第8話 夜の隣人

 マンションに住んでいた頃の話。

 俺の部屋は4階の右から2番目だったんだけど、実質角部屋だった。俺の部屋の右隣、要するに右端の部屋がずっと空き部屋になっていたからだ。

 立地的にも悪くないマンションで、家賃もそこそこ。なんでこんな好条件の物件の部屋が埋まらないのかと最初は不思議に思っていた。理由はすぐに分かったけど。


 その部屋、出るんだよ。毎日深夜2時ごろになると、階段の方から足音が聞こえてくる。ホラー映画の幽霊のように猛スピードで駆け上がってくるわけでもなければ、ハイヒールや革靴みたいな特徴的な靴音をさせて上がってくるわけでもない。普通の人間と変わらないペースで、スニーカーが階段を叩く小さな音が近づいてくる。階段を上がりきった靴音はそのまま空き部屋にまっすぐ向かい、そしてちょっと錆びたドアの開く軋んだ音がして、それで終わり。あまりに自然すぎて、最初はそれが幽霊だとは考えなかった。あー、新しい人がいつの間にか入居してたんだなー、挨拶しとかないとって思うだけ。それで翌日確認してみると相も変わらず空き部屋。それを何回か繰り返して、ようやく異常さに気づいたってわけ。


 本当にただ足音がするだけで実害は全くないけど、たまに足音が2種類聞こえる時もある。ある時は湿った何かが這うようなズルズルという音、またある時はコンクリの床を打つ硬い足音が数十人分も(何人もいるのか、あるいは多足なのか。多分後者な気がする)、珍しいのだと木魚を叩く音とかもあった。そいつらもスニーカーに先導されるようにして隣の部屋に入っていく。隣室の主(?)が何者かを連れ込んでいるんだろうな。

 

 この話をすると真っ先に言われるのが「よく引っ越さなかったな」なんだが、しつこく繰り返すけど"音"だけなんだよ。変な臭いもしないし壁やドアをどんどん叩かれる事もない。深夜2時に階段を上ってきて、隣室のドアを開けるだけ。もし俺がもうちょっと健康的な学生だったら、そのマンションを出るまで気づきもしなかっただろうな。それだけのために好立地割安家賃の物件を出るなんてあり得ない。


 とまぁそんなわけで、隣が幽霊部屋である事が発覚してからも俺はそのマンションに住み続けていたんだが、慣れと言うのは恐ろしい。幽霊部屋に気づいた当初は足音が聞こえる度にびくびくしていた俺は、二か月経つ頃にはそれを意にも介さなくなり、半年経つ頃には逆に隣室の主に興味を持つようにすらなっていた。果たして彼(彼女)はどういう姿をしているのか、なぜ毎日決まった時間に現れるのか、部屋に入った後は何をしているのかetc.etc...


 触らぬ神に祟りなし、なる金言がある。あるいは藪をつついて蛇を出す、か。得体の知れないものには不用意に触れるべきではないというのは至極当たり前の話だが、しかし当時の俺はバカな大学生。話のいいネタになる程度の気持ちで、隣人観察作戦を実行に移してしまった。

 まぁ、作戦と言っても大したことはしていない。隣室の主が俺の部屋の前を通るタイミングを見計らって、こっそりドアスコープを覗き込むだけだ。

 特に用意するものもないので、思いついたその日に決行。ワクワクしながらドアの前に陣取ってその時を待つ。


 ―—タッ……、タッ……、タッ……


 ――来た!

 階段を上がりきった足音が少しずつこちらに近づいてくる。俺が音を立てないようにドアスコープに目を押し当てると……もうそこにいた、つーかこっちを見てた。

 半袖の白いワンピースを着たそいつには、髪も眉も無い。代わりに鼻の下からおでこの方まで目が縦にびっしり並んでいた。ほとんどの目は瞬きしたり辺りを見回したりてんでバラバラに動いていたんだけど、真ん中―—普通の人の目の位置にある2つだけは、眼球が零れ落ちるんじゃないかってくらい見開かれてこっちを凝視していた。


 そこで俺は気絶してしまったようで、次に目を覚ました時にはなぜか管理人のおっさんがそばにいた。どうやら異臭がするとのことで同じ階の住人から苦情が入り、インターホンを押しても応答がなかったため合鍵を使って部屋にはいったところ、玄関ですげぇ悪臭を放つ俺が倒れているのを見つけたという流れらしかった。

 

「お前、見たな?」


 昨日見たものが夢か現実かを考えていると、おっさんが不意にそう聞いてきた。唐突だったが、おそらくあの女の事だろうと思った俺は正直に頷く。


「なら今日中に必要な物だけ持って出ていけ。1週間くらいならこっちでビジネスホテル取ってやるから、その間に引っ越し準備をしときな」


 やけに手慣れた様子でホテルに電話をかけ始めるおっさん。その様子をみるに、俺の前にも似たようなことがあったんだろう。


 それから数時間経った後、身支度を整えた俺はホテルに行く前に管理人室に寄る事にした。あんなものを見てまだこのマンションに居座る気はなかったが、どうしてもあの女の正体は気になる。

 出てきたおっさんは露骨に嫌そうな顔をしたものの、下手に隠すのも逆効果だろうって知っている事を教えてくれた。


 いわく、あれが何なのかは不明。数年前から突然現れるようになった。お祓いも大して効果なし。その時にお祓いをした霊能者が言うには、あの女に危険性はないが、彼女が連れてくるモノ(たまに聞こえる別の足音か?)がまずい。女に悪意は感じられないため、特定の相手の下に厄介な悪霊を送りつける呪いの一種ではないかとのこと。俺からしていた悪臭はおそらくマーキングで、マンションから離れなければ次は俺のところにあの女が来るらしい。


 え、マンションを離れるだけでいいの? ほんとにそれで大丈夫?

 

 俺が口に出しかけていた疑問を遮るようにおっさんは言った。


「大丈夫大丈夫。今まで何人か同じような奴がいたけど、今のところは特に何もないから。それに、一番執着してる奴はまだあの部屋にいるらしいし」


 どーゆーこと?

 実際そのマンションから離れて以降はあの女を見ることは無かったけど、今でもモヤモヤしている……。もし気になった奴がいたら調べてくれ。場所は千葉県の某大学近くにあるオレンジ色のマンションだ。

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