走りたがるんだな。フェミが活発なこのご時世ではあまり大きな声じゃ言えないが、これは生物学上どうしようもないことなんだ。ゆえに、借りたシャーペンに付いた消しゴムを勝手に使ったり、女子の前で体操着の半ズボンを白ブリーフごと下ろしてしまったとしても、それは仕方のないことなんだ」

「その人が今は幸せに暮らしていることを願いますよ」

「そしてキミから頂戴した美術の資料本にラクガキしてしまったことも、仕方のないことなんだ」

「ちょっ、あんた何してくれてんスか、それ借り物だって言ったでしょ!?」


 先生との時間は、悪酔いの中でみた夢のようなものだ。気づけばいつだって彼女のペースに引きずり込まれている。僕が今、隣でゲームのコントローラーを握っていることも、仕方のないことなのかもしれない。

 それでも僕は、編集者として己の仕事に毅然と向かい合った。

「──実際、どうなんですか? 小説の方は」

「そうだな、例えるなら」

「例えなくていいです」

「今の状況は、向こう岸に橋を作ろうとしている段階に似ている。木材やとんかちなど必要なものは揃えているんだが、いかんせん設計図が見当たらない。自慢じゃないが、私は図工で3以上の成績を取ったことがないのだよ」

「ここはこうしようって展望ぐらいはあるでしょ? 何でもいいから聞かせてください」

「展望ねえ。最近のSNS隆盛への皮肉アイロニーも兼ねて、時代錯誤に手紙でも出させようかとか考えてたりするんだが」

「手紙、ですか──」

 身近な人には知られたくなかった僕は、本筋を隠した上で聞いてみた。

「先生って、ラブレターとか書いたことあります?」

「突然どうした?」

「ああ、今度レターセットの特集企画を考えてて、色んな構想をしてるんです」

「ラブレターねえ。書いたことくらいあるよ。私をいくつだと思ってるんだ」

「なるべく年齢は聞かないようにしてたんですが」

「ふむ、ラブレターねえ──」

 格闘ゲームで僕に10連勝した滝田先生は、コントローラーを置くや窓辺へと立ち上がり、茜色が滲み始めた空に遠い目を向けながら禁煙パイプをくわえた。

 さながら映画のワンシーンを思わせる美しい背中に、なぜか無性にイラっとさせられたが、僕は黙って彼女の話に耳を傾けた。

「女の書くラブレターというのは、一つの芸術だ。誰にも見せることのない感傷的な日記のようで、それでいて単位ギリギリの学生が書いた卒論みたいにごちゃごちゃとした論理が混ぜられてる。それらが上手く調和されたものが文学となったり人の心を惹きつけたりするのだろうが、大半は法規的強制力のない政府の要請と同じで、伝達の粋を出ないものに終わる。ま、端的に言うと自己満足だな」

「それじゃ、男から貰うラブレターには、どんなことを期待しますか?」

「そんなものは相手によるが、普遍的な答えでいいなら"正当な評価"と言ったところかね。ラブレターを渡す時点で好意はすでに伝わってるようなものだから、あとは想いの基盤となる論理がありありと表現されてることを願うだけだよ。ミステリー小説の犯人の動機と同じ。ま、私はミステリー書いたことないけどな」

「ミステリーは書かなくていいから、恋愛小説の方を進めてくださいよ……って、ちょっと! 缶ビールを開けるな缶ビールを!」




 滝田先生の話をすると、いつも妻は楽しんでくれる。それも上品に鼻を鳴らす普段の淑女的な微笑ではなく、目尻に涙を浮かべるくらい爆笑してくれるものだから、僕はあの人を嫌いになれないのだ。

「──滝田先生とはまだ会ったことないんだっけ」

「前に遠くからちょこっと見たくらい」

「あの人、いつもハルさんに会いたい会いたいと言ってるよ」

「ふふふ。もうしばらくは傍観者のままでいいかな。そのうち仕事で会うかもしれないし」


 今週の妻の手料理も僕の好きなものばかりだった。豚肉ではなく鶏もも肉を使った肉じゃがに、三つ葉の卵とじ。鱈の西京焼に、枝豆を加えた炒り豆腐。どの味も妻と半分こしながら飲む500mlのビールによく合う。

 肉じゃがには、妻の苦手な人参もたくさん入れてくれた(彼女の器に人参はほとんど入っていなかった)。視点の異なるパートナーがどんな家庭を築いていくのかは分からないが、食べ物の好き嫌いが違っても、こうして上手くやっていくことはできる──。

 上手く、やっているよね? 

 そんな確かめる視線を向けた僕を、両手で頬杖をついて見つめる彼女は、さながら餌を待つ小猫のようで、それでいてスフィンクスみたいにどっしりとした威圧感があった。

 僕は見せつけるように深呼吸してから、ラブレターを差し出した。今週はネコの柄が入った便箋をライトピンクの封筒で包んでみた。

「かわいい」

「お気に召していただけたのなら光栄です……って、今日も目の前で読むの?」

「だってゲンちゃんが書いてくれたものだし」

「うん、だから目の前で読むのはなんか違くない?」

「まあ気にしない気にしない。それじゃ読ませていただきます」

「こういうのって、差出人のいない場所で一人で読むのが普通なん──」

「静かに」

「はい」




『 親愛なるハルさんへ



 青空を連れてくるような声で僕の名を口にした時。

 目を見つめながら話を聞いてくれる時。

 頭を撫でて送り出してくれる時。

 僕はたまらなくあなたに惹かれる。

 

 葉が色を変えていく時。

 会社で同じ弁当を食べている時。

 慣れない万年筆を走らせる時。

 僕はたまらなく、あなたを想う。


 ハルさんの生まれ育った町を歩きながら、この目に収めることのできなかった少女の姿を、今のあなたから想像し、これから見たいあなたの姿を、変わらない風に寄り添いながら、想い描く。


 町が輪郭をそのままに色だけ変えていくように、あの頃のハルさんが今のあなたとは違うように、僕の描いたハルさんが、この先のあなたと違っていても……それでもこの胸を優しく締めつけるぬくもりは、暖炉でのどやかに咲いた火のように、ゆらゆらと揺らめきながら、きっと、僕の中にあり続けるだろう。


 とどまることのない季節の中で、これからの僕が、いつまでもハルさんのぬくもりでいられるよう……。



 小泉源 』




 書面と差出人を交互に見つめながら、堪える笑いをふふんと吹き出す妻に、僕はいたたまれなかった。

「……あ、あのう、ハルさん?」

「ふふん」

「何か言ってもらえますかね……?」

「ふんふーん」

「何か言ってよ」

「じゃ、また来週ね。おやすみ」

「何か言ってってば!」


 最近の妻は魅惑的いじわるだ。





 来週に続く。





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