第9話 棚から……

 昔、家にいた神様みたいな何かの話です。


 我が家のリビングには高さが2mほどの木の棚があったのですが、その最上段の左隅に、人間の頭ほどの大きさのものが鎮座していました。色は深緑色で、手触りは石のように硬いそれは、奇妙な事にどれほど力を込めようとも棚から離れる事はありませんでした。まるで棚と一つになっているかのように、ぴくりとも動かなかったのです。


 ですが時たま、それが棚を離れて床に落ちている事がありました。しかし落ちる瞬間を見た者はいません。他の部屋で何かをしていると、リビングの方からドチャっと大きな音がして、見に行くとそれが何食わぬ顔で床に転がっているのです。

 またこれが不思議なのですが、落ちた音はたしかに水分を含み粘ついた物のそれなのに、実際に触れてみると水気みずけの一つも感じられません。さらに棚にあった時と寸分違わぬ形状な上、今度は床にべったり張り付いてでも動かなくなるのです。そうして棚に戻すのを諦めた私たちが目を離した一瞬の隙に、再び棚の定位置に戻っている……というのが一連の流れでした。

 そしてこれが落ちると、家族の誰かに少し良い事が起こります。それは例えば、家に帰る前に買い忘れた物があった事に気づいたり、ガチャガチャを一回回したらちょうど欲しいものが出たり。本当に些細な事ですが、私がこの何かを"ぼたもち"とひっそり呼び始めたのも、その話を聞かされてからでした。今になって考えてみれば別にうまくも何ともないのですがね……。


 この何かは私が生まれる以前、両親が家を建てたばかりの頃から存在していたそうです。初めにぼたもちが現れた時はさすがに驚いたそうですが、元々使っていない棚の最上段の一部を占拠しているだけで特に悪さをしない事、そして棚から落ちた後は小さな幸運が訪れるという事に気づいた後は、家の神様のように扱っていたようでした。神様として扱うといっても、精々一週間に一度掃除をする程度でしたが。

 

 先に言った通り、ぼたもちが落ちる時は水を含んだものを落としたようなドチャっという音がします。けれどその日は違いました。私は2階の自室で本を読んでいたのですが、不意にドンガラガッシャンと大きな音が家中に響き渡ったのです。

 急いで音の発生源であるリビングに向かうと、床に落ちているはずのぼたもちが見えませんでした。というのも、ぼたもちのいる棚そのものが倒れていたからです。先程の音は棚とその中にあった賞状や写真立てが落ちたものだったようで、当のぼたもちはと言えば、棚の方に張り付いたままでした。幸い壊れた物もなく、棚を直しながら「こりゃとんでもなく良い事が起こるぞ」と父が笑っていたのを覚えています。


 ……それが〇月××日の事でした。ピンと来たかもしれません。そうです、あの大地震の前日です。家族は4人とも無事でしたが、まだ小学生だった弟は親戚の家に預けられ、再び家族が揃うまでに長い時間がかかりました。それもつい最近の事ですが、ようやくこうしてぼたもちに思いを馳せる時間も生まれたのです。


 今思えば、ぼたもちは棚から落ちる事で幸運を呼んでいたのではなく、棚から落ちる事で不運を避けていた、あるいは本来家族が受ける凶事を肩代わりしていたのではないでしょうか。そう考えてみれば床に落ちる度、ぼたもちの表面には細かい傷が増えていたように思います。そしてあの災害はぼたもちの力でもどうしようもない凶事で、床に落ちる事ができなかった。ですが落ちられないまでも棚ごと倒れる事で、出来る限り家族を守ろうとしたのだと私は信じています。


 震災の後、家だった場所からぼたもちは見つかりませんでした。バラバラになった棚は見つかったのですが、どこを探してもあの深緑色の塊を見る事は叶いませんでした。消えてしまったのか、どこかほかの場所に行ったのか、それは分かりません。ですが、新しい家に置かれた棚は今でも最上段を空けてあります。

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