第11話 ミツに集るモノ

 もう50年以上前の事だ。私という子供は三度の飯より虫捕りが好きな性分で、暇さえあれば、いや暇でなくとも宿題や家事といった用事をすべて放っておいて近くの森におもむき、ひたすら虫網を振っていたものだった。もちろん狙いはクワガタやカブトムシのような大物だったが、それらが見つからなければマイマイカブリや蛾、果てはダンゴムシやゴミムシのような小さな虫でさえ節操なく虫かごに突っ込んでいた。一度中指ほどの太さのムカデを家に持ち帰り、母親に虫かごを捨てられそうになったこともある。

 私が極度の虫好きだという事は家族だけでなく近所の住人や級友にも広く知られていた。今回の話の発端となったのも、級友の1人が持ってきた噂だった。

 いわく、ばななを酒に漬けて数日放置したものを木に塗ると、クワガタやカブトムシが大量に集まってくるらしい。ばななの臭いにつられてやってきた彼らは酒に酔っ払うため、こちらが近づいてきてもまったく逃げず捕り放題なのだと。

 当時の私にとって、その噂は非常に信憑性のあるものだった。虫は甘いものがすきと相場が決まっているし、たしかにばななからは甘い匂いがする。それに子供にとって酒というものはという未知の状態をもたらす正体不明の液体だ。大人が酒で酔うなら虫だって酔うだろう。

 偶々たまたまその日の給食にばななが出たことも後押しとなり、私はその日のうちにその噂を実行してみる事にした。

 給食のばななを食べずに家に持ち帰り、ビニール袋にいれたそれに父親の部屋から拝借した飲みかけの日本酒をたっぷりとふりかける。これを数日放置しておけばいいという事だったが、ビニール袋が見つかって父親の酒をくすねたのがばれたら、どんな折檻を受けるか分かったものではない。仕方なく私はそれを縁側の下の少し奥の方に隠しておくことにした。

 そして数日後、異様に甘ったるい匂いを放つビニール袋を片手に、私はいつもの森を訪れた。特に幹の太く樹皮がガサガサしている木を選び、ビニール袋の中でふやけきったばななを潰し、幹に塗り付けていく。白く濁った液体はまるで樹液のように樹皮のめくれた部分に溜まり、風に乗って甘い匂いを広げていく。これで夜になれば、大量のクワガタやカブトムシが集ってくるだろう。両の手からする臭いも気にならないほどに私は心を踊らせ家路についた。


 当時の事は今でもはっきりと覚えている。

 夜が到来すると私は適当な理由をつけ家を抜け出し、あらかじめ外に隠しておいた虫網と虫かご、それに懐中電灯を装備すると、さっそく森の方に向かった。

 夜といえど数年以上通い詰めている森だ。私は懐中電灯の細い光に照らされた特徴的な木の根やうろを目印として、苦も無く森の中を進んでいった。

 お目当ての木はすぐそこだ。私は期待に胸を膨らませながら、懐中電灯をそちらに向け――そして、絶句した。

 昼間、私が塗り付けた蜜はまだ乾いておらず、懐中電灯の明かりに照らされると艶めかしい光を返してきた。そこに何匹もの甲虫が集っているというのが私の理想だった。しかし、私の目に見えたのは、幹にしがみついている真っ黒な背だった。それを背と判別できたのは、その真中を通るようにゴツゴツした物が浮き出ていたからである。風呂場で見た祖父と同じ、いやそれ以上に浮き出たそれは、間違いなく背骨だった。

 木にしがみついたそれはこちらに背を向け、異様に細い手を動かして何かをしているようだった。耳をそばだてると、何かを噛んでいるような音が聞こえてくる。

 手の震えが懐中電灯に伝わり、光の輪が左右にぶれる。揺れた光が、さらに2つの形を暴き出した。木の両側にも2つ、同じような黒い何かがしがみついている。

 側面から見ると、それは細い身体に不釣り合いに膨れ上がった下腹を持っている事が分かった。細い足を幹に食い込ませ、腹を押し付けるようにしてバランスを取っている。空いた両腕は絶えず何かを掴み、人間で言えば顔がある場所へと運んでいた。

 どこが臨界点だったのかは分からない。それを見てしまった時か、それが複数いると知った時か。とにかく私は振り向くと、一目散にその場から逃げ出した。虫網も懐中電灯も逃げる途中で投げ出してしまった。一瞬でも足を止めると暗闇からあの細い手がこちらを掴んできそうで、私はただひたすらに走った。どこをどう通ったかはまるで記憶にないが、いつの間にか私は家の自室で荒い息を吐いていた。首に掛けられた虫かごの紐が擦れたのか、首がわずかに熱をもって痛み、あの光景が夢でない事を嫌でも自覚させられた。


 翌日、私は途中で投げ捨てた懐中電灯と虫網の回収のため、再び森の中へと入った。当然あの黒い何かに遭遇するのは怖かったが、それ以上に懐中電灯を失くした事を父親に知られる事が恐ろしかった。

 なるべくあの場所に近づかないよう森の中を探し回ったのだが、結局それらが見つかったのはあの木のすぐそばだった。どうやら逃げ出そうとしたその瞬間にどちらも手から放していたようだ。

 帰る時にちらりと見た木の根元には、昆虫の足や触角がいくつもいくつも落ちていて、それらに蟻の群れが集っていた。私が胃のムカつきをおさえながら、そそくさとその場を去った事は言うまでもない。


 結局あれが何だったのかについては今でも分からずじまいだが、あれとよく似たものがいる事を大学時代に知った。細い手足に膨らんだ腹……なるほど、仏教で語られる餓鬼そのものの姿である。あの森のそばには寺があったはずだが、餓鬼と何か関係があるのだろうか? 調べようと思えば調べられるが、どうにも気が乗らない。まるで誰かにこれ以上詮索をするなと釘を刺されているかのような……そんな気持ちのまま50年以上過ぎてしまった。君が何かを知りたいと言うのなら止めはしない。だが、世の中には知らなくてもよい何かがあるのだと忠告はさせてもらおう。

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