週末のラブレター

跳ね馬

9月第4週



 残暑を撫でるようなそよ風に吹かれながら、僕は配達品の梱包紙を開けた。注文したレターセットは、明暗さまざまな12色の封筒に、便箋は季節柄から中世ファンタジー的なものと揃っている。妻の好きなネコやクマさんの柄まである。準備は万端、あとは中身だけだ。

「あっ、いたいた。先輩先輩」

 屋上に広末がやって来た。涼しげな色のブラウスに濃いデニムのコーディネートは、明るく活発な彼女の代名詞だ。

 広末は茶髪のポニーテールを縛り直しながら、僕のベンチに一人分の隙間を空けてちょこんと腰を下ろした。

「仕事の連絡でも来た?」と僕は聞いた。

「部長が探してましたよ。滝田先生の件で」

「あの人に書かせるのは、世界のCo2を5%削減させるのと同じくらいの難易度があるよ」

「あはは。30%でも過言じゃないかも」

 入社3年目の大卒社員は、美形ではないが愛嬌は良く、小型犬のような人懐っこさがあって、自他社のおじさんおばさんからはすこぶる気に入られている。それでいて嫌味のないパーソナルスペースは保つから、トラブルにも縁がない。正直とても楽な後輩だ。

 広末は僕からねだったライトピンクの封筒を空にかざしながら言った。

「かわいいですね、これ。何かの企画に使うんですか?」

「広末ってさ」

「なんです?」

「ラブレターとか、書いたことある?」

 人差し指に顎を乗せた広末は、ゆったりと流れる雲を見上げながら、その名詞を噛み締めるように口にした。

「ラブレター……一昔前の少女漫画でしかお目にかかったことはないですねー」

「なるほど」



 金曜日は溜まった仕事がないのが幸いだった。というか、僕が前日まで頑張って働いたと言うべきだろう。おかげで簡単な事務作業や電話対応の合間を縫って、ラブレターの執筆に取り掛かることができた。

 だが筆はほとんど進まなかった。普段は偉そうに他人の作ったものを編集してるくせに、いざ自分で書いてみるとまるで上手くいかない。久しぶりに握った万年筆も思うように扱えなかった。

 四苦八苦しながら時間だけが過ぎていく。夕方、パソコンをシャットダウンしたところでスマホにメッセージが届いた。妻からだった。


『今日から金曜日の夕食は私が作るね。食材の買い足しも済ませておきました。ゆっくり羽根を伸ばして帰ってらっしゃいな、愛しの旦那様』


 出来の良いラブレター心待ちにしてるからね。

 僕にはそんな文面にしか見えなかった。罠へと追い詰められていく獲物のような気分に駆られたので、精一杯の抵抗とインスピレーションを求め、普段とは違う帰り道を選ぶことにした。



 たまに妻と散歩する河川敷の方は、もうすっかり秋の匂いがした。ススキが気持ちよさそうにそよぎ、陰影を黒く染めた建物がオレンジ色の水面に映し出されている。どこからか漂う夕餉の匂いに腹が鳴り、遠くの鉄道橋から響くジョイント音が、人々の家路を急かす。

 ビールの本当に美味い時期は、今のような、夏の終りから秋の始めだと思っている。風呂上りの控えめな汗を、秋の夜風でさらさらと乾かしながら、喉にねぎらいをシュワシュワと流し込む。週末の贅沢としては十分なものだ。

 早く帰って妻と一杯やりたかった。だがまだ帰れない。どこか落ち着ける場所で、ノートに書き散らしたラクガキを推敲し、便箋に清書しなければならない。


 こぢんまりとした喫茶店を見つけたのは、町中に戻って見慣れぬ路地を進んでいた時だ。

 道に面した窓際にソファー席が二つと、広々とくつろげるカウンター席が四つの静かな店内。物腰の柔らかそうな店主と、何より客がいないのが入店の決め手になった。

 マスターは印象通りの慎ましくて清潔な人だった。縁のないメガネと整えられた短髪の白髪頭は、前職が執事と言われても何の疑問もない。

「ごゆっくりお寛ぎください」

 高齢者の礼節あふれる佇まいや綺麗な言葉遣いに、僕はとても惹かれてしまう。そこには威圧も驕りもなく、山を下って濾過された天然水みたいに、ただただ洗練されたものだけがある。

 コーヒーは価格のとおり特別な味ではなかったが、慣れ親しめる心地よさは十分に感じられる深みがあった。長調と短調を忙しなく行き来するピアノジャズも、雑草の隙間から顔を出す百合の花みたいに控えめで上品だ。澄んだ文章とは、こういった空気の中で生まれるのかもしれない。初めて万年筆がスラスラと流れた。


 どうにか納得できるものが完成した頃に、マスターがおかわりを注いでくれた。

「初めてのお客様へのサービスです」

「ありがとうございます」

 マスターは優しげに丸めた目を便箋に向けながら「そちらはお仕事ですか?」と言った。

「あ……これは、その──」

 広末とはまた異なる、熟練された柔らかな空気に対し、あやふやな返答をするのは失礼に思った。

「ちょっとした罰で、ラブレターを書かされてるんです。妻に」

「それは素敵だ」とマスターは他意のない顔をほころばせた。

 あまりにも自然な笑顔に好感を抱いた僕は、恥ずかしさを紛らわす意味も兼ねて、いくつか質問を投げかけてみた。

「御主人は恋文をお書きになったことはありますか?」

「私共の世代なら、多少文学をかじった者の大半が経験済みでしょうね。希望を持て余した青年の嗜みのようなものでした」

 希望を持て余した青年の嗜み。

 そのワードの響きと紳士的な声が、耳にとても心地よかった。

 彼は言葉にワンクッション置くみたいに、一度笑みを深めてから、こう続けた。

「ただ、しがない老人の個人的な見解を言わせてもらえば、恋文は相手を選ぶものです」

「相手を、選ぶ」

「聞こえは悪いかもしれませんが、人は良くも悪くも先入観を持って物事を見つめます。モカは酸味が強いとか、ブルーマウンテンは舌触りがなめらかだったりと。こだわりを持たない多くの人にとって、豆の煎り方や挽き方というのは、文学でいうところの行間です。無関心な視点には、あまり映らない」

「行間……」

「お客様のご嗜好やご体調に合わせて、味や香りを調整する……近しい人だけが分かる、ちかしい人にだけ伝わるものを、行間に込める。それが恋文の、一つの在り方でしょうかね」


 喉がさっぱり潤った気分だった。文字を生業とする身でありながら、老馬の智には頭が下がるばかりだ。

 何かの縁を感じた僕は、名刺を渡すことにした。

「私、こういう仕事をしている者です」

「ほほう、出版社の方でしたか。御社の『爽籟そうらい』いつも楽しく拝読しております」

「それはありがとうございます……あの、今後も仕事抜きでお邪魔してもよろしいでしょうか」

「もちろん。ぜひお越しください」




 記念日をすっぽかされた妻は、手から離れた風船みたいだった。まだ何が起こったのか分からない子供みたいにぼーっとして、それでいて嵐の前の静けさを予感させる感情を、唇の裏にじっととどめていた。

 幸いその感情が爆発することはなかったけれど、僕らの関係は若干の変化を余儀なくされた。寝室は二つに分けられ、家事の役割分担が真逆となり、妻はよく朝寝坊するようになった。

 料理をすることに疑問は持たなかったが、何よりの問題は夜の営みが制限されたことだった。解除の条件はたった一つ。妻をもう一度、ときめかせること。

 その手段として提示されたのが、週末のラブレター。何だか有無を言わさず学生に戻された感じだ。

 いずれにせよ、妻を抱くにはその子供じみたご要望にお応えしなければならない。ひどく平和的な罰のようで、背中のかゆいところをかかせてもらえないような制裁いじわるにも思える。経費はかからないが、言いようのない労力と、三十代の男が青春の中に置き去りにした気恥ずかしさというものを、煮込んだ灰汁のごとく浮き彫りにさせてくれる。

 道端で恥部を見せたがる変態は、そういった感情の推移にでも興奮するのだろうか……と、くだらないことを考えていたら自宅マンションに着いてしまった。

 僕は甲子園出場を決める最後の一球をふりかぶる前のエースみたいに、大きく深呼吸してから、エントランスの自動ドアをくぐった。


 ランチョンマットにカトラリーを並べる妻は、浮かれた独裁者に見えた。機嫌が良いに越したことはないが、屈託のないその笑顔がどうにも不気味だ。普段より美しく見えるぶん、余計に。

 それでも、互いの好きな銘柄のビールで乾杯したら気にならなくなった。好きな人と週末の夜を過ごす……これが間違いなく僕の幸せだ。

「ビーフシチュー作ったの何年ぶりかな」と妻は皿の縁を綺麗に拭いたものを食べさせてくれた。

「完璧な味です」

「ゲンちゃんの好きな人参たくさん入れたげた」

「やわらかくて味が染み込んでて美味い」

「でしょ? お昼から煮込んでたから」


 それから時が来るまで他愛のない話をした。互いの仕事の順調ぶりを褒め合い、滝田先生への愚痴を笑ってもらい、今年の年末年始はどうしようかなどと建設的な相談も進められた。

 何だか新婚の頃に戻った気分……いや、楽しげな会話の陰から相手の反応を盗み見るこの感覚は、付き合い始めの頃やプロポーズの時に似ている。違うのは緊張の度合いだろうか。互いの薬指にはめられた指輪が、僕をホッとさせてくれる。

 そして、当時とはまた別種の緊張を僕に強いる──。

「まったくもう、焦らすのが好きなんだから」

「はい?」

 両手で頬杖をつきながらうんうんと話を聞いてくれていた妻は、突然おねだり上手な末娘みたいに小首を傾げ、両の手のひらを差し出した。

 室内灯に照らされた結婚指輪が、キラキラと、僕の不安と緊張を駆り立てる。

「はやくはやく。この一週間ずっと楽しみにしてたんだから」

「あ、ああ、例のやつね……今出しますよ、うん、まあ、あまり期待されても困るん──」

「そういうのダメ。仕方なくじゃなく、堂々と胸を張って渡して。心から書いてくれたんでしょ?」

「それは、まあ、はい」

「じゃ、ちゃんと渡して」


 妻の好みの色は知っていたが、最初のラブレターは気品を感じさせるものにした。洋形の封筒はシックに暗灰色ダークグレー。横書きの便箋は誠実さを込めて、白背景のクラシックな柄を選んだ。

 そんなダイヤ貼りのフタをためらいなく開けようとする妻に、僕は動揺を隠せなかった。

「え、ちょっ、目の前で読むの!?」

「静かに」

「は、はい……」

 便箋を丁寧に伸ばし広げた妻は、表情一つ変えることなく、無言で文字を目で追っていった。最初はテストを採点するみたいに、次は誤字脱字を確認する編集者みたいに、そして三度目は、コーヒーをよく味わうみたいに、瞳をやわらげながら、ゆったりと……。




『 拝啓 小泉ハル様


 時が移ろい、残暑が幾度と秋の風に流されようとも、貴方を見つめる私の胸中は、あの頃と違わず、いまだ陽炎のように熱をゆらめかせている。


 貴方の声の、陽だまりに誘うようなその慈しみの一つ一つが、心の水面にポタポタと波を打たせ、時には雷のごとき衝動を震わせる。


 朝を連れてきた過去と、夜を運んでくる未来の、狭間に息づく黄昏に身をゆだねながら、淡い色が重なって作られた思い出に、とりどりの想いを添える。いまだ見ぬ薄闇には、揺るぎない意志を、馳せる──。


 有限の瞬間に咲く、貴方の煌めきの数々を、同じ風に吹かれながら、この目に焼き付けていきたいと。


 願わくは、この感情のすべてを、貴方にも届いてほしい。

 されど、手をいくら伸ばしても星は掴めないように。掬い上げた水が、手のひらからこぼれ落ちていくみたいに……。


 言葉だけでは、貴方への想いを伝えきれない。

 言葉だけでは、到底、伝えきれない。



 小泉源 』




 顔が焼けるように熱い。

 飲み込んだ唾が耳につんざく。

 判決を控える被告人の気分だ。お願いだから、何か言って。


 およそ三度、文章を読み終えた妻は、笑みも悲しみも見つけられない澄み切った表情のまま、前髪を優しく撫で上げる秋風のような声で、こう切り出した。

「要望があるのだけど」

「ご、ご意見賜りたく存じます」

「手紙の形式を重んじてくれてるのは分かるんだけど、普段の言葉遣いで書いてほしいかなあ」

「……は、はい」

「ハル様ってのも堅苦しい」

「……善処いたします」

「それじゃ、また来週ね」と妻はニコッと笑い、丁寧に折り畳んだ便箋を封筒に戻した。

「……それだけ?」

「おやすみ」

「お、おやすみなさい」


 手紙を片手に寝室へと消えていく背中を見つめながら、僕はぬるくなったビールを飲み干した。

 うん……これはなかなか骨が折れそうだ。





 来週に続く。


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