第91話 トライポフォビア

 トライポフォビアという言葉を知っているか? 日本語だと集合体恐怖症、ネットでは蓮コラの関連語として出てくるあれだ。ザックリ言えば細かな穴や物の集合体に恐怖を覚える恐怖症なんだが、それ関係のおかしな話をしたいと思う。生々しい描写をしない……というかできない関係上、どうしても話のディテールがぼやけてしまうのは許してほしい。あと、これらの言葉(特に蓮コラ)に関しての検索は本当におすすめしない。君がトライポフォビアであろうがなかろうが、不愉快な気分になるのは確実だからな。


 OK? ……よし、話を始めよう。


 地元で小さな学習塾を開いている友人から聞いた話だ。塾に通っている生徒は小中合わせて20人ほどで、親に渋々連れられてくるような子がメイン層だった。要は成績が中の下より下の連中だな。そんなとこだから授業もかっちりしたものじゃなくて、生徒の駄弁りに付き合いながら上手くおだてて、少しずつシャーペンを動かさせるような事をしていたらしい。


 たしか冬が始まったばかりの頃と言っていたか。塾では比較的真面目なはずの中学生Mが、勉強中に何度も顔を上げて遠くの方を見るようになった。何か気になる事があるのか、そう尋ねてみても、何でもありませんと言って勉強に戻ってしまう。

 受験が近づいてきてナーバスになっているのだろう。友人は彼の事を心配しながらも、心の底ではよくある事だと軽んじていたようだ。

 しかし、その年最後の授業の終わりに、片づけをして事務室に戻ろうとした友人をMが呼びとめた。


「すみません。少し話したい事があります」


 硬い表情のMを事務室に通すと、開口一番、もう塾をやめたいとMは切り出した。

 模試の結果的に問題なさそうだとはいえ、この時期に塾をやめるのはいくらなんでも早すぎる。しかも、特段不満など持っていないように見えたMがこう言い出したのだ。友人がその理由を聞き、引き留めようとするのはごく自然な流れだった。


「最近、廊下の方に男の子が立っているのがずっと見えるんです」


 顔に無数の穴が空いた小学生くらいの男子が、授業中にMの方を見ているのだという。一瞬でも意識をそらすとその姿は見えなくなるが、塾に来るたびにこれでは勉強に集中できない。だからやめさせてほしい……そういう話だった。

 Mの表情からしてどうやら冗談でもないその話を一笑に付す事はできない。しかしそれじゃあ仕方ないとも言えない。友人はとりあえずMを宥めすかし、家に帰らせたそうだ。


 2人のバイトは先に上がり、塾に1人きりになった友人が雑務を終えたのは夜の11時だったという。戸締りを確認しながら塾の中を回っていると、 “顔に無数の穴が空いた男の子”が立っていたという廊下の角が目に入った。


 ――最近、廊下の方に男の子が立っているのがずっと見えるんです


 妙な怖気を腕に感じた友人は、それを振り払うように廊下の角に歩み寄った。なんの変哲もない事を確かめて、安心したかったのかもしれない。

 しかし近づくにつれ、廊下の壁に小さな穴がいくつも空いている事に彼は気がついた。至近距離でよく見てみると、ちょうど小さな子供の顔がある高さに、虫食い穴のようなものが数えきれないほど空いている。

 どうやらMが見た穴だらけの顔とはこれの事のようだ。同じような穴と言っても全てが同じサイズなわけではないし、特に大きな3つを目口と捉え、そこに顔を見出してしまったのだろう。

 これを見せてやればMの憂慮も晴れるに違いない。そう思った友人が、立ち去ろうとしたまさにその瞬間だったという。

 無数に空いた穴、その全ての内側で、人の瞳としか思えないモノがギョロリと動いた。それは忙しなく瞬きを繰り返した後、穴の奥へと消えていったそうだ。


 その一件以降、友人は極度のトライポフォビアになり今も治療を受けている。塾も近々閉め、しばらくは療養に専念すると言っていた。

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